
2023年裏盆。
まずは出雲王国8代目大名持「大国主・八千戈」王の御魂へご挨拶に伺いました。
ならば同じく出雲王国8代目少名彦の「事代主・八重波津身」副王の御魂にも、謹んでご挨拶に伺わなければ片参りとなります。

本来は天宮山に登拝するべきなのでしょうが、この暑さの中、そこまでの気力はなく、松江市の八雲町、意宇川(おうがわ)の先にある「熊野大社」へ足を伸ばしてみました。

熊野大社は、元は東出雲王家「富家」の屋敷があった場所です。
物部との戦に負けた東出雲王家の富家は、それまでの王宮であった神魂神社を物部十千根にゆずり、意宇川を遡って熊野の地に館を構えることにしました。
なぜ熊野の地であったかというと、当地は古来より、東出雲王家にとって重要な聖地「天宮山」があったからです。
しかしこの熊野大社に参拝して、いつも思います。このお社は、いったい何を祀っているのだろうか、と。

参拝者は天宮山に背を向けることになるし、本殿の神も天宮山と関係のない方向を向いています。

熊野大社の祭神は現在、
「伊邪那伎日真名子」(イザナギノヒマナコ)/伊邪那伎命がかわいがった御子
「加夫呂伎熊野大神」(カブロギクマノオオカミ)/熊野の地の神聖なる神
「櫛御気野命」(クシミケヌノミコト)/素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別名
となっており、これは全てスサノオのことを讃えた言葉であると伝えています。
しかし富家伝承によると、王宮を去った富家は向家(ムカイ)と名を変え、熊野に館を構えました。
邸内に祠を建て、始祖「クナト大神」と祖先「事代主」を祀りましたが、後世には邸内社は独立し、次第に大きくなって、それが今の熊野大社になった、ということなのです。



熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在は天狗山と名を変えられていますが、本来の呼び名は天宮山)にありましたが、中世より里に下り、近世末まで「上の宮」「下の宮」の二社祭祀の形態をとっていたと、由緒は伝えます。

そして明治時代に至り「上の宮」は、政府の神社制度の改正を機に熊野大社へ奉遷合祀されたとのことです。
ここにも明治の闇がありました。

なぜ、「上の宮」は潰されることになったのでしょうか。

「上の宮」跡地を訪ねると、小高く盛られた丘の上に、かつて有ったとされる神社の名を刻んだ石碑が並んでいました。

「事解男神」(ことさかのかみ)は、『古事記』や『日本書紀』では次の様に伝えます。
黄泉の国で腐ったイザナミを見たイザナギが、慌てて逃げ帰った時、 「お前には負けないつもりだ」とイザナミに向かって言い捨てて唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命で、次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男であると。

しかし一言主神の別名に言離神(ことさかのかみ)があり、一言主は事代主のことですから、事解男神とは天宮山に鎮まる事代主の御魂の事となります。

また、「下の宮」で祀られる「加夫呂伎熊野大神」(カブロギクマノオオカミ)、つまり熊野の地の神聖なる神とはクナト大神のことであろうと推察されます。

この二柱の神が、熊野大社の本来の祭神であり、向家に鎮座していた二つの邸内社(上の宮・下の宮)の原型なのでしょう。

その他の神々は、記紀の影響によって付け加えられた神や、近隣の小社を合祀して祀られた神々である可能性が濃厚です。

『雲陽誌』の意宇郡の熊野の項に、「熊野社」についての記述があります。

“「延喜式」「風土記」に熊野大社と書す、是すなはち速玉 事解男 伊弉冊 三神をあわせまつりて上の社といふ、
天照大神 素盞嗚 五男 三女を合て十神をまつりて下の社とす、
世人上の社を熊野三社といふ”

『雲陽誌』意宇郡熊野の項を見ても、現在の祭神との相違が顕著であり、当時の情報の混乱ぶりが窺えてしまいます。

上の宮跡へは、そういえばそんな場所があったなと、本日軽い気持ちで立ち寄ったのですが、ここでまさかのイベント発生です。
山頂に「熊野山(天宮山)遥拝所」があるとのこと。

これは行かねばなるまいて。
まあ、いつものことですが、いきなり登山の、はじまりはじまり。

それにしても、巨大な岩。

登りはじめてすぐに大きく岩がえぐれた場所があります。

ここは久米神社があった場所とあります。
久米神とは、上宮太子の兄・久米皇子のことか、はたまた物部東征軍に招集された、薩摩の久米兵のことか。
「クマ」とは神に供えるための米の古語で、それを栽培した野が、クマノだと云われていますので、熊野=米野で久米ではないかと想像します。

ここに滴り落ちる「明見水」(みょうけんすい)は、洗眼すると眼病に効き、あるいは産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りると言う御神水となっていました。

さらに、圧倒される巨岩の横を登っていきます。

この「上の宮」背後に鎮座する山は「三笠山」と呼ばれています。
三笠、御笠、笠山など、聖地の名称として度々目にしますが、形の良い山をそう呼ぶのでしょうか。

そしてまた、巨大な磐座に遭遇しました。

ここは祓所だそうです。
祓え給え、清め給え(三度唱える)

この岩も圧が凄い。

さらにもう一踏ん張り登れば、

頂上につきました♪
思いのほか早く辿り着けました。10分くらい?!

