正院 羽黒神社:常世ニ降ル花 潟姫眉月篇 02

投稿日:

9030120-2024-09-10-06-57.jpg

見附島(みつけじま)は、石川県珠洲市にある無人島。

9030092-2024-09-10-06-57.jpg

その姿は少女の前に立つ王蟲のようですが、

22921778_m-2024-09-10-06-57.jpg

震災前はキリッとしたお姿で、軍艦島(ぐんかんじま)と呼ばれていました。

9030095-2024-09-10-06-57.jpg

令和6年(2024年)1月1日に発生した令和6年能登半島地震で大きく変わり果てたその姿に、多くの能登人が悲嘆されましたが、

9030096-2024-09-10-06-57.jpg

おいおいおいおいおい、なんだって!
すごい”はちまき石”の島じゃんか!
見附島は、能登半島北東域に広く分布している新第三紀中新世後期の泥岩や珪藻泥岩(飯塚珪藻泥岩層)の堆積構造で形成されているそうですが、中央にくっきりと白い、おそらく石英の白蛇が横たわっています。

9030116-2024-09-10-06-57.jpg

見附島の由来は、「空海(弘法大師)が佐渡島から当地方に渡った際、最初に見付けた島であることに由来する」とありますが、これは後付けの話で、「往古、延喜式内”加志波良比古神社”に祀られる”加志波良比古神”(かしはらひこのかみ)が海上より珠洲の地に漂着された際、初めて見つけられた島であり、 その島そのものが鵜飼地区の氏神、住吉神社(同社も今回の震災で倒壊)の飛地境内地であり、 かつて島の頂上には住吉神社の境外末社、見附神社(藩政時代は見附弁財天社)が鎮座していた」と、羽黒神社の宮司様は教えてくださいました。

9030111-2024-09-10-06-57.jpg

その見附神社は見附島と向き合うように、ちょこんと鎮座しています。
この神社がかつては島の頂部に建っていて、螺旋状の階段で上がって行けたとのことですが、

9030114-2024-09-10-06-57.jpg

なるほど、ブログを書いていて今気づきましたが、確かに向かって右側の向拝の柱が一本無い。津波でさらわれた、のでしょうね。

9030108-2024-09-10-06-57.jpg

この宝立町地区は地震に加え、その後の津波の被害もあり、多くの犠牲者を出した場所でもあります。
平成5年(1993年)2月7日の能登半島沖地震(M6.6)、
令和2年(2020年)12月以降の能登群発地震、
令和4年(2022年)6月19日の地震(M5.4)、
令和5年(2023年)5月5日の地震(M6.5)で度々島の一部が崩落しており、
令和元年(2019年)の東日本台風(台風19号)では、見附島のそばにあり、見附島と並ぶ「二島」として長年親しまれ、セットで信仰の対象になっていた珪藻土の岩「小島」を失いました。

9030118-2024-09-10-06-57.jpg

しかしこれほどの地震に遭いながら、身を崩しながらも立ち望む姿は、能登の、珠洲の人たちの魂の姿であってほしいと願います。
勇ましさは若干薄れども、愛嬌ある姿の聖地として、これからも珠洲市のシンボルであることに変わりはないのです。

9030106-2024-09-10-06-57.jpg

見附島は「見月島」(みつきじま)の別名があるそうで、弁天=イチキシマヒメは隠された月読みの巫女「豊玉女王」を彷彿とさせます。
白蛇の宿る聖島に月読みの巫女神を祀ったのは、加志波良の何某であったか。加志波良とは橿原か。
その辺はまだよく分かりません。

9030121-2024-09-10-06-57.jpg

見附神社の傍には能登町恋路から輿入れした夫婦の椿が枝葉を広げ、

9030124-2024-09-10-06-57.jpg

子宝にも恵まれていました。

9030123-2024-09-10-06-57.jpg

c1d-2024-09-10-06-57.jpg

9020075-2024-09-10-06-57.jpg

念願であった、珠洲市正院の「羽黒神社」(はぐろじんじゃ)へ伺いました。
が、ブログで様子は伺っておりましたが、あまりの惨状です。

9020078-2024-09-10-06-57.jpg

地元福岡の羽黒神社、及び島根・隠岐島の由良比女神社の由来を調べ、本宮の出羽国(山形)の羽黒山出羽神社(いではじんじゃ)に行き着いた時、そこの「鏡池」に玉依姫が祀られていたという話を目にしました。
そこで更に検索をかけてみたところ、当神社の宮司様のブログに行き着いたというわけです。

9020076-2024-09-10-06-57.jpg

あらかじめ参拝の意図をメールにて宮司様にお伝えし、到着後、ご連絡させていただきました。
境内でしばらくしていると、宮司様がいらっしゃいました。
羽黒神社の様子は、それはもう、目も当てられぬ様子でした。
向かって左手にある手水は更に左外側に倒れていて、

9020077-2024-09-10-06-57.jpg

右側にある社殿は、土台から大きく右外側にずれて崩壊しています。
つまり、それだけ大きく、大地が左右に揺れたということです。

9020085-2024-09-10-06-57.jpg

今回の震災で、クラファンなどで復興資金を募っている神社もありますが、それはある程度復元の見込みがあってこそ希望となりうるもので、破壊が過ぎた状態では希望を見出すのも難しい。
それは珠洲の集落全体にも言えることで、地震発生から8ヶ月が過ぎても公費解体が進まないこの町に、「希望を持ちましょう」と声掛けするのでさえ、躊躇われるのです。
僕がお伝えできたのは、お渡しした見舞金を「神社の復興よりもまず、宮司様が今必要なことにお使いください」という言葉だけでした。

9020079-2024-09-10-06-57.jpg

傾きつつもなんとか無事であった斎館に、宮司様が命懸けで救出された御神体を安置されており、僕はそちらに上がらせていただいて二礼二拍手一礼にて参拝させていただきました。
今回僕は、持ち出せるだけ持ち出して能登に臨み、僕の分と店のお客様からお預かりした見舞金、それに持てるだけの差し入れを神棚に上げてお供えいただいたわけですが、胸には無力感だけが残り、果たして僕は何をしに珠洲まで来たのでしょうかと、羽黒の神に問うていました。

9020082-2024-09-10-06-57.jpg

正院の羽黒神社は、羽黒山系の修験者が、開祖蜂子皇子の足跡をたどって、諸国に羽黒権現を祀る社を建立していったうちの一社と考えられ、古来「羽黒宮」(はぐろのみや)「伊氐波宮羽黒大権現」(いではのみやはぐろだいごんげん)と称し、文明年中(1469~1487)に出羽国の羽黒山出羽神社(いではじんじゃ)からご分霊を勧請したということです。

9030311-2024-09-10-06-57.jpg

鎮座地は今も「正院羽黒山」(はぐろやま)と呼ばれ、麓から氏子集落まで「八丁八の田」とよばれる水田が広がっており、正院全土の食をつかさどる「田の神」「水の神」として信仰されてきました。
それゆえか、当・羽黒神社では、伊氐波の神を「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)として祀っておられます。

9020083-2024-09-10-06-57.jpg

弘化4年(1847年に小路村字丸山鎮座の「白山神社」(白山比咩大神/菊理姫命,伊弉諾命,伊弉冊命)を合祀し、羽黒山山頂より現鎮座地に遷座。
以来、小路八丁全域の産土神として、広く崇敬されてきました。
崇峻天皇の子「蜂子皇子」(はちこのおうじ)は、曽我氏との争乱を避けて倉橋の柴垣宮を逃れ、丹後国(京都)の由良に向かい、そこから出羽の由良浦に辿りつたと、一般には云われています。
しかし今に残る蜂子皇子の足跡はほぼ皆無で、僕は蜂子皇子の存在自体を疑っています。
ただ、本宮である出羽三山羽黒神社のHPでは蜂子皇子は能登から船出して由良浦に至ったと書かれており、宮司様は珠洲にある八ヶ山が蜂子山だったのではないかと考察されています。

e382b9e382afe383aae383bce383b3e382b7e383a7e38383e38388-2024-08-08-7.58.54-2024-09-10-06-57.jpg

僕は、神功皇后・オキナガタラシ姫の養子となる豊玉女王の子孫・竹葉瀬ノ君(たかはせのきみ)は、貫前神社から上越の居多神社に移動し、そこから航路にて敦賀の氣比神宮へ向かう途上に珠洲に立ち寄った可能性は高いと考えています。
竹葉瀬ノ君ルートには、越智神社が点在しており、母系の常世織姫に追従した越智族も一緒に移住したと思われます。
僕は、この常世織姫が龍宮の玉依姫であり、白山の菊理媛になったと考えています。

e382b9e382afe383aae383bce383b3e382b7e383a7e38383e38388-2024-08-08-8.19.33-2024-09-10-06-57.jpg

以前、山形の八乙女浦(由良浦)の記事で僕は、白山で常世織姫を祀る一派が能登の珠洲から佐渡へと渡り、更に由良海岸に渡り、羽黒山に羽黒神として豊彦、鏡池に龍神・玉依姫を祀り、月山に月読神を祀ったのが出羽信仰の始まりなのではないかと考察しました。
蜂子皇子が実在したとして、彼は柴垣宮から先の白山・珠洲・八乙女浦ルートを踏襲して羽黒入りを果たしたのではないかと考えます。
一方、由良姫信仰が丹後・由良から隠岐島を経由して、鶴岡に伝播したのかな、とも思っているところですが、由良比女を祀る隠岐西ノ島にも見附島があることから、あるいは珠洲を中継した可能性も感じました。

9020081-2024-09-10-06-57.jpg

少し驚いたのは、当・羽黒神社のご神紋が、「丸に三つ柏」だったことです。
これは徳島の倭大國魂神社や長野の守屋神社に見られる神紋で、非常に意味ありげなものだからです。
もともとこのご神紋は、能登半島の更に先にある、須須神社の高座宮の神紋だったようです。
熱田神宮宮司家の千秋家や日御碕神社宮司家の小野家、神職以外では土佐藩主山内家、長岡藩主牧野家が使用した紋でもありました。

9020084-2024-09-10-06-57.jpg

兎にも角にも、奥能登は歴史的にも重要な場所であったのは間違いなく、それゆえに様々な特徴的な神が随所に祀られています。
火宮神社が散見されることや天目一箇神の存在があることを見れば、古代に海路でしかアクセスできなかったであろう当地は、秘密の製鉄所だった可能性もあるのではないかと思われたのでした。

9020087-2024-09-10-06-57.jpg

c1d-2024-09-10-06-57.jpg

9030133-2024-09-10-06-57.jpg

羽黒神社参拝から一夜明けて、更に東部の珠洲市三崎町森腰にある「片姫神社」(かたひめじんじゃ)を参拝しました。
ここは羽黒神社の宮司様が兼任をされている神社です。

9030132-2024-09-10-06-57.jpg

境内に立派な倉庫がありますが、ここにはキリコを格納してあるのでしょうか。

9030135-2024-09-10-06-57.jpg

祀年代不詳なれど、森腰が未だ潟にして村となさざりし頃よりの御鎮座といい、御祭神は往古海の彼方より漂え来たるといいます。

9030148-2024-09-10-06-57.jpg

片姫神社は羽黒神社より能登半島端部にあるのに、こちらは一見して大きな損壊は見受けられません。珍しく、狛犬も石灯籠も無事です。

9030140-2024-09-10-06-57.jpg

「能登國式内等旧社記」に「一、潟姫神社、三崎郷森腰村鎮座、称片姫宮」とあり、「片姫は潟姫にして豊玉姫命の尊称なり」と記されます。

9030143-2024-09-10-06-57.jpg

よって、片姫神社の祭神は「豊玉姫命」となり、相殿に元粟津村氏神の「少彦名命」を明治44年合祀しています。

9030146-2024-09-10-06-57.jpg

祭神が往古、海の彼方より漂え来た、とのことですが、これは何を意味しているのか。
御神体が森腰の潟に漂着したということでしょうか。
当地に宇佐の豊玉姫を祀る要素は、どこにあるのでしょうか。

9030145-2024-09-10-06-57.jpg

御神体となる物がある時海岸に漂着したとして、それを御神体と認識する信仰が、すでに珠洲にあったのではないかと僕は想像します。
それが竹葉瀬ノ君の居多神社から氣比神宮への渡航ルートです。

9030141-2024-09-10-06-57.jpg

その時、越智族も同行していましたので、常世信仰も当地に伝わったものと思われます。
常世の神は、海の彼方からやって来るのです。

9030142-2024-09-10-06-57.jpg

この後、僕は能登半島東端まで足を伸ばし、更に輪島に向かう前にもう一度、羽黒神社を参拝しました。

mg_5170-2024-09-10-06-57.jpg

当たり前のようにあるはずだった日常。
ささやかな正月を楽しむ珠洲、正院の人たちの姿。
僕は常に現地に足を運ぶことで、往時の人たちの生活風景をフラッシュバックさせ、この偲フ花や本を書いてきました。
今回はそれがアダとなったようで、来店されるお客様一人一人に能登の現状をお伝えしたこともあり、帰宅後の数日間は、鬱に苛まされました。

mg_5171-2024-09-10-06-57.jpg

今、能登を旅するということは、そういう一面があるということです。
己の無力感を実感します。
しかし旅をしなければ良かったかというと、決してそうではありません。僅かながらもお届けできたものはあり、得たものもありました。
停滞すること、思考を放棄することが一番良くない。
現地では様々な思いがあるとは思いますが、もし足を運べるのであれば、運んだほうが良い、とそう思います。
何かを始めようとしなければ、何も始まらないからです。

mg_5173-2024-09-10-06-57.jpg

日常は突然失われることもあり、穏やかに新年を迎えるはずであった珠洲の方々の今を思うと、心が張り裂ける思いです。
しかし日常はまた、気がつくと身に寄り添っていてくれているものでもあり、宮司様、ご家族様、そして能登の全ての方々に、穏やかな日常が戻られることを、倉稲魂の神に心よりお祈り申し上げます。

9030316-2024-09-10-06-57.jpg

3912e7bebde9bb92e7a59ee7a4be-2024-09-10-06-57.jpg

2件のコメント 追加

  1. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

    おはようございます。ダンノダイラの記事のメールを頂き、さてトップページからと思いました所、能登関連がまず目に入りこれは…と書かずにおれぬ気持ちです。7月の下旬に珠洲・輪島を訪問、羽黒神社様にも寄らせていただきました。同行者が出羽三山神社神子修行を3回経験した者で、どうしても気になって行きたいとの話からでした。7月下旬を選んだのはのと里山海道が双方向通行となり、地域の方や復興関係者の方の邪魔にならない時期ということも考慮し、宿は氷見市に取ることで七尾経由で無難に行き来出来ました。別記事に書いておられるXの「おいこら」様もフォローさせていただいており、今一番必要なことは何かと地域の方々に伺ってきました。重機の操縦が出来る事や電気工事士さんの絶対的不足は地元に帰ってから関係者に手配し、微力ながら一歩でもと思っています。宮城県ナンバーの車も何台も見かけお話を伺うと「あの時の恩返しです」と心の繋がりも再認識でした。 また寒い季節が近づいております。せめて次のお正月に暖かな時間を過ごせる方が増えますようにとお祈りいたしております。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      こんにちは。
      こちらへのご返信を、失念しておりました。すみません。
      羽黒神社宮司様のブログを拝見しますと、ようやく公費解体が始まったようです。
      羽黒神社の社殿も、まさに解体の真っ最中のようですね。
      崩れた社殿を見ているのも心苦しかったですが、なくなっていくのもまた切ないものです。
      願わくば、祭具などが無事救出されることを願っています。

      いいね: 1人

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください