愛媛県今治市に鎮座の「別宮大山祇神社」(べっくおおやまづみじんじゃ)を訪ねました。
当社はその名の通り、伊予国一宮の大山祇神社の別宮とされます。
別宮大山祇神社のすぐ隣には別宮山南光坊(べっくさんなんこうぼう)というお寺が鎮座します。
大三島の大山祇神社の元宮は東海岸側の遠土宮(おんどのみや)であったと伝えられます。しかし遠土宮周辺は土地が狭く鳥居の前まで海が迫り、度々津波の被害に遭っていました。
そこで越智玉澄が、大宝元年(701年)に西海岸側に大きな社殿を造営し遷座しようと始めます。しかし、社殿が完成し遷座の儀が行われたのは養老3年(719年)のことでした。
こうして大山祇神社は立派な社殿が建てられることになりますが、大三島に渡るため海が荒れると祭祀が欠けることを憂い、同時に大宝3年(703年)大山積神を伊予国越智郡の当地に勧請しました。これが別宮大山祇神社の元となります。
また、本宮の大山祇神社の法楽所として大三島に24坊を建立、その1つが南光坊でした。
南光坊は「日本総鎮守三島の地御前」として奉祀されます。
その後、正治年間(1199年 – 1201年)に大三島24坊のうち、南光坊を含む8坊が別宮の別当寺大積山光明寺の塔頭として当地に移されました。
しかし、天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の四国平定の際に、その軍勢により八坊すべて焼き払われます。
慶長5年(1600年)に藤堂高虎が今治藩主に任ぜられると、八坊のうち南光坊のみを再興しました。
さて、奈良時代直前の大宝3年(703年)に文武帝の勅命で、越智玉澄により大三島から大山積大神を勧請したと云う大山祇神社の別宮、地御前「別宮大山祇神社」です。
由緒によると、奈良時代の和銅5年(712年)に社殿が造営され、以後、大山祇神社の社家・大祝家の分家の別宮氏が神職を勤めたとされます。
鎌倉時代の正治年間(1199年-1200年)には、大山祇神社の24の僧坊のうちの8坊が別宮に移され、別当寺大積山光明寺を称し、往時には本社と並ぶほどの威容を誇っていたと云います。
戦国時代の天文20年(1551年)に落雷で社殿が炎上、その後、安土桃山時代の天正3年(1575年)に来島通総により再建されました。
昭和20年(1945年)、今治市街地は米軍の空襲を受けて当社の社殿もほとんども焼失しましたが、拝殿は奇跡的に焼失を免れたそうです。
当社祭神は「大山積大神」(おほやまつみおおかみ)。 大山祇神社本宮同様、社名と祭神の表記は異なっています。
神仏習合時代は大山積神の本地仏として「大通智勝如来」(だいつうちしょうにょらい)が本殿に奉安してあったと伝えられます。
大通智勝如来は明治の神仏分離令によって南光坊の薬師堂に移され、55番札所の本尊となりました。
当社創建に関わったのが越智玉澄で、大山積神の本地仏が大通智勝如来。
大通智、大智、越智、、、なんてね。
大根地や越南智(大汝)など、越智は越と智の間に別の文字を加えて名を隠しているような気がします。
境内社を見てまわると、出雲にゆかりのある「荒神社」や、一際立派な「清高稲荷神社」が目に留まります。
そして別宮大山祇神社本殿と並ぶように建つ一つの社。
まるで稲荷社のような彩色です。
これは「阿奈波神社」(あなばじんじゃ)といい、大山積大神の長女で木花咲耶姫の姉「磐長姫」(いわながひめ)を祭神としています。
拝所の前には、おおきなキノコと蛇を思わせる石が置かれています。
大三島の大山祇神社本宮の境外社に阿奈波神社がありますが、当社はその別宮とされています。
阿奈波神社本社も訪ねてみましたが、そちらはかなり悲惨な状況でした。
磐長姫は木花咲耶姫と共に瓊瓊杵命に嫁ぐことになりました。これは子孫が木の花が咲くように栄えるよう「木花咲耶姫」を、岩のように永く続くようにと「磐長姫」を願って差し上げた大山祇神の親心でした。
しかし磐長姫は妹の木花咲耶姫とは対照的で美しいとは言えない容姿の姫でしたので、瓊瓊杵は1日で磐長姫を親元へ帰してしまったと記紀は語ります。