「熊野大社元宮遥拝所」です。

おお~これはっ!

これはいわゆる、奈良の三輪山でいうところの「鳥見山霊畤」(とみやまれいじ)ではありませんか。
霊畤とは、「まつりのにわ」のことであり、出雲族が霊山に鎮まる神への祭りを行なった霊地のことです。
それにしても、鉄塔が邪魔ですね。

鉄塔を消してみました。
これが古代の出雲人、富家(向家)の人々が遥拝した景色です。
いずれこの景色の中に、巨大プロペラが登場するのかもしれません。イヤすぎる。。

しかしやはり、熊野大社は富家の大切な聖地でした。
この「上の宮」がそうであり、「下の宮」であった現・熊野大社鎮座地は、富大田彦や富彦太らが暮らした館があった場所なのでしょう。

古代の歴史や姿は、どうしても消されていく運命にありますが、こうして「まつりのにわ」を今日まで残し伝え続け、本日思いがけず事代主のお墓参りができたことに、熊野大社と当地の氏子さんたちに深く感謝申し上げいたします。

こんばんは。久しぶりに再訪を予定しております。例年になくこの時期にしては暖かい日が続きそうなので。初めて上った時には息が上がりました(^_^;)
ところで、熊野大社の本殿向かって右側の摂社、稲田社の由緒書きにはクシイナダヒメと共に少名彦(少彦名となってますが)ことコトシロヌシの名が。それと共に建御名方が合祀されていますね。
物議を醸すようで、あまりこれはコメントとしてはどうかとも思いますが。。
熊野大社の由緒書き、いつ頃からか新しくなってませんか?
確証がなく、今となってはなぜ写真を撮っておかなかったのかと悔んでいます。
今は伊邪那美神社の方に、合祀として岐神が祀られていますよね。
私が数年前に行ったときには。。まだ10年もたってないはずなんですが、
稲田社のほうに、少彦名とセットで岐神の文字を見た気がして仕方ないのです。まあ、気のせいか記憶違いかもしれませんので自信はありません。でも、わざわざ社務所まで走って行って聞き直しましたからよ〜く覚えています。社務所におられた女性に伺ったところ、新しくなっていませんとのご回答でした。
思い込みが激しい性格ゆえ、頭オカシくなったかなあ?とさえ思いました。でも、なーんか、妙に板がキレイになってるような。。
あれ以来どうもこのお社についてはモヤモヤするときがあります。
熊野大社は今となっては合祀が多すぎて訳がわかりませんが、でも伊邪那美神社の方に合祀されてても、由緒書きには元々岐神とは書かれていませんので、なぜ稲田社のほうにそれか書かれてあったと私が未だ勘違いしてるのか。。。謎です。私の勘違いだとしても、なぜそんな勘違いしてるのかが、また謎だという(^_^;)
最近は五十肩が酷くて左腕がズキズキといたくて眠れず、夜中ににうなされて変な夢ばかりみます。隕石が落ちて灰色に隆起した海原やら、車で坂道走ってて途中の下り坂から崩れ落ちるとか、熊野大社の稲田社が気になって仕方ない夢を見るとか(笑)左腕がズキズキ痺れるせいで、眠りが浅く夢をみるのでしょうが、調子が良くなってから、また山陰のお社巡りを楽しくしたいと思っています😊 まだまだ廻ってないお社、山陰にも沢山ありますから
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五十肩は辛いですね。僕も1年過ぎて、ようやく夜中に激痛で目が覚めることが少なくなりました。
由緒書きは写真に撮っておいた方が良いのかもしれませんね。僕も以後、注意してみます。
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五十肩パイセンだったのですね。先生は、腕を上げてお仕事をされるので、とても大変だったでしょう。五十肩になるメカニズムも解明されてない、治るメカニズムも解明されてないというものらしく、1年くらいやはり待つしかないですね(^_^;)
そう、由緒書きは、写真撮るのはマストですね。揖夜神社しかり。あの時も確信は持てても、確証がなくて悔しかったですから。最近はバシャバシャ撮ってます、撮らして下さいね、後学のためにと言い訳ブツブツ言いながら(笑)
どなたか、10年前くらいに熊野大社の稲田社の前にある由緒書きの写真撮ってるお方がおられないかなあ。。。私の気のせいだといいですね。岐神が消されてるなんてことがあったら悲しいですもんね。
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この上の宮は、熊野大社に素戔嗚を合祀するために利用されたと私は考えています。
天宮山遥拝所であるのであれば当初はやはり素戔嗚は居なかったと思われます
現在では、神社で熊野大社の関連の本を売ってますが、本の内容を纏めているのは千家宮司。
出雲大社の銅の鳥居の内容からしても、千家の出雲臣家乗っ取りは少なくとも明治までは継続していたと思わざるを得ません
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はい、同感です。
ただ、近くに須賀神社があり、須賀とは菅之八耳のことで、彼をスサノオとしているのであれば、熊野大社にスサノオ(スガの王)はいたのかもしれません。
また、上の宮の痕跡を消してしまわず、あえて天宮山遥拝所として今日まで残してあることに、軽い驚きを感じています。
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亀太夫神事も残っていますから、出雲散家が今も目を光らせているのかもしれませんね。
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