彼、維義は「おそろしきもの」の末なりけり。
宮崎と大分にまたがる標高1,756mの日本百名山「祖母山」(そぼさん)は、日本初代天皇とされている神武天皇の祖母「豊玉姫」が祀られているのでその名がついたと云います。
豊玉姫は一般的には、海の神「綿津見神」(ワダツミノカミ)の子孫で、龍宮の姫と伝わります。
高千穂の「鬼八伝説」において、鬼八の妻「鵜之目姫」は祖母岳明神の娘だっというので、祖母岳明神とは豊玉姫のことだろうかと調べていました。
すると平家物語に記される、一つの伝承へ行き着きました。
その伝承が伝わる場所は、祖母山の北側、大分県寄りの中腹に鎮座する「穴森神社」(あなもりじんじゃ)を舞台とします。
壮絶な源平合戦で源氏方が勝利した後、平家の残党は九州の各地へと逃げ延びました。
この九州に落ち延びた平家を駆逐するべく指名されたのが、豊後の豪族「緒方三郎維義(惟栄)」(おがたさぶろうこれよし)です。
維義の5代前の祖先が、祖母岳明神の化身である大蛇と里の娘との間に生まれた子供であると『平家物語』巻第八・緒環に紹介されているのです。
維義という者は、「いとおそろしきもの」の末裔でした。
昔、豊後国の山里に女がおりました。
ある者の一人娘でしたが、夫もいないその女の所へ、母も知らぬうちに、怪しげな男が夜な夜な通い、年月も過ぎて女は身ごもってしまいました。
母はこれを不審に思い、「お前の所に通う者は何者だ」と問い詰めますが、「来るのは見るけれども、帰るのはわからない」と娘は言います。
「それならば男が帰ろうとする時に糸を付けて、行く先をたどって見よ」と母は言いつけました。
娘は母の教えどおりに、朝帰っていく男の着ている水色の狩衣の、襟に針を刺し、倭文(しず)の緒環(おだまき)を付けて、男の後を糸を頼りにたどって行きました。
すると、豊後国と日向国との境にある、「優婆岳」(祖母岳)という山の麓の大きな岩屋(窟)の中に糸は続いています。
女は岩屋の入り口でたたずみ、中の様子を伺うと、大きなうめき声が聞こえてきました。
それに応えて女は「私はここまで尋ねて来ました。あなたにお会いしたい」と言いました。
すると岩屋の主は「私は人の姿ではない。お前が私の姿を見ればびっくりして恐れてしまうだろう。とっとと帰りなさい。お前のお腹にいる子はおそらく男子であろう。弓矢・刀を持たせたなら、九州、壱岐・対馬に匹敵する者はおるまいぞ」と言いました。
女は再び言いました。
「あなたがたとえ、どのような姿であっても、これまでの日々の思いをどうして忘れることができましょうか。互いに姿を見せ合いましょう」
「そこまで言うなら」といって、ついに岩屋の中から、とぐろを巻いた姿が五、六尺、体を伸ばせば十四、五丈はあろうかという大蛇が、動揺しつつも這い出てきました。
狩衣の襟に刺したと思った針は、大蛇の喉笛に刺さっていたのです。
女はこれを見て、恐れ驚き、体は震え上がります。
連れてきた家来十数人も、足腰立たず慌てふためき、わめき叫んで逃げ去りました。
女はなんとか家に帰り着き、間もなくお産をしましたが、その子は男子でした。
母方の祖父の大太夫が育ててみようといって育てたところ、その子はまだ十歳にも満たないのに、背が高く顔が長く体が大きくなりました。
七歳で元服させ、母方の祖父を大太夫というので、この子を大太(だいた)と名づけました。
その子は夏も冬も手足に大きなあかぎれがいっぱいできていたので、「あかがり大太」と呼ばれました。
件の大蛇は日向国で祀られる「高知尾(たかちお)明神」の神体でした。
