三輪山の麓、桜井市大字箸中の田園と池に囲まれた「箸墓古墳」(はしはかこふん)は、三輪大神にまつわるとされる古墳です。
全長282m、後円部径257m、高さ22mの前方後円墳は、「卑弥呼」の墓であると唱えられ、近畿邪馬台国説を提唱する人たちの有力な根拠の一つとなっています。
謎の多い古墳の一つでずが、なぜか今は研究者も奥まで入ることが禁じられ、十分な研究はされていません。
大市はかつての地名で、ここに眠るのは「倭迹迹日百襲姫」(ヤマトトトヒモモソヒメ)と云われています。
これは「日本書紀」での呼び名で、「古事記」では「夜麻登登母母曾毘売」(ヤマトトモモソビメ)と呼ばれます。
当墓に関する伝承で、「三輪山伝説」があります。
倭迹迹日百襲姫命は大物主神(オホモノヌシノカミ)の妻となりました。
しかしこの神は夜ばかりやってきて、姿をみせません。
姫は、神である夫に「あなたは昼に姿を見せず、夜ばかり参られるので、私はあなたの姿を見たことがございません。
どうかこのまま留まって、明日の朝、美麗しいお姿を見せてください。」と願います。
神は「お前の言うことも最もだ。明日の朝、私はお前の櫛笥(くしげ)に入っていよう。
しかしどうか、その私の姿を見ても驚かないでおくれ。」と告げます。
姫は心の内で密かにどういうことだろうかと怪しみますが、朝を待って櫛笥を開けて見ます。
すると中には、まことに美麗で小さな蛇がいました。
姫はそれに驚いて叫んでしまいます。
神は恥じて、人の形になって、妻に言います。
「よくも私に、恥ずかしい思いをさせてくれた」
神はそう言うと、大空をかけて、三輪山に帰ってしまいました。
姫は神の帰ってしまった先を仰ぎ見て、後悔のあまり座り込んでしまいました。
そのはずみに箸で陰処(ほと)を突いて、姫は死んでしまいます。
姫は大市に葬られ、人々はその墓を箸の墓と呼びました。
実は、この箸墓古墳は、伊勢の斎王「大和姫」の古墳であると、富家では伝えられています。
伊雑官の社家「井沢富彦」は出雲系の登美家出身であると云われています。
大和姫は井沢富彦の協力を受けて、伊勢国の五十鈴川のほとりに内宮を建てました。
そして、そこに太陽の女神を祀り、彼女は最初の伊勢斎王(斎宮)の役を務めます。
この伊勢内宮の太陽の女神は、三輪山から移されたので、大和姫の没後、彼女の遺体は三輪山の西麓の賀茂家に送られたと云います。
賀茂家も出雲系の登美家の別の呼び名です。
賀茂家の田田彦は土師家から養子に来た人であり、土師氏の古墳造りの技術者と親しく、大和姫の墓は土師氏により造られたそうです。
それで人々は、大和姫の古墳を「土師墓」(はじはか)と呼んだのですが、日本書紀では、その発音に似せて「箸墓」という奇妙な名前を使い、三輪山の伝説が生まれました。
箸墓の被葬者が箸で陰部を突いて死ぬという異常な死に方の話は、大和姫の時から、伊勢神宮の斎宮は独身を守ることが定められたことを示すそうです。
「伊勢内宮の斎宮である期間は、三輪山の大物主神の妻となる」と当時は云われていました。
また、記紀では、この箸墓(大市古墳)を、大和姫から4代ほど遡る三輪山の姫巫女「モモソ姫」の古墳に当てはめようとしました。
そこに「大和トトビ(登美?)」を加え、「倭迹迹日百襲姫命」という珍妙な名を創り上げたのです。
時期的に考えて、箸墓の被葬者は、モモソ姫の時代の人ではありえなく、大和姫であることは確実と富家は伝えています。
モモソ姫巫女の時代は、大和国で戦乱が続き、やや収まったころでしたので、大きな古墳を造る余裕がなかった、と考えられるそうです。
モモソ姫の古墳は、巻向遺跡にある古墳の可能性が高く、巻向遺跡にある古墳はさほど大きくはないとしています。
何故記紀は、当墓が大和姫の墓である事実を誤魔化そうとしたのかは分かりません。
頑なに調査を拒む箸墓には、まだ何か秘密が隠されているのかもしれません。
箸墓のほとりに喫茶店ができていました。
そこに白い石を並べた庭があります。
この石は新潟県糸魚川のヒスイだそうです。
糸魚川産のヒスイは硬玉(本翡翠)と呼ばれ、微細な結晶が絡み合っているため非常に壊れにくく堅牢な石で、大変加工がしにくいのが特長です。
昭和32年に国の天然記念物に指定され、今では採掘は禁止とされています。
ただ、糸魚川付近の海岸では、このヒスイの原石が打ち上げられることがあるそうで、それを拾いに行く人は多いといいます。
当喫茶店のオーナーは採掘禁止になる以前にこの石を譲り受けていたそうで、それを安価に提供されているのだそうです。
古代出雲王国時代から、磯城大和王朝時代にかけて、王族の証として身につけていた糸魚川産のヒスイの勾玉を、僕も一つ購入し、三輪山と箸墓に見守られながら、ひととき一心に、磨き上げてみました。