出雲屋敷と呼ばれるところは、「狭井神社」(さいじんじゃ)の奥にある「山ノ神遺跡」のところだと云われています。
しかし地元の人が言う、出雲屋敷があった場所というのはもうひとつ、別の場所にありました。
三輪山の麓、大神神社にほど近い狭井神社の西側に「久延彦神社」(くえびこじんじゃ)が鎮座します。
祭神の「久延毘古命」(くえびこのみこと)はかかしの神であると云われます。
古事記では「久延毘古とは山田のそほどのことである」と説明されており、「山田のそほど」とはかかしの古名であるからです。
大三輪神三社鎮座次第には久延彦神社の前は「曽富止神社」であった旨が記されており、神代よりこの地に祀られると伝わっています。
『古事記』によると久延毘古は次のように語られます。
大国主(大物主)が国造りを行った際、海の向こうからやってきた小さな神があり、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知りませんでした。
するとヒキガエルの多邇具久が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言いました。
そこで”足はあるかねど、天下の事を尽(ことごと)に知れる神”久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の子の少名毘古那神である」と答えたと云うことです。
神名の「クエビコ」とは「崩え彦」で、雨風にさらされて朽ち果てた”かかし”を表現したものと考えられています。
また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(岐神)との関連も考えられるとのこと。
かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになりました。
久延彦神社の境内には、神体山である三輪山を直接遥拝することができ、出雲屋敷と非常に近いこの場所は、祭り場である「霊時」だった可能性が濃厚です。
さて、もう一つの出雲屋敷というのは久延彦神社から続く小道の先にありました。
そこは山の辺の道から少し外れており、人通りもまばらです。
道脇に出くわしたこの石畳が何を意味しているのかは不明ですが、なんだかミステリアス。
小道を抜けると、目的の場所が見えてきました。
二つ並んだ夫婦の磐座が「奥垣内祭祀遺跡」。
石垣に囲われ、一段高い場所に祀られていますが、特別な案内板やしめ縄などもなく、ほとんどの人が気にも留めていません。
昭和40年に発掘調査が行われており、この磐座のそばから、須恵器、滑石製臼玉を収めた大甕、有孔円板、朝鮮半島の陶質土器や土師器が出土しています。
nokananさんが地元のおばさんから教えていただいたという内容のコメントによると、昔は大神神社は相当な財政難だったということです。
三輪山に巨木が無いのは木を売ったからじゃないかと。
それでそして、私有地の生い茂る木を伐採してみかん畑を広げようとしたそうです。
するとあの磐座が出て、その色々なモノが出土し“えらいこっちゃ”となったそうです。
ちなみに余談として、磯城氏と三輪氏の末裔が大神神社で禰宜さんとして働いているという情報も付け加えておられます。
まったく、彼女のコミュ力、情報収集力、そして洞察力には頭が下がります。
しかしてこの単なる広々とした公園の一角にある二つの石が置かれている場所が、地元民が言うところの出雲屋敷跡なのだそうです。
確かに、山ノ神遺跡よりも屋敷を建てるのにふさわしいと思われます。
ただ一つ注意点が。
山ノ神遺跡も奥垣内遺跡も、そこに置かれている石は本来のものではなく、よく似た別のものを後から置いたのだそうです。
まあ、レプリカ、と言うわけです。
それもそうだよな、と納得しつつ、それでもなお古代に思いを馳せるには、十分な神跡なのでした。
先日、小林正樹監督の『怪談』を見て大いに感動しました。
(=^ェ^=)
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dalichokoさん、こんにちは😃
小泉八雲の怪談が元なんですね。
それにしても3時間越えとは😅
ホラーは昔のやつの方が怖かったですよね。
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