
福岡県鳥栖市元町、そこに「妙覚寺」と「妙善寺」という、近接する菅原道真ゆかりの二つの寺院があります。

妙覚寺を訪ねると、主張の激しい松の木がお出迎え。

境内には、素朴なお堂がありました。

長崎市の中島天満宮に残っている『聖廟記』(せいびょうき)によると、延喜元年(901年)、菅原道真が太宰府に流されたとき従った人物に、「三澄左近将監時遠」という者がいました。
この時、道真の第5子である「長寿麿」は、追慕の情に勝てず時遠とともに京よりひそかに下向し、瓜生野(現鳥栖市元町)の地に隠居したといいます。

道真は、我が子に会うためしばしば瓜生野を訪れたそうで、時遠は子がなかったので道真に請い、長寿磨を養子にしたと伝えられます。

妙覚寺の門の手前には飛梅の木があり、そばにある石碑には「菅公手栽五子之梅」と刻字されていました。



妙善寺に来ました。

藤原時平の厳しい監視の目を逃れ、瓜生野で隠居を続けた長寿麿は、元服して「良景」と号し、姿を仏門に改め、父・道真の菩提を弔いました。

以後、彼の子孫の多くが仏門に従事ています。

良景の後、20代禅心法師に至り、浄土真宗に改宗し、妙善寺の開基となりました。さらに23代元清の長子順照が妙覚寺の開基となったということです。



妙覚寺・妙善寺の近くに、菅公史跡「姿見の池」「腰掛石」というものがあります。

長寿磨が時遠の養子となって以降、道真は我が子に会うため、しばしば瓜生野を訪れたそうです。

そのとき腰をおろしたのが「腰掛の石」、そして長寿磨に与えるため水に映した自分の顔を描いたのが「姿見の池」と伝えられています。

小さな社の横にある、小さな池が姿見の池。

もう少し水が張っていれば、姿が映るでしょうか。

その上に平たい大きな石があります。

これが腰掛の石だそうです。

さて、果たして道真は、伝承にあるように、しばしば瓜生野を訪れることはできたのでしょうか。
現在、榎社として祀られる「鴻臚南館」に、道真は幽閉同然で押し込められていたといいます。
さらに、子沢山の道真は、隈麿と紅姫の二人の子だけは連れていくことを許されました。
しかしそんな道真の心の支えだった子の一人、隈麿は、大宰府にやってきた翌年に病で命を落としました。
また、道真自身も胃を害し、眠られぬ夜が続き、脚気と皮膚病にも悩まされ、大宰府に来た2年後に亡くなったとされます。

ただ、確かに太宰府天満宮鎮座の謎があり、安曇族が道真に加担していた痕跡が垣間見えるのも事実です。
旧東出雲王家の「富大田彦」(野見宿禰)の子孫である道真を、出雲散家が放っておくとも思えません。
あるいは2年後の死というのも偽装であり、菅公自らサンカの如く、筑紫野で暗躍していたのかもしれません。
