淀姫神社群・是善王宮:常世ニ降ル花 アララギ遺文篇 番外

投稿日:

9281128-2020-10-2-13-30.jpeg

福岡から佐賀にかけて点在する淀姫神社群をざっと思いつく範囲で巡ってみました。
過去に巡った関連する神社はこちらです。
武雄の淀姫神社
嬉野の豊玉姫神社
與止日女神社
與止日女神社奥宮

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281112-2020-10-2-13-30.jpeg

改めてグーグルマップで検索してみると、身近なところに淀姫神社がありました。
福岡市南区の塩原にある「淀姫稲荷社」です。

9281113-2020-10-2-13-30.jpeg

住宅街の奥まったところにポツンと鎮座。

9281116-2020-10-2-13-30.jpeg

由緒・祭神など一切不詳だとのこと。
稲荷社にも見えず、近くに那珂川が流れているあたりは、やはり豊系の神社ではなかろうかと思われますが、確信もなし。

9281117-2020-10-2-13-30.jpeg

すぐそばにあった熊野神社にも立ち寄りました。

9281120-2020-10-2-13-30.jpeg

奥に石祠が確認できます。

9281122-2020-10-2-13-30.jpeg

本殿裏にある立派な御神木が神体でしょうか。

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281126-2020-10-2-13-30.jpeg

那珂川を遡って「伏見神社」を訪ねます。
なぜなら祭神は「淀姫命」になるからです。

9281127-2020-10-2-13-30.jpeg

拝殿が新しく改築されていました。

9281129-2020-10-2-13-30.jpeg

当社に奉納されている数々の絵馬に圧巻です。

9281130-2020-10-2-13-30.jpeg

由緒では淀姫は神功皇后の姉で、干珠・満珠操って潮の干満を操り、神功皇后の戦を助けたと伝えています。
淀姫や豊姫がいたるところで、神功皇后の姉だとか妹だとか、武内宿禰の妻だとか伝えられていますが、それは些細なこと。

9281131-2020-10-2-13-30.jpeg

ここにも鯰の話が伝わっていました。
皇后が自分の馬の鞍に飛び乗ってきた魚をみて、それを「なまず」と名付けました。
戦に際しては皇后の軍船を無数の鯰の群れが取り囲み、水先案内をして戦勝したと云うことです。

9281134-2020-10-2-13-30.jpeg

これは鯰族、つまりは蒲池族がオキナガタラシ姫の作戦に参加した、ということでしょう。
かつ、淀姫は干珠満珠を操る一族、豊家の姫巫女だったのです。

9281133-2020-10-2-13-30.jpeg

ともあれ、蒲池族の勢力が那珂川にまであったことを当社は示しているものと思われます。

9281135-2020-10-2-13-30.jpeg

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281137-2020-10-2-13-30.jpeg

佐賀市富士町の上無津呂にある「淀姫神社」です。

9281136-2020-10-2-13-30.jpeg

すぐそばを清流が流れます。

9281139-2020-10-2-13-30.jpeg

境内入り口に、狛犬のように鎮座する二つの石。

9281140-2020-10-2-13-30.jpeg

二つとも、ちょっと爬虫類を想起させます。

9281142-2020-10-2-13-30.jpeg

祭神は「豊玉姫命」「玉依姫命」「高皇産霊神」「猿田彦命」「句句之智命」「保食神」「大山祇命」「新田義貞」「鎌倉景政」。

9281143-2020-10-2-13-30.jpeg

創建の年代は詳かではないが、文久3年(1863年)9月に1350年祭の執行があった記録があると云います。
これから推して6世紀前半「継体天皇」の御宇の勧請であろうと察せられています。

9281146-2020-10-2-13-30.jpeg

「正親町天皇の永禄4年(1561年)領主神代勝利、仝長良の父子兵を率いて川上に陣し、龍造寺氏と戦った。
戦いに敗れて此の地に走り来って救いを求めた。
社人賀村大和守舎種は神代父子を社内に匿くし、俄に村民を集めて、大祭の態をして、神楽を奏して居た。
追兵が来て、探索したけれども見付け出すことが出来ず、怒って火を放ったので社務所並に文書等はその時焼失したけれども社殿には及ぼないで、神代父子は無事にのがれることができた。
追兵が退いて後、神恩の大であることを謝して、即座に佩刀2振を奉った。
後神埼郡三瀬に帰城するや、田7町5反余を奉納して神代家鎮護の神と仰いだ。」
と由緒にあります。