この緒方三郎維義は、あかがり大太の五代の孫になります。
このような恐ろしい者の末裔であったので、国司の命令を院宣と称して、九州、壱岐・対馬に廻文をしたところ、武士どもが維義に従いました。
緒方三郎維義の生没年は不明です。
豊後の有力豪族にして「平家物語」では「おろしき者の末裔」と称されています。
早くから反平家として九州にいた維義は、九州に落ち延びた平家を更に追い落としていきます。
平家滅亡後は義経に与して、船に乗りますが難破し、ついには頼朝方に捕縛されて上野国沼田へ流され、その後の消息は不明なのだと伝えられます。
そこにはガラス張りの拝殿がありました。
拝殿のみです。
本殿は見当たりません。
拝殿の裏手には洞窟がありました。
古くはこの地には冬でも青葉が繁り、満々と水をたたえる一町歩ばかりの池があったそうです。
その池には穴森大明神と呼ばれる大蛇が棲んでいました。
里人はこれを御神体と崇め、四季の祭を行なっていましたが、一度でも祭が粗末に行われると天候は急変し、里人を苦しめる禍が起きました。
岡藩主「中川久清」公はこれを憂慮し、「住民を困らす神」があるはずはないと奉行に命じて、「池さらえ」を行い、水を放出して今日の態様にしたところ、以後、禍は皆無となったと云います。
元禄16年10月、この洞窟より大蛇の骨が発見され宝永2年に現在の岩穴に御神体として祀ることにしました。
つまりこの洞窟が本殿なのです。
洞窟は200円で灯る照明設備が為され、中に入ることができます。
が、とてもそんな気持ちにはなれませんでした。
ここから覗き見るだけでも、畏れ多い、そんな気持ちになります。
祭神は「嫗嶽大明神」(うばたけだいみょうじん)。
又の名を 「健男霜凝日子神」(たけおしもこりひこのかみ)といい、祖母山の山頂上宮に鎮座、天候の守護神として崇敬されています。
この大蛇にまつわる伝説、どこかで聞き覚えがある方も多いと思われますが、これは大神神社に伝わる三輪山伝説「緒環伝説」(おだまきでんせつ)の典型的なものです。
祖母山の北麓である当地は、早くから大和国の大神氏(おおみわし)の傍流と考えられる豊後大神氏によって開発され、発展してきました。
その豊後大神氏の始祖とされるのが大神惟基(おおがこれもと)です。
大神惟基は緒方維義の5代前の祖先とされています。
神体山の神が変化した蛇との神婚伝説は、「緒環型(苧環型)蛇婿入譚」(おだまきがたへびむこいりたん)と呼ばれ、各地に見られます。
この神婚譚は大神氏・大三輪氏によって各地に伝え広められたものと思われます。
ところで祖母岳明神の娘「鵜之目姫」と当地は関係があるのかどうか。
興梠家の伝承で、鬼八は、妻と子供と共に海の向こうからやってきて、高千穂の地に住み着いたとあります。
また石見神楽の「道反し」では、世界中を荒し廻った大悪鬼が日本に飛来したと、鬼八のことを表現していました。
鬼八と鵜之目姫はどこからやってきたのか。
姫は祖母山神豊玉姫の娘なら、宇佐族の人間なのか。
目の大きな女性だったと名の由来が説かれていたので、あるいは外国人なのか。
境内の奥に行き着いた場所に、二つの祠が鎮座しています。
これがよりによって「淡島様」と「生目様」。
事代主とイクメ王がなぜ併せ祀られているのか、謎だらけになってしまいました。
参道を戻ろうとして思わず立ち尽くしました。
妙に生々しい、リアルな大蛇の頭が僕を窺っています。
目玉を書き込んでいない反対側に回ってみましたが、十分大蛇に見えます。
鼻息さえ聞こえそうな蛇頭に、「おそろそきもの」を感じつつ、その場を後にしました。