都萬神社:八雲ニ散ル花 42

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「物部の王イニエよ、そなたの申し出を謹んで受けよう。我は其方の后とならん。」

『三国志』「魏書」には、次のように記されている。
「そこ(伊都国)から東南に向かって行くと、奴国に到着する。伊都国からの距離は100里である。
そこから東に行くと、不弥国に到着する。距離は100里である。
…南の方に行くと、投馬国に到着する。船で行って20日かかる。…5万戸余りの人家がある」

「伊都国」とは糸島郡、「奴国」とは那ノ津、「不弥国」は筑前国穂波郡、
そして「投馬国」とは宮崎西都原の「都万国」のことである。

物部王イニエは筑紫の王国を出発し、薩摩半島を経由して宮崎の都万国に至り、そこに都万王国を築いた。
そして宇佐の豊玉姫に后となるよう求めたのだった。
東に遠く、日の本の中央「大和王国」への東征を含んだ彼の申し出は、姫の望みにも叶っていた。
姫はイニエ王の申し出を受け、都万王国に入ることにした。

これにより、いわゆる「都万・豊」連合王国がここに誕生したのだった。
イニエ王は第2次物部東征を行い、先の失敗を踏まえ、大和に真の物部王朝を打ち立てることを宣言した。
これを受け、肥前国・筑紫国の物部族、西日本の豪族たちが都万王国に移り住んだ。

大和に住んでいた物部関係の者たちも、続々と都万に移住してきた。
その中にはクニクル大王の子「フツオシマコト」(布都押信)もいた。
彼はイニエ王の重臣となった。
彼の息子「武内大田根」も、紀伊国から一緒に移住した。
大田根は物部重臣の称号「宿禰」をもらい、「武内宿禰」と呼ばれた。
また「物部十千根」も、移住者の中にいた。
十千根は、第1次物部東征で大和に行った、いわゆるウマシマジの子孫であった。

こうして都万王国の人口は爆発的に増えた。
それは「魏書」に大和に次ぐ、和国第2位の人口密集地帯と記されるほどであったという。
やがて人々はその王国を西の都「西都原」と呼ぶようになった。

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天孫「邇邇芸命」(ニニギノミコト)がひと目で恋に落ちた、その名も麗しい美姫、「木花開耶姫」(コノハナサクヤヒメ)を祀る「都萬神社」(つまじんじゃ)が、宮崎県西都市の一角にあります。

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二人の出逢いは、記紀神話の中でも、最もラブロマンスなストーリーの一つ。
女子力アップ、恋愛成就に霊験高々な神社として注目を浴びている当社ですが、僕の妻は、知人の3人がここを訪れ、その後すぐに恋愛を実らせたと話していました。
霊験、っぱないです。

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ここは邇邇芸命と木花開耶姫がご成婚した所と伝わり、日本で初めて「華燭の式典」が行われた地と云います。
なので究極の恋愛成就スポットとなっているようです。

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神話にいう邇邇芸命は物部「印恵王」(イニエ)のことであり、木花開耶姫は薩摩の「阿多津姫」(アタツヒメ)であると、富家の伝承は伝えています。
イニエ王とは『日本書紀』では「御間城入彦五十瓊殖天皇」(ミマキイリビコイニエノスメラノミコト)、『古事記』では御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト)と記される人です。
また四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めて国家体制を整えたことから御肇國天皇(ハツクニシラススメラノミコト)と称えられる第10代「崇神天皇」(すじんてんのう)その人です。

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崇神天皇は大和の大王のように記されていますが、結果から言うと、彼は死ぬまで、九州から出ることはなかったと云います。
232年頃、北部九州・物部王国のイニエ王は、先の失敗を踏まえ、第2次物部東征を決意しました。
王は、まず東九州へ向かい、その地で兵力を蓄えることを考えました。

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それまで物部勢力は、大型の銅矛を豪族に配っていましたが、それを溶かし矢尻を多く作って武器としました。
さらに鉄の槍の刃先を大量につくり、強力な軍隊を作り上げたそうです。

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そして東征のために有明海を南に向い、薩摩半島の西岸、笠沙の岬で、美しい乙女に出逢います。
彼女は阿多の豪族「竹屋守」の娘で、アタツ姫と呼ばれました。

