菅原天満宮:八雲ニ散ル花 55

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平安期のある時、出雲の山あいの辺境に、「菅原是善」(すがわらのこれよし)は立っていた。
是善の眼前には、小高く積まれた土盛りがある。
それはいわゆる、「野見宿禰」の遺体の一部を酒瓶に入れ持ち帰り、埋葬した場所であった。
京都で学問所を生業としていた菅原是善は、祖と伝わる出雲の野見宿禰の円墳に参詣に来たのだった。

「このような辺鄙な村へ、ようこそお越しくださいました。」

是善は先祖の墓参りに、数日を費やすつもりでやってきていた。
そこで近所の家に頼み込んで、宿泊させてもらうことにした。
偉大な先祖「大田彦」の愛した土地を見て感じたいと思っていたのだ。

数日過ごす間、是善の世話をしたのは家の娘であった。
その娘が利発であったのを好み、彼は愛した。
やがて娘は是善の子を宿したが、是善は京に帰らなければならない。
娘は里に残り、男児を生み育てた。

「子が育ったら、京の家で引き取りたい」

是善はそう言い残して去って行ったのを彼女は思い出し、息子を連れて京に行くことにした。
京の菅原家までやってきた母子は、しかし家の戸を叩くことはなかった。
母は菅原家の裏の空き地に子を置いて、是善から貰った記念品を持たせた。

「京で勉強しなさい」

そう言い残すと母は出雲に帰っていったという。
是善は使いの者から家の裏にいた男児の話を聞き、家に入れて本妻の第3子とした。
その男児こそ、のちの「菅原道真」である。
彼が落とし子であることは、隠されることになった。

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松江市宍道町の山あいに、「菅原天満宮」があります。

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そこは長閑な山村の様相で、行き交う車も少なめでした。

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しかし「道真」といえば学問の神様、受験シーズンには参拝される地元の方で賑わうのだとか。

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天満宮に付き物の牛の像が出迎えます。

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菅原道真は承和12(845年)6月25日、すなわち丑年のご生誕であり、貞観元年の元服の当夜、白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を見たので、自ら牛を画き、 酒を供えて祀ったと云います。
寛平5年9月、道真公が茸狩りの宴を催した時、どこからともなく小牛が現れ、頭を垂れて公を敬うがごとく近寄ってきたので、これを館に連れて帰り、寵愛しました。

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また、公が太宰府に左遷される道中、時平の命を受けた笠原宿禰が後を追って切りかかってきましたが、松原の中から白牛が飛び出て、宿禰の腹を突き刺しました。
その牛をよく見ると公が都で寵愛した牛だったと云います。

「都にて流罪極る前夜、不思議に逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫まで伴わん」

道真公は涙を流して喜び、そのあとは牛に乗って、御心安らかに旅立たれたと伝えられています。
更に太宰府の地で薨去されたのは延喜3年(903年)2月25日の丑の日であったと云います。

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小高い丘の上に本殿がありました。

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こじんまりとした境内に、小ぶりな社殿です。

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菅原道真の出生は謎が多いのですが、当社では、承和12年、この出雲国菅原の里で生まれたと伝えられています。

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菅原是善卿が出雲国庁在任の折、菅原家の祖先「野見宿禰」の墓に参拝するため当地を訪ねられました。
その道案内した乙女の利発さを気に入られた卿は、その乙女を寵愛し、その間に生まれた子が道真公であると云われています。

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道真公6才の春、母に伴われて都に上がり、父君是善卿と再会。
以後父君のもとで学問に励まれ、学者文人としての人なみ優れた才能が開花したとのことです。

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道真公が左遷され無念の死をとげた後、公を慕う菅原の里人たちは、天暦5年(951年)、この地に宮を建ててお祀りしていましたが、寛文3年(1663年)、松江藩の「松平直正」公により、 東北の名木羅漢松を以て新しい社殿を造営され今に至ります。

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本殿の横に井戸がありました。

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菅原道真公御鎮座以来、一時も涸れることなく湧き出る御神水であると伝えられます。

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さて、参道の帰り際、横に登る階段があります。

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その先には、野見宿禰の墓があると記されています。

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その階段を少し登ると、鬱蒼とした杜がありました。

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そして玉垣に囲まれた、大木が根付いた土盛りがあります。

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ここが野見宿禰の墓と伝えられていました。

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野見宿禰が播磨の龍野で毒殺されて以後、古墳はその当地に造られました。

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一方、拝み墓は、出雲の旧王宮跡である「神魂神社」の南方、東出雲王墓所にあると云います。
そこは東出雲王家「富家」の代々の王の拝み墓として、大きな丸石が置かれています。
野見宿禰(大田彦)は、向家(富家)出身の17代目出雲国副王「少名彦」でしたので、野見宿祢の墓石は、東出雲王墓所にある17個の石の中に含まれているそうです。

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播磨で野見宿禰の古墳を造る際、大田彦の死を悲しんだ出雲の人々は、遺体の一部を酒壺に入れて出雲に持ち帰り、王墓所とは別に故郷にも古墳を造ることにしました。

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しかし物部の占領下にあった当時、旧王家近くにこれを造るのは避け、目立たないように、西に15km離れた山村の丘に築いたそうです。
そして後世に菅原天満官が建てられました。

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野見宿禰の出雲の墓とされるこの場所は、播磨の墓とはまた違った神聖さに満ちています。

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丘の上には大木が、根を絡ませていました。

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田道間守討伐後、大和に住み着いた野見宿禰の子孫たちは、古墳築造技術に優れているのを認められ、イクメ王皇后の「ヒバス姫」の御陵を築き、その後「土師氏」と呼ばれました。
そしてその子孫からは学問の家系の「菅原家」や「大江家」(大江匡房や大江時親など)が生まれたと云います。

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王国なき後の、出雲人の数奇なめぐり合わせが、この小さな聖地に凝縮しているように感じました。

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