本社もそうですが、なぜ別宮大山祇神社に木花咲耶姫は祀られていないのに、磐長姫は祀られているのか不思議です。木花咲耶姫は瓊瓊杵に嫁いでしまっていて、磐長姫は親元に返されたからとも考えられますが、富家の伝承とこれまでの僕の考察を踏まえると、別の側面が見えてきます。
木花咲耶姫の正体は、物部イニエ王(10代崇神帝)の后となった薩摩の阿多津姫(あたつひめ)です。
これに対し、磐長姫とは越智の姫であったとは考えられないでしょうか。
岩のように永く続く命、それは変若水(をちみず)の巫女を意味するのではないかとここに至って気がつきました。
越智家はイニエ王に姫を差し出したのに、イニエは越智ではなく薩摩を選んだというのが神話の意味するところなのではないか。
阿多津姫はイクメ皇子(垂仁)を儲けますが、そのあと死去します。結果イニエは越智と縁の深い宇佐の豊玉姫と再婚します。
が、物部王は大和移住は果たすものの、大和・物部王朝は豪族らの支持を得られずわずか3代で果ててしまったのは、越智家を蔑ろにしたせいもあるのかもしれません。
そして磐長姫が越智の姫であるとすると、いくつかの謎が解けてきます。
同じくなぜか木花咲耶姫は祀られず、結社として磐長姫が祀られる命の水の霊社、京都の貴船神社は龍穴(オロチ=越智)にあるとされ、その祭神は玉依姫(越智の常世織姫)となっています。
宇佐家伝承では常世織姫の御陵は宇佐の貴船神社であると伝えられていました。
また宮崎の磐長姫を祀る古社では、瓊瓊杵の仕打ちに嘆いた姫が自分の姿を写す鏡を遠く投げ捨て、これが米良山中の大木の枝にひっかかり、陽光・月光に反射して「白」く輝いていた場所に社を築いたとされており、それが「銀鏡」(しろみ)という地名の由来となっていると伝えられていました。
貴船神社の奥宮と本宮に祀られている闇龗神とは水の神ですかね。高龗神とも言いますが。龍の上にある冠の下にある口3つとは如何なる意味なのか?
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龗は水を司る龍神だと言われていますね。
龍で口が三つあるということは、キングギドラ的な何かでしょうか。
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パイロヒドラではないですか?竜の種類から言うと。まあキングギドラですけど🦑闇の龗って、黒龍の事ですかねぇ。
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闇は谷、高は山、山峰の雨を司どるのが高龗、谷の雨を司どるのが闇龗である。古来,雨を呼ぶ神,また降る雨を止めてくれる神として知られている。
と、こちらで説明されています。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/112729
僕はなんとなく、仏教が入ってきて、龍蛇神がヴァージョンアップしたのかな、と思っていますが。
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なるほど。谷も山も結局は山並みの範疇ですから、闇龗と高龗が同一の神なんですね。雨を止める事が可能な龍は雨を呼ぶ事もできる。なるほど仏教ですか…
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龍に雨のっけて、さらに口三つって仰々しさがそんな感じかなって。
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🦑そ、そうですね。私は仏教の龍と聞いてムチャリンダさんを思い出しました。聖☆おにいさんに描かれている”仏陀をぐるぐる巻きにして嵐から仏陀を守った可愛らしい大蛇(龍)”🌞
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ムチャリンダさんは可愛いね
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普通に考えたら仏陀はかなり危険な締め技を掛けられとる🐥
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