天日蔭比咩神社:常世ニ降ル花 潟姫眉月篇 01

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此依(かくよ)さし奉(まつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と
大倭日高見国(おほやまとひたかみのくに)を安国(やすくに)と定め奉りて
下津磐根(したついはね)に宮柱太敷(みやばしらふとし)き立て
高天原(たかまのはら)に千木高知(ちぎたかし)りて
皇御孫命(すめみまのみこと)の美頭(みづ)の御舎(みあらか)仕(つか)へ奉りて
天の御蔭(あめのみかげ) 日の御蔭(ひのみかげ)と隠(かく)り坐して 安国と平(たひら)けく知ろし食(め)さむ

(神々より賜った四方の国々と、その中心である大ヤマトの日高見の国を、安らかなる国と定めて、地の下にある岩根に太い宮柱を立て、高天原に届くほど高い千木を立て、皇御孫命は立派で美しい御宮を営み、天の神、日の神の陰に守られ住まわれ、安らかなる国よと平穏に治められた)

- 大祓詞

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能登半島・珠洲へ向かう途中、石川県鹿島郡中能登町久江に鎮座の「久氐比古神社」(くてひこじんじゃ)に立ち寄りました。
Googleマップには「久弖比古神社」と表記されており、どちらも正しい書き方のようです。

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当社も震災による損壊を受けており、クラウドファンディングで復興資金を募ってありました。
鳥居が立っていたであろう場所には、竹竿の結界が張ってあります。

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場所としては、天日陰比咩神社の少し手前になります。

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このあとに伺った、羽黒神社のある珠洲市や北の輪島市に比べると、まだ被害は少ないように感じました。
もちろん目に見えないだけで、深い場所で多くの傷が残っているのだと思います。

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神社の多くは、まず石造物の損壊が顕著に見られました。石灯籠や、鳥居の笠石などは、大抵落ちています。
久氐比古神社の狛犬さんはどっしりとした姿で、震災を耐え抜いておられました。

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さて、当社の祭神ですが、これがユニーク。
久氐比古神社の社名から想像はしていましたが、めずらしい案山子(かかし)の神が祀られています。

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「久延毘古神」(くえびこのかみ)は、古事記に「この神は山田の 曽當騰(案山子)のこと 足は歩かねど居ながらにして天下のことを知れる神なり」と書かれてあるように、博識の神で田や山を司る神であるとされます。

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この神を主祭神とする神社は稀であり、僕の知る限りでは他に、奈良の大神神社末社の「久延彦神社」くらいです。
神名の「クエビコ」とは「崩え彦」で、雨風にさらされて朽ち果てた”かかし”を表現したものと考えられています。
また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(岐神)との関連も考えられるとのこと。
かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになりました。

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天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は、古典に「天岩戸に隠られた天照大神をお迎えする祭祀に献奉りし鏡の元鉄を鋳造し、自も刀斧鉄鐸を作り献奉りし」 と書かれてあり、鉄の器具を造り司る神であるとのこと。
筑紫忌部・伊勢忌部の祖神とされる製鉄神で、三重の多度大社の祭神として有名です。
往古に久氐比古神社は「剣神社 剣明神」と呼ばれた時期があり、それはこの祭神によるものだろうと考えられています。

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もう一柱の祭神である「火産霊神」(ほむすびのかみ)は、一般には軻遇突智神(かぐつちのかみ)と呼ばれ、火の神とされます。
神産み神話でイザナミを焼死させてしまいますが、愛宕系神社や静岡の秋葉神社などで厚く信仰される神でもあります。

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久延毘古神、天目一箇神は、最初に久江に定着した住民の五穀豊穣祈願神として祀られ、火産霊神は時の推移と共に住民の過半数の守護神として祀られた、と由緒は記しています。

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また、剣明神と呼ばれていた頃は天目一箇神が主祭神で、相殿に久延毘古神が祀られていたようですが、現在は社名が表すように、久延毘古神が主神の位置にあります。
何かしら、大人の事情があったのか。
それはさりとて、火の神と知恵の神が製鉄神と共にある構図は、非常に興味深いものを感じます。

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久江(くえ)という地名には 「崩れる」 と言う意味があるそうで、石動山の麓であるこの地区は地滑りが頻繁に起きたことから久延毘古神を祀ったのではないかと言われています。
が、鉄を造るのに採掘が行われ、時に崩落事故もあったが故にクエとなったのではないか。
つまりここには、製鉄民族の、大きな勢力がいたことを感じさせるのです。
当社には、京都の八坂神社や東京の五條天神社で行われている特殊神事の「オケラ餅神事」が伝えられており、「醍醐天皇朝規の遺格、今に存せり」と云われていました。