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記紀神話では、木花開耶姫の父「大山津身神」は姉の「岩長姫」も一緒に妻に迎えてくれ、とニニギに差し出しました。
しかし醜女だった姉を、ニニギは父に返してしまいました。
「もし姉を返すならば、あなたは短命になるであろう」と言った父の警告通り、天孫家は以後、短命になっていったと記されています。

そして実際のイニエ王とアタツ姫も、共に早く世を去ったと云います。

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境内に立派な御神木があります。

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この御神木の下に小さな泉がありますが、

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「出産河」(しゅっさんご)とあるので木花開耶姫の産湯跡と伝わる井戸であろうかと思われます。

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都萬神社付近は古墳を始め、邇邇芸命と木花開耶姫にまつわる様々なスポットが散策できるようになってます。
神社のすぐ前にある「御舟塚」は、ここに邇邇芸命がやってきて、船を繋いだところだそうです。
ということは、この付近まで太古は海だったのでしょうか。

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大きな池に沿って歩いてみます。

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二人が出逢ったと伝える「逢初川」(あいそめがわ)がありました。

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アタツ姫は、イキメの地(宮崎市生目)で長男を生みました。
彼はイキメで生まれたので、「イクメノ御子」と呼ばれます。
しかし御子を産んだ後、アタツ姫は早世してしまいました。

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アタツ姫は都万の都で没したことから、都萬神社に木花開耶姫として祀られています。
その後イニエ王は、豊国の宇佐豊玉姫と再婚し、都万を都としました。
その結果、都万・豊連合王国が誕生します。

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第1次物部東征は、巫女のいない物部勢力が、磯城・大和政権の三輪山太陽神の巫女の権威に取り込まれ、失敗したと言えます。
物部の信奉する神は道教の星の神「天津甕星」(アマツミカボシ)、または「天香香背男」(アマノカガセオ)と呼ばれる神でした。
しかし星神は大衆の人気を得るには力不足だったのです。
九州では、宇佐の月神の信仰が人気があって、宇佐家を中心に豊王国が形成されていました。
その宇佐の姫巫女「豊玉姫」を后に迎えることは、東征を行う上でイニエにとって、とても魅力的なことだったと云います。
イニエ王と豊玉姫が率いる都万・豊連合王国の噂は、大和にまで伝わり、各地から移住する人が増え、家屋が5万戸に至るほどに増大した都万の都は、西都原まで広がっていきました。
しかしその矢先、イニエ王も他界してしまうのです。

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逢初川のそばに「八尋殿」(やひろでん)跡があります。

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神話で新婚の二人が過ごした屋敷跡と伝わります。
実際にイニエ王とアタツ姫が暮らした場所なのかもしれません。

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また少し進むと「無戸室」(うつむろ)跡がありました。

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不義を疑われた姫が、身の潔白を証明するため、業火の中で出産をしたと云われる場所です。

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さらにその先の「児湯の池」は、木花開耶姫が産み落とした三人の子の産湯に使った池と伝わっています。

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当時、東に大和の和邇地区に磯城王朝があり、西に都万物部・豊王国があり、両王国が対立していました。
大王家の「万世一系」を目論んだ記紀の製作者は、九州にいたイニエ王の話を、大和王国の10代「崇神天皇」であると偽った上で、ニニギから山幸彦までの神話に変えてしまいました。
また形式的とはいえ魏国の属国の王となった「親魏和王・豊玉姫」を嫌い、その存在も神話に変え、宇佐神宮を始めとした各地の痕跡を消してしまいました。

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記紀の執筆者は権力者・製作者の意向に逆らうことはできませんでしたが、国民のために、密かに重要な史実は伝えたいと考えました。
豊玉姫は龍宮の乙姫と書き換えられ、姫の息子「豊彦」は「ウガヤフキアエズ」として記されます。
姫が海に関係していること、その正体が「鰐」(わに)として描かれていることは、宇佐家が出雲系宗像社の姫の血を受けていることを暗示していると云います。
アタツ姫の御子「イクメ王」と豊玉姫の御子「豊彦」と「豊姫」が、海家が築いた大和王朝を攻める様子は、「山幸彦」と「海幸彦」の神話に変えられ、史実を今に仄めかしていました。

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