大分県竹田市米納に鎮座の「城原神社」(きばるじんじゃ/城原八幡社)を訪ねました。
長閑な集落にあり、境内の周りを堀が囲う情緒ある神社です。
手水は垣根の外にあります。
橋を渡って境内へ。
祭神は八幡社でありながら「景行天皇」となっており、南脇殿に「応神天皇」「神功皇后」を、北脇殿に「比売大神」を祀ります。
比売大神、そう比売大神です。
社伝では、当社は応神2年(391年)に行宮跡(城原八幡社上松原社地)に祠を設けたことに始まるとされています。
天安元年(857年)に八幡神が顕現したため、国司豊後守石川宗継が殿宇を造営してて八幡神を配祀し、城原八幡社と称するようになったと伝えられます。
また、源為朝が荒廃した当社を再興したと伝えられ、建久7年(1196年)に大友能直が豊後国に入国すると、豊後八幡七社のひとつとして大友氏の庇護を受けました。
『日本書紀』によれば、景行帝が景行12年(伝82年)に熊襲征討の折り、禰疑野(ねぎの)の土雲・打猨(うちさる)を討つために山を越えようとしたところ、山から横向きに雨のように矢が降り注いだために、一旦城原へ退却したとあります。
しかしここから禰疑野まで、多少の起伏はあるものの、越えるほどの山もなく、この記述は不可解です。
この城原退却の話は日本書紀だけ記されており、風土記に記載はありません。
景行軍が土雲の青・白や打猨・八田・国麻侶らに苦戦したことを書紀は記したかったのだろうと思われます。
ところで北脇殿祭神の「比売大神」、これは宇佐神宮にも祀られる真の祭神「豊玉姫」のことです。
彼女こそ親魏和王、邪馬台国の女王・卑弥呼と称される人物です。
土雲族は彼女の末裔であり、豊玉姫の息子・豊彦と娘・豊姫が物部イクメ(垂仁帝)の裏切りにあったことで、大和にまつろわぬ民となったのです。
城原神社の現存する拝殿、申殿及び本殿は宝暦12年(1762年)に建立されたもので竹田市の有形文化財に指定されています。
楼門には文久2年(1862年)の棟札があったそうですが、昭和60年(1985年)に放火の被害を受け、平成2年(1990年)に再建されています。
古くから重要視されていた当社、その境内に面白いものを発見しました。
境内の裏手にひっそりと祀られたもの。
これは「興玉社」と呼ばれています。
その社に祀られていたのは円柱形の石。
この石、見覚えがあります。
これは俵積神社の本殿裏にあった磐座によく似ています。
興玉神(おきたまのかみ)とは、三重県の伊勢神宮皇大神宮(内宮)の御垣内に鎮座する神の名であり、社殿を持たず、内宮を守護する神であるとされています。
またこの神は、『神名秘書』によれば、猿田彦大神またはその子孫である大田命の別名であるということです。
そして「玉」といえば豊王国信仰の月神を意味します。
つまり興玉神とは豊王国的なサイノカミ信仰を表すものではないでしょうか。
故に俵積神社では三体の磐座が置かれていたのです。
城原神社は一時荒廃し、元の場所からも移されたようですが、この興玉社が祭祀の中心であったことは想像に難くなく、またこの一帯が土雲族の主要な集落であったことは間違いありません。
景行軍はここに退却したのではなく、追いやられたのかもしれません。
興玉社の磐座が存在しているということは、ここも青・白の勢力地であった可能性が高いと思われます。
ここから南に下ったところには、豊玉姫を祀る祖母山があり、その麓には大きな洞穴のある穴森神社が鎮座します。
穴森神社の洞穴こそ青・白が棲まうという鼠石窟ではなかったでしょうか。
青・白が洞穴に住んでいたというのは、彼らを蛮族として貶める表記であって、実際に住んでいたわけではないと思われます。
穴森神社の洞穴には大蛇伝説が伝わっていますので、そこで龍神祭祀を行っていたのだと考えられます。
地の利と大きな勢力を持って、一時は景行軍を圧倒した青と白でしたが、彼らも、打猨・八田・国麻侶らも、物部の冷酷で残虐な軍に最後には打ち負けてしまいます。
そこには出雲的な、非常に撤しきれなかった彼らの弱さがあったのかもしれません。