9281147-2020-10-2-13-30.jpeg

明治6年(1873年)郷社に列せられ、祭神高皇産霊神外六柱の神は無格社合祀によって追加したとのこと。

9281148-2020-10-2-13-30.jpeg

つまり当社祭神は紛うことなき「豊玉姫命」と「玉依姫命」ということ。

9281150-2020-10-2-13-30.jpg

社殿の右奥に、樹齢約280年のムクの木が見えます。

9281149-2020-10-2-13-30.jpeg

その根本には

9281152-2020-10-2-13-30.jpeg

馬の石像と、

9281153-2020-10-2-13-30.jpeg

ありました、鯰の像。

9281155-2020-10-2-13-30.jpeg

淀姫と豊玉姫、そして鯰の蒲池姫がここで微妙に交差しています。

9281151-2020-10-2-13-30.jpeg

随分内陸にありますが、単に龍宮の姫を祀ったにしては不自然です。

9281157-2020-10-2-13-30.jpeg

ここに祀られていたのは、親魏和王の豊玉女王だったのでしょう。

9281158-2020-10-2-13-30.jpeg

当社のすぐそばに吉村家住宅なるものがありました。

9281159-2020-10-2-13-30.jpeg

足を向けてみれば、なるほど趣のある古民家です。

9281160-2020-10-2-13-30.jpeg

年代が明らかな住宅としては県内で最古とのこと。

9281163-2020-10-2-13-30.jpeg

築年数は200年が経過しているようです。

9281162-2020-10-2-13-30.jpeg

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281166-2020-10-2-13-30.jpeg

さて今度は頑張って伊万里まで移動します。

9281171-2020-10-2-13-30.jpeg

伊万里の田園の中に建つ「淀姫神社」。

9281169-2020-10-2-13-30.jpeg

こちらも川沿いに鎮座しています。

9281174-2020-10-2-13-30.jpeg

鳥居の前には狛犬ではなく、なぜか狛鯱。

9281175-2020-10-2-13-30.jpeg

伊万里だけあって、さすがの陶器製ですが、盗難よけの金網が残念極まりなし。

9281176-2020-10-2-13-30.jpeg

当社は「河上社」または「河上宮」とも呼ばれています。

9281177-2020-10-2-13-30.jpeg

昔は「河上三社大明神」と呼ばれていましたが、明治5年の社格制定時に與止日女命を主神とすることから淀姫神社と改称されたとのことです。

9281180-2020-10-2-13-30.jpeg

祭神は「與止日女命」(よどひめのみこと)を主祭神とし、後代に「建御名方神」「菅原道真公」を合祀しています。

9281181-2020-10-2-13-30.jpeg

建御名方神は、今から千年以上前に合祀され、

9281182-2020-10-2-13-30.jpeg

当社は第29代欽明天皇の御代24年(563年)に鎮座したと伝えられています。

9281184-2020-10-2-13-30.jpeg

古くは「末羅県鎮守の霊場」と謳われ、松浦川の鎮守の神であったので「河上社」と呼ばれたようです。

9281192-2020-10-2-13-30.jpeg

『淀姫神社(河上大明神)由緒記』を見ると、「淀姫大明神は豊姫命と云い又の名を豊玉姫命とも云います。」とあります。
あとは「海神大綿津見の神の娘云々」と記紀にあるような紹介が続きます。

9281196-2020-10-2-13-30.jpeg

重要なことは、やはり淀姫は豊玉姫のことだと伝えられていたことでした。

9281193-2020-10-2-13-30.jpeg

佐賀の伊万里あたりは完全に物部の支配地でありましたが、そこに彼らの星神ではなく、いかに豊玉姫を祀った聖地が多いことか。

9281194-2020-10-2-13-30.jpeg

それはひとえに、邪馬台国の女王たる豊玉姫の人気ぶりを感じさせるものです。

9281203-2020-10-2-13-30.jpeg

本殿の方を覗いてみると、

9281204-2020-10-2-13-30.jpeg

いかにも女性的な、素敵な装飾が施されていました。

9281198-2020-10-2-13-30.jpeg

ところで当社には、面白い伝説がありました。

9281199-2020-10-2-13-30.jpeg

それは、化け物退治の物語です。

9281202-2020-10-2-13-30.jpeg

後朱雀天皇の御代・長久2年(1041年)、大川村・眉山に大きな岩があり、その下の何十丈あるか知れない深い穴の中に「獅鬼」という身の丈2丈余り(約6m)もある猛獣が棲んでいました。
獅鬼は里に出ては作物を荒らしたり、馬や牛を獲ったり、さらには人を喰い殺したりしたので、村人は夜も眠れない有り様でした。