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中能登町二宮鎮座の「天日陰比咩神社」(あめひかげひめじんじゃ)を参拝します。

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当社は10代崇神天皇の御宇に鎮座したとあり、2,000年以上の歴史を持つ延喜式内社。
建長4年4月(鎌倉時代)に能登国の二ノ宮と指定され、文徳天皇より後円融天皇まで9度にわたって神位を受けているとのこと。

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社前に掲げる由緒書には、主祭神を「屋船久久能智命」(やふねくくのちのみこと)としています。

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ククノチ神のことは「宮島で一番美しい木」を探している時に学びましたが、一般には樹木の神とされています。

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頭につけられている「屋船」は、家屋全体をふねに見立てた語とする説があるようですが、この神の正体は、大彦の末であるククチ彦である可能性が高く、屋は出雲の聖数の「八」であり、船は船戸、つまり「クナト」を意味しているのではないかと僕は考えます。

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天日蔭比賣神社の境内横には、しっとりとした社叢があり、

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アートなオブジェが点在する杜となっています。

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そこには、平成28年に湧水した「昇龍の井戸」があり、

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さらに奥には、

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「石動山遥拝所」がありました。
当社は標高564mの石動山(せきどうさん)の西麓にあり、元は、石動山山頂にある「伊須流岐比古神社」(いするぎひこじんじゃ)の下社だったそうです。
本来は、その伊須流岐比古神社が能登国二ノ宮だったのですが、後に天日陰比咩神社を相殿に祀り、現在は天日陰比咩神が主神となったとのこと。

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つまり、表の由緒書には記されていませんが、主祭神には「天日陰比咩神」(あめひかげひめのかみ)と「伊須流支比古」(いするぎひこのかみ)が祀られているということです。

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伊須流岐比古は石動山の古名の「いするぎ」または「ゆするぎ」に由来し、「石の動く山」という意味があるようです。
石が動くとはどういうことか。

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石動山は、泰澄によって開山されたとされ、かつては衆徒3000人を抱える天平寺があり、北陸では白山と並ぶ一大霊地でした。
しかし石動山は、泰澄の開山伝説以前から信仰の山であったと考えられており、その象徴たる磐座が山頂付近にあるそうです。
その磐座の名は「動字石」(どうじせき)。別名を「天漢石」と称し、天から降ってきた星が石と化したものであると伝えられ、この石が山に落ちてきた時に山全体が揺れ動いたことから「石動」という名が出来たと伝えられます。

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また、その石は鳴動し神威を顕したと伝えられ、伊須流岐比古神社は石を鎮めて神として祭るべく創建されたとされています。
石動山山頂の伊須流岐比古神社では、相殿神として白山比咩神が祭られており、石動彦と白山比咩はイザナギ・イザナミの夫婦神としての側面もあるのだとか。
白山比咩が常世織姫であるならば、伊須流岐比古は豊彦か。そんな妄想も抱きますが、おそらく伊須流岐比古の信仰は後年のことで、白山信仰に対するものとして生まれたのであろうと推察します。

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さて、それでは現在の社名となっている天日陰比咩とはいったいどのような神なのか。

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神明造風の落ち着いた社殿の裏には、天日加氣山(あめひかげやま)という山があり、山頂には「大御前峰社」があったとのこと。
そこに祀られていたのが天日陰比咩ということになります。

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中腹にあった中御前社は、崇神天皇の御廟趾で印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)の御陵墓趾だともいいます。
印色之入日子は垂仁大君(物部イクメ)と日葉酢姫(ひばすひめ)の子で、兄妹にオシロワケ・景行大君と大和姫がいますが、彼の陵墓がここにあるというのは不自然な気がします。
というのも、二度の物部東征でイクメ大君の物部王朝が大和に成立するものの、彼らは大和の豪族らの支持を得ることができず、景行大君の時代には吉備に王都を遷さざるを得ませんでした。
その後、景行大君は生涯の大半を九州征伐に費やし、ヤマトタケルとされる小碓皇子はエミシ征伐で東国入りし、そこで命を落とします。
大和姫は伊勢の斎宮としてその身を置きますが、果たしてイニシキイリヒコが能登に勢力を持てたのか。
いや、能登には信濃のような、敗者を保護する懐があったのかもしれませんが。

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山頂の大御前峰社は、羽咋・鹿島両郡市の雨乞い所であったと云われています。
この大御前峰社の名前、さらに伊須流岐比古神信仰と2大勢力され夫婦神とも言われた関係から、天日加氣山に勧請されたのは白山比咩神だったのではないでしょうか。

