
大分に鎮座の「中津城」(なかつじょう)。

中津城は「黒田孝高」(くろだよしたか)が築城し、「細川忠興」が完成させ、小笠原氏を経て、享保2年(1717年)からは、「奥平家」が居城としました。

城の手前には、奥平家中興の祖とされる、奥平貞能(さだよし)、信昌、家昌の三柱を祀る「奥平神社」があります。

天正15年(1587年)秀吉の九州平定に伴い、黒田孝高が豊前六郡12万3000石の領主として入国。翌年天正16年より孝高は、中津城の造営を始めます。

黒田孝高は、播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもありました。

諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といいましたが、通称の「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)の名が有名です。
また、剃髪後の号を「黒田如水」(くろだじょすい)といい、竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世に「両兵衛」「二兵衛」と並び称されました。

慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍となると、細川忠興が中津城改修を開始。これは元和6年(1620年)までかかりました。

忠興は家督を忠利に譲り、中津城へ入って隠居します。
その後、小笠原長次が中津6万石の城主として、さらに奥平昌成が中津10万石の領主として入国し、明治4年(1871)の廃藩置県により中津城は廃城となります。

さて、かの黒田官兵衛が築城した中津城ですが、その場所は周防灘(豊前海)に臨む中津川河口の地でした。

堀には海水が引き込まれているため、潮の干満で水位が変化する水城(海城)とされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。

城内の形状は、本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため、扇形に例えて「扇城」(せんじょう)とも呼ばれていました。

中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されています。

また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に築城されており、鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま神社)が鎮座しています。

このように、中津城にはどこか、呪術的な要素を感じるのですが、さらには他の城ではあまり見かけない、特異なものがありました。



中津城本丸の北面の石垣には、ひと目見てわかる継ぎ目があります。これは向かって右側が黒田如水普請の石垣で、左側が細川氏が継ぎ足した石垣です。
黒田普請の石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものといわれています。

中津城跡の公園地内には、伊勢から天照大神と豊受大神を勧請した「中津大神宮」が鎮座し、「豊前の国のお伊勢様」として親しまれています。
豊受大神に関しては、豊前の方が本家本元であるので、変な話ではあります。

そして境内左側にある城井神社、これが少し変わった神社なのです。祭神は「宇都宮鎮房」。

時は遡って建久6年(1195年)、源頼朝は平家の残党を一掃するため、豊前の守護職に宇都宮信房を指名しました。
以来、宇都宮家は18代までの400年に渡り、豊前の国を守護し、庶民からも慕われたといいます。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州攻めの際も。16代当主の宇都宮鎮房は秀吉の命に従い大軍を率いて先陣に加わり、豊前・豊後を平定、島津氏を破って九州を平定しました。
ところが、秀吉は黒田官兵衛を東豊前に、毛利勝信を西豊前に与え、宇都宮鎮房には伊予(愛媛県)の12万石に転封とする朱印状を出しました。
当然、鎮房は納得がいかず、朱印状を返上しましたが、秀吉はこれを握り潰しました。

以降、豊前では黒田氏と宇都宮氏との死闘が繰り広げられ、ついに天正15年(1587年)の岩丸山合戦(峰合戦)では黒田長政軍は宇都宮鎮房に大敗を喫することになりました。
そこで黒田官兵衛は秀吉と謀り、宇都宮鎮房の息女千代姫(鶴姫)と長政の婚を約し、両者は和睦することになりました。
天正16年(1588年)4月20日、鎮房は中津城に招かれるのですが、その酒宴の席で、黒田長政に謀殺されます。
鎮房の亡骸は西門のそばに埋葬されました。天正19年(1591年)、長政は深く感ずる処があって城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀ったということです。
長政が深く感ずる処とは何か。宇都宮鎮房を慕う庶民に配したものかもしれませんが、謀り殺した者を鎮護の神として祀るそれは、まさに怨霊信仰と呼べるものです。

黒田氏移封後、神仏を厚く崇敬した小笠原長次は、城井大明神の社号を「城井大権現」と改め、祭祀の例祭を定めました。
奥平歴代藩主からも厚く崇敬され、後に遷座を繰り返して、今の「城井神社」と改称されたということです。
隣にある扇城神社は、中津城で黒田官兵衛に誘殺された宇都宮鎮房の従臣らを「稲荷大明神」として祀ったことがはじまりとなっています。
黒田長政は、福岡の町づくりに油山を度々訪れており、風水のような、地理的な霊力を重視していた雰囲気があります。
黒田の血には、そうした呪術的な何かを継承する家柄だったのではないか、と思えてなりません。