9281207-2020-10-2-13-30.jpeg

村人はこの事を地頭へ訴えました。
この頃の地頭「渡辺源太夫久」(わたなべげんだゆうひさし)は武勇に優れた人で、その子「竈江三郎糺」(かまえさぶろうただす)らと共に獅鬼退治に出かけることになりました。

9281209-2020-10-2-13-30.jpeg

源太夫は大木の生い茂った中を真っ先に立ち陣太鼓を打ち鳴らして獅鬼を狩り立てましたが、二丈にあまる獅鬼の暴れ回る凄まじさはたとえ様もありません。
しだいに大風が起こり、空一面に霧がかかりはじめました。

9281208-2020-10-2-13-30.jpeg

木の根・岩を踏み荒らし、赤い眼を怒らせ、炎のような真っ赤な口から血のしたたりそうな舌を吐きながら人々に向かって来る姿は、身の毛もよだつ凄まじい猛牛でした。
村人もただ騒ぐばかりでそばへ近寄ろうとするものさえいません。
それでも源太夫は声をあらげて人々を励まし、懸命に狩り立てました。

9281210-2020-10-2-13-30.jpeg

そのとき、不思議にも社の扉が開き、白羽の矢が飛んで来て獅鬼の頭に命中しました。
獅鬼は山谷に轟く大声をあげてのた打ち回ってなんとも云えぬもの凄さです。
源太夫はこの時とばかりに村人と一斉に討ちかかり、とうとう獅鬼をたおしました。

9281211-2020-10-2-13-30.jpeg

これはまさしく神が矢を放ち、災いを退けなさったのだと考えた村人らは獅鬼の頭を社の近くに埋め、後代にこの事を伝え残しました。

9281214-2020-10-2-13-30.jpeg

この獅鬼の頭を矢で射ぬいたのは、当社祭神の一柱である諏訪大明神「建御名方」であると云われています。

9281186-2020-10-2-13-30.jpeg

さて、参道の中ほどにある石碑群に、とても興味深いものを見つけました。

9281191-2020-10-2-13-30.jpg

この月形の石はもしやっ!

9281187-2020-10-2-13-30.jpeg

いや、なんと紛らわしいこれは「松尾芭蕉句碑」でした。

天保7年(1836年)丙申9月
春もやや 氣しき然と能ふ 月と梅

9281190-2020-10-2-13-30.jpeg

側面には俳人二十数名の名前が刻まれており、江戸時代の俳諧が盛んなころに、芭風を慕う人々が建立したものと思われています。
この句は、月光の艶と梅花のほころびで、春の気色が淡々としている様子を詠んだものといわれているそうです。

9281215-2020-10-2-13-30.jpeg

帰り際、つい見過ごしそうになりましたが、「牛神社」「埋牛塚」、または「うしがみさん」と呼ばれる塚があります。
これが獅鬼の頭が埋められた塚なのだそうです。
後に猛牛の災いで悪いことが続き、悪病が流行したので、5月の丑の日に「牛祭」を行うようになったとのこと。
獅鬼とは牛鬼だったのでしょうか?
そういえば鬼太郎で土蜘蛛のような姿で描かれる牛鬼ですが、水神の化身ともされます。
土蜘蛛族と豊玉姫も深いつながりがあるのですが、獅鬼とはあるいは、そうなのかもしれません。