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白山比咩は菊理媛であり、瀬織津姫であるともされます。
瀬織津姫は祓戸神ではありますが、水に関係することから、雨乞いの神として祀られるケースもあります。

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そう思い至ると、本殿の背後から漂うしっとりとした気配にも、感じ入るものがありました。

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天日陰比咩神社の境内に、三つの屋根が重なった風変わりな社がありました。

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「天神稲荷社」です。

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道真公と宇賀御魂が一緒に祀られるのは珍しい。

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拝殿前に聳える2本の御神木は、「ククノチの聖木」と呼ばれる、宮島で一番美しい木に似ています。

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そもそも、なぜ当社に、屋船久久能智命が主祭神として祀られているのか、由緒はそれを語りません。

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また、社殿右後ろ奥の山には船木社が御鎮座しており、御祭神として神八井耳命が祀られていたと伝えられています。
神八井耳は大和初代大君の天村雲の息子で、二代大君の沼川耳の兄弟にして、多氏(太氏)の祖と伝えられる人物です。
さらに彼らの異母兄弟に、海部家の祖・天御蔭(あめのみかげ)がいます。

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この天御蔭の名が天日陰比咩の名前に近似していることから、当初はここは、天御蔭を祀る場所だったのではないかとも思えます。
そこへ修験の時代に白山比咩が勧請され、天日陰比咩という名の女神が誕生したのではないかと。

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それと同時に女神の名から思い浮かんだのが、大祓詞の「天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安国と平けく知ろしめさむ」のフレーズでした。
特殊かつ重要な神々が集い祀られた能登の中心、中能登町二宮の聖なる社。
静謐に守られた天日陰比咩神社の宮は、まさしくミコトの営む社にふさわしいものだと、感じ入ったものでした。

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境内には、伝承されてきたどぶろく造りを行う「みくりや」という建物がありました。
神殿には大三輪神が合わせ祀られ、戦前までは能登各地より多数の杜氏の参詣があり、その杜氏達は酒造りの御利益を頂くために、境内の杉の枝を持ち帰ったとの記録が残っているそうです。

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天日陰比咩神社は一見すると震災の影響はなかったようにも思えましたが、いや決してそんなことはなく、見えないところにも大きな損壊を受けているのでしょう。

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時間をかけて、とても丁寧に御朱印を書いてくださった女性宮司さんに、多めのお金をお納めさせていただきました。
ひとしきりの会話の後、「この後どちらにいかれますか?」と尋ねられ、「珠洲の羽黒神社宮司さんにお会いする予定です」と伝えました。
すると宮司さんは奥から2本のどぶろくを持ってきてくださり、「ひとつは羽黒神社の宮司さんにお渡しください」とのお気遣いをいただきました。
人と人のを結ぶ命の水。
思えば、今回の旅路は、水の女神の導きによるものであったなと、再認識したのでした。

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3件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    佐渡に行かれる際はこんなページが下調べには良いと思います

    ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/b_sado_2.htm

    阿部も居たようですね。物部神社もあるんですよー。

    単純な神社のランキングから、中世に流行った修験系の神社を引き算すると何かが見えてくるような気がする

    いいね: 1人

  2. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    お〜石動神社にニアミスされておられますか。以前に越智神社回った際の帰りに岩動神社も回りました。

    新潟は面白くて全国七万社が消失した明治の統廃合に関して県が消極的であったこともあり、残ったことにより全国一の神社数を維持するに至りました。その中で多いのが諏方、明神社、十二社(土着の神様と熊野修験系の二つあり)、山神、そして白山、熊野修験(ヤマトタケル、八海山)。ランクの神社だけで全体の半数を占めています。おそらくですが新潟の十二社の起源は比較的新しく熊野系と思われます。

    その中で、ランク外ですが微妙に多いのが八幡を除けば石動神社と羽黒山(古峯神社のヤマトタケルと一緒になってることが多い)です。

    佐渡島には物部守屋系の子孫とも言われる本間氏の拠点があり、前にもお伝えした勾玉の拠点があり、そしてなんと地域的には北側が熊野、南側が白山系のエリアとなっています。

    五泉市には前にお伝えした小さな淡島神社もあり、細々とクナトの大神も残っています。夫婦道祖神の石像は新潟市の白山神社神社が北限となっているようです。

    古い時代の氏族の分布を考える際、明治の統廃合の影響を受けてないところはとても貴重です。

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      来年こそは佐渡に渡ろうと思っています。熊野もあるのですね。
      そういえば、山笠で有名な博多の櫛田神社の裏に、石堂神社があります。祭神はアタカタスです。

      いいね: 1人

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