銀鏡神社:常世ニ降ル花 石長雨月篇 06

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世の中では、女神といえば、アマテラスさんとか、セオリツ姫さんとか、コノハナサクヤ姫さんなどがたいへん人気のようですが、だからこそ僕は伝えよう。
「イワナガ姫、そなたは美しい」と。

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宮崎のど真ん中を流れる聖なる川「一ツ瀬川」。
この下流にはセオリツ姫コノハナサクヤ姫も祀られているわけですが、その最上流、最も高みに坐します女神が、「銀鏡神社」(しろみじんじゃ)の「磐長姫」(いわながひめ)となります。

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遠いんだよね、ここ。
久々に来たわ。

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神話は全くひどいもので、妹のコノハナサクヤ姫と一緒にニニギに嫁入りしたのだけれど、イワナガ姫は不細工だと親元に突き返されたというお話。
人麿も安万侶も、そこに正座しなさい。

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ニニギに嫌われたイワナガ姫。彼女は深く嘆き悲しみ、父・大山祇より譲られた鏡を取り出して自分の姿を映すと、その姿は醜悪にしてあたかも龍のごとく見えたのでした。
イワナガ姫が鏡を投げ捨てると、鏡は龍房山の頂上の木に引っかかったので、その山は鏡山とも呼ばれるようになりました。
鏡は光り輝き、西の麓の村を明るく照らし、夜中も昼のようだったので、そこは白見村と言う様になりました。
その鏡が銀の鏡だったので、やがて村に「銀鏡」(しろみ)の名がついたと伝わります。

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龍房山(りゅうぶさやま)というのは、標高1021mの尾根がギザギザっとなった北の奥の山で、確かにあの頂上に鏡があれば、太陽を反射して銀鏡の里を明るく照らしたかもしれません。

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僕が前回、銀鏡の里を訪ねたのは、12年前の2013年のこと。
当時はすごく寂れた、辺境の地に来たという印象でした。

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しかしその後、銀鏡神社も改修され、道は細いままながらも、里全体が小綺麗になったように感じます。

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前回参拝時は、銀鏡神社は廃神社寸前といった雰囲気でしたが、今は全体的にとても綺麗に、新しくなっています。
氏子さんたちが、かなり頑張られたのだと思います。

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改めて境内図を見ると、こんなに立派な神社だったのですね。

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銀鏡神社は神奈備・龍房山と2枚の鏡が御神体として伝わります。

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祭神は「磐長姫大神」(いわながひめおおかみ)、「大山祇大神」(おおやまつみおおかみ)、「懐良親王」(かねよししんのう)の3柱です。

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神体の2枚の鏡とは、磐長姫の「銀の鏡」と懐良親王の「割符の鏡」となっています。

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懐良親王(かねよししんのう)は後醍醐天皇の息子で、南朝の征西大将軍・征夷大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた人でした。
後醍醐天皇より割符のため譲られた鏡が菊池家に伝わっており、それが御神体のひとつになっています。

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当社の創建は長享3年(1489年)3月16日と伝わり、銀鏡の住人である源氏・米良兼続という者が龍房山に登り、鏡を取り下り敬守していたが、後に領主石見守米良重続公に奉納し、前記割符の御鏡と合祀して銀鏡神社が建てられた、ということのようです。

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改めて銀鏡神社を訪れてみると、しっとりとして、水の氣配を感じさせる、とても心地よい聖地であることがわかります。

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イワナガ姫を単体の主祭神として祀る神社は少なく、あったとしても、コノハナサクヤ姫を祀る神社に相対する形で置かれているといった印象です。
銀鏡神社も、一ツ瀬川下流にあるコノハナサクヤ姫を祭神とする都萬神社に相対するように見ることができますが、都萬神社は別記事で書きますが、本来の祭神はコノハナサクヤ姫ではなかった可能性を感じます。
それに銀鏡神社のイワナガ姫の方が、より高い上流に祀られているのです。

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その点でも、ここが古来から、イワナガ姫を単体で祀る最たる聖地であることが分かります。

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前回参拝時は、戸が開け放たれた開放的な拝殿でしたが、老朽化が激しく、今にも倒れそうな感じでした。
今は堅牢な、綺麗な拝殿になっています。

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本殿は当時のままのようで、侘びた趣を残しています。

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その風格から、大切に守り続けてきた村民・氏子さんたちの想いが伝わります。

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当地周辺は、縄文時代から土着民が生活を営んでいたと考えられており、古来から龍房山は神の宿る山として祀られていました。

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銀鏡神社の本殿の場所はその遥拝所であり、社殿が創建される前は、生い繁っていた樹齢700年以上のイチイ樫が御神木だったということです。
その御神木は昭和5年(1930年)に倒伏したため、本殿の左奥に根株が安置されています。

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境内横の「銀鏡さるた古道」という小道にも、樹齢300年を越える巨大なイチイ樫の木があるとのことでしたが、どれのことかよく分かりませんでした。

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この木の上からは今でも山の神「カリコボーズ」の声が聞こえてくるそうで、「カリコボーズの宿り木」と呼ばれているのだそうです。

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イワナガ姫は鏡を投げ捨てたあと、一ツ瀬川を遡り、現在の西米良村の小川地区へと至りそこで生涯を終えたとされます。
村人が田を開墾した際、できた米が美味しく、姫が「良米」(よねよし)と喜ばれたことから「米良」(めら)という地名が生れたと伝わります。

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つまるところ銀鏡の里は、イワナガ姫の生まれの里で、終の里が米良であった、ということでしょうか。

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ここに並んだ境内社に気になるものがあります。
若宮社とは基本的に、祭神の子神を祀るものですが、そこに「加茂建都美」の名前があります。
カモノタテツノミは、賀茂家の祖にして八咫烏と称されることもある人物ですが、富家伝承では出雲系大和族「登美家」の当主だったと伝えられます。
そして銀鏡神社の社家は宇佐由来であると、この境内社は語っていました。

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イワナガ姫は、『古事記』では「石長比売」、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では「磐長姫」と表記され、他に苔牟須売神とも称されます。
コノハナサクヤ姫が「花のような繁栄」を象徴する名であるのに対し、イワナガ姫は「岩の永遠性」を象徴します。

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記紀ではニニギは、イワナガ姫を父・大山祇神の元に返したとありますが、伊豆系・大室山、あるいは伊予・阿奈波神社の伝説では、父の元に送り返されたときに姫はニニギの子を懐妊しており、産屋を作って出産したと伝えられます。

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また人麿は、『古事記』に八島士奴美神と結婚する木花知流比売(このはなちるひめ)の話を記していますが、この姫神は大山祇神の娘で、イワナガ姫の別名であるとする説もあります。

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当地の上流域にある「米良」という地名ですが、登美家の祖にして鴨家の太祖である天日方奇日方(あめのひかたくしひかた)の妃が、西出雲王家のアジスキタカヒコの娘「美良姫」であり、彼女の名が由来ではないか、と僕は感じました。

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つまり米良の里は、神門系のサンカが作った村なのではないかと想像します。

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対して銀鏡という名前ですが、元は「白見」であったとのこと。
白山、白川、白水など、”白”をイメージカラーとする古代一族がいた可能性を僕は考えていますが、この”白”は”月”、あるいは”常世”を指すのではないか、と考察します。
であれば、”白見”とは”月見”であり、”月読み”が語源ではないかと思うのです。
銀鏡の里とは、月読みの里ではなかっただろうか、と。

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イワナガ姫は不老長生の神としての特性から、越智族の血を引く姫ではなかろうか、というのも僕の考察ですが、当地に伝わる神楽にも興味深いものがあります。

当地の神楽は「米良神楽」と呼ばれ、「銀鏡神楽」とも呼ばれています。
米良神楽は鵜戸門流といわれ、天和年間(1681~1684年)のころ、銀鏡の浜砂淡路守重賢が鵜戸山道場に出仕して、「鵜戸神楽」「鵜戸鬼神」などの番付を習得したと伝えられています。

銀鏡神社の大祭は、12月12日から16日まで行われ、神楽は14日の夕方から15日の午後まで奉納されます。
それに先立って13日の夕方に舞われるのが、式一番の「星の舞」です。
銀鏡の里では、「星の神が来ないと神楽はできない」といい、星の舞で星神を招致してから、周辺の「宿神社」(しゅくじんじゃ)、「六社稲荷社」、「手力男社」「若男社」(鹿倉社)、「七社稲荷社」から神々を迎える「神迎え」の儀式が始まります。
この星の舞を一番に舞うところが、米良神楽が「星の神楽」と呼ばれる所以でもあります。

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また後半に舞われる「シシトギリ」は、神楽の中に独特の狩言葉や狩法神事(かりほうしんじ)が伝承されており、外神屋とよばれる舞殿の祭壇には、神への供物として猪の生首が捧げられるのだといいます。

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銀鏡神社大祭、および神楽は、本来旧暦の12月12日から16日まで行われていたとのことですが、これはその年の最後の満月の日を示しています。
銀鏡の里はやはり、縄文の古代から、命の循環を祭祀してきた氣配を感じるのです。

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3件のコメント 追加

  1. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

    以前一ツ瀬川を都萬神社から穂北神社・速川神社・速開都比売神社と遡った先、また随分綺麗になりましたね。
    映画「銀鏡」が4年前から各地の映画祭等で公開され、訪れる方も増えたようでそれに合わせてかもしれません。
    奥に白水の滝などもあり、”白”が重要なワード、やはり月読みでしょうか☺️
    神門の影がチラホラとなると放っておけません🤭

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      映画の影響は大きいみたいですね。
      それまではほとんど知られることのなかったように思われますが、近年ではちらほら、周りでも銀鏡神社の話をする方がいらっしゃいます。
      月読みであろうとは思いますが、星神信仰もあるのが面白いと思いました。
      月を読むには、星読みもまた不可欠なのかもしれません。

      いいね: 1人

      1. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

        はるか昔の物部星信仰、さらに月読みが入れば都万・豊王国時代を思い出させます☺️ 
        神楽は星の話ですがその起源は17世紀で鵜戸山-竜房山信仰とつながり🤔 
        17世紀頃の鵜戸山は習合時代で高野山真言宗でもあり、真言宗の異端として「星の道場」が兵庫県に現存し神社と共同で今も習合祭祀を復古させていることは近いものを感じます。

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