9281205-2020-10-2-13-30.jpeg

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281225-2020-10-2-13-30.jpeg

佐賀県小城市三日月町にある「淀姫宮」です。

9281227-2020-10-2-13-30.jpeg

入口に立つ肥前鳥居は町内最古 元禄13年(1700年)建立だということです。
しかしそのほかの情報はほぼつかめていません。

9281228-2020-10-2-13-30.jpeg

どっしりと根をはる銀杏の御神木が印象的。

9281229-2020-10-2-13-30.jpeg

当地は古文書に「四方平地ニ連ナリ分寸ノ高低ナシ」とある平坦農耕地帯となっており、東西を川に挟まれた中洲のような地形となっています。

9281231-2020-10-2-13-30.jpeg

そのため、大雨による水害との苦闘を繰り返してきた歴史があるそうです。

9281235-2020-10-2-13-30.jpeg

実際に当社も流された過去があり、今の社殿は再建されたものだそうです。

9281234-2020-10-2-13-30.jpeg

ここに淀姫が祀られているのは、水神としての彼女の性質を重んじて、切実な祈りの結果であると言えるのかもしれません。

9281238-2020-10-2-13-30.jpeg

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281240-2020-10-2-13-30.jpeg

有明海をぐるり半周し、柳川の先、みやま市の江浦町にやってきました。

9281242-2020-10-2-13-30.jpeg

そこにも「淀姫神社」が鎮座します。

9281244-2020-10-2-13-30.jpeg

田園に囲まれたのどかな場所。

9281245-2020-10-2-13-30.jpeg

ノスタルジックな参道をてくてく歩きます。

9281246-2020-10-2-13-30.jpeg

石橋の先には侘びた神門。

9281249-2020-10-2-13-30.jpeg

今は水が枯れているように見えますが、かつては堀に水が満たされていたことでしょう。

9281250-2020-10-2-13-30.jpeg

祭神は、「豊玉毘賣命」と「天兒屋根命」「住吉三神」。

9281254-2020-10-2-13-30.jpeg

もはや検証するまでもありませんが、淀姫とは豊玉姫を祀ったものが、名を変えたのだと言えます。

9281253-2020-10-2-13-30.jpeg

これほど厚く信奉された、宇佐・豊王国の豊玉女王。
しかし彼らの子孫はその後、大いに栄えたものと、弾圧され続けたものに分かれることとなりました。

9281260-2020-10-2-13-30.jpeg

物部イニエ王と婚姻関係を結び、物部・宇佐連合王国となった両家は、ついに大和を目指して東征します。

9281256-2020-10-2-13-30.jpeg

しかしその途上で豊玉女王は病死。
残る子達、イクメと豊彦、豊姫らが意思を継ぐこととなります。

9281257-2020-10-2-13-30.jpeg

苦難の末、見事大和に王権を打ち立てたイクメと豊彦、しかしイクメは豊彦が疎ましく、王権を独り占めしたいと思ったのでしょう。

9281258-2020-10-2-13-30.jpeg

彼は豊彦を騙して東方討伐に向かわせ、そして大和から締め出したのです。
豊姫に至っては刺客を放ち、暗殺しています。

9281259-2020-10-2-13-30.jpeg

大和に偉大な女王の子らがいないことを知った当地の子孫たちはどう思ったか。
彼らのうちにふつふつと、物部王朝に対する怒りがこみ上げていったことは想像に難くありません。

9281255-2020-10-2-13-30.jpeg

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281261-2020-10-2-13-30.jpeg

みやま市山川町の山中にも「淀姫神社」がありました。

9281263-2020-10-2-13-30.jpeg

天空の神殿と呼ぶにふさわしい当社。

9281266-2020-10-2-13-30.jpeg

ここも祭神が「豊姫命」ということぐらいしか分かりません。

9281267-2020-10-2-13-30.jpeg

質素な社殿には、

9281268-2020-10-2-13-30.jpeg

すごく立派なシールドが装備されていました。

9281271-2020-10-2-13-30.jpeg

それにしても見事な景観。

9281272-2020-10-2-13-30.jpeg

あたり一帯はミカン畑になっていました。

9281274-2020-10-2-13-30.jpeg

c1d-2020-10-2-13-30.jpg

9281313-2020-10-2-13-30.jpeg

さて山川町の淀姫神社のその奥に、「是善王宮」なるものがありました。

9281316-2020-10-2-13-30.jpg

石段を登った先にある神社。

9281317-2020-10-2-13-30.jpeg

2本の木が、鳥居の代わりと言わんばかりにそびえています。

9281318-2020-10-2-13-30.jpg

是善王宮の祭神は、言うまでもなく「菅原是善」、道真公のお父様です。

9281323-2020-10-2-13-30.jpeg

道真公とは縁深い僕、ここは素通りできませんでした。

9281332-2020-10-2-13-30.jpeg

しかし社殿といっても拝殿と本殿が一体になっており、神体を収納するスペースのあまりの薄さに驚きます。
マンション設置用の神棚みたい。

9281324-2020-10-2-13-30.jpeg

と背後を見れば、立派な磐座が。

9281325-2020-10-2-13-30.jpeg

ああ、なんと出雲的なことでしょう。

9281328-2020-10-2-13-30.jpeg

たぶんこの背後の磐座が御神体ですね。

9281330-2020-10-2-13-30.jpeg

それにしても何故このような場所に、是善が祀られているのかは不明です。
豊家と関係があった、と言うことはないと思うのですが。

9281331-2020-10-2-13-30.jpeg

e6b780e5a7abe7a59ee7a4be-2020-10-2-13-30.jpge6b7a1e5b3b6e7a59ee7a4be-2020-10-2-13-30.jpg

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください