嚴島神社(干):親魏倭王ノ都 03

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その日、瀬戸内に浮かぶ数ある小島の一つが、神の島となった。
多くの船、多くの人が集ったがにぎやかさはなく、その島は悲しみに覆われていた。

ある者は、「まるで太陽が消えたようだ」と言った。

248年、豊国軍が安芸国に留まっていた時、女王「宇佐豊玉姫」が埃ノ宮で没した。
その遺体は安芸の宮島に運ばれ、仮の葬儀がなされることとなった。
豊国とは豊前と豊後にまたがる王国であった。
豊王国はけっして強大な国ではなく、立派な都とは呼べなかったが、女王豊玉姫の信頼は厚く、国民の心は豊かであった。
女王は信心深い民のためにも、もっと豊かな王国にしたいと、願っていた。

その豊玉姫のもとに、九州物部王「イニエ」から使者がやってきたのは十数年前のことである。
イニエは豊玉姫を后に迎え、豊王国と同盟を結びたいと伝えてきた。
彼の夢は、真の東征、つまり政治と信仰の両方で大和を統治する大王となることだった。
その意味で、先の物部東征は失敗であったと言える。

しかし彼は早くにこの世を去ってしまった。
それからしばらくの時が流れ、彼の大望は、先妻の子「イクメ」と、我が子「豊彦」と「豊姫」が受け継いだ。
いよいよ宇佐の港から連合軍の船が出航を果たす。
だが、それから程なくして、女王豊玉姫の寿命が尽きてしまった。

「かの島の山頂に、聖なる斎庭(ゆにわ)がございます。」

安芸国の誰かが、そう言った。
それで豊玉女王の遺体は丁重に、山の頂に運ばれた。
彼女の遺体は老いてなお、神々しさを放っている。
眼下に瀬戸内の海を見渡し、彼女は先祖の女神の名を借りて神となった。
祖神の名にちなんで、瀬戸内に浮かぶ小島は「神の斎く島」と呼ばれるようになった。

わだつみの女神の血を引くその姫は、「親魏倭王の女王 卑弥呼」と魏志に記される。
彼女の遺体は山頂の儀式ののち、海を渡って故郷「邪馬台国」と記される宇佐の王国へと、帰って行った。

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嚴島神社は、潮が干いた姿よりも満ちた姿の方が、好まれるようです。
確かに、海上に浮かぶ神殿はとても神秘的です。
しかし潮の満ちた厳島が観光向けの、よそ行きの顔だとしたら、
潮の干いた厳島は、普段着の、包み隠さない姿を僕に見せてくれるのです。

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干潮時に一番見るべきは「鏡の池」でしょう。
満潮時には見ることのできない、丸く清い水が湧き出る鏡の池は、嚴島神社の神秘中の神秘です。

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なんだか縁起の良さそうな鳥も、鏡の池のそばにいました。

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社殿中程にある、これも鏡の池です。

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池の中にある一際目立つ石を「卒塔婆石」(そとばいし)と呼んでいます。
約800年前に、京都鹿ヶ谷で平家滅亡を企てた罪により、僧俊寛・藤原成親らと共に鬼界ヶ島に流された平康頼が、京に住んでいる老母を偲んで2首の歌を千本の卒塔婆に書いて流し、その内の1本がこの石の所へ流れ着いたと云います。
「思いやれしばしと思う旅だにも 猶故郷は恋しきものを」
「薩摩潟沖の小島に我ありと 親にも告げよ 八重の潮風」

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この卒塔婆石の近くに「康頼燈籠」(やすよりどうろう)が建っています。
嚴島神社に参拝に来ていた僧によって都に伝えられ、程なく康頼は帰京を許されます。
康頼は感謝し、厳島大神に御礼のためにこの石燈籠を奉納しました。
宮島の中で一番古い石燈籠と伝わります。

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本殿近くに「大国神社」があります。
御祭神はもちろん大国主命。
大国主命は、田心姫命と結婚していますので、御本社に近い場所にお祀りしているそうです。

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大国神社の奥に絵馬堂があり、その先に「天神社」があります。
御祭神は菅原道真公。

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弘治2年(1556)毛利隆元によって寄進された天神社は、社殿群の中では新しく、時代が下がるため能舞台と同じく丹が塗っていません。
古くは「連歌堂」(れんがどう)といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていたそうです。

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大国神社の奥に架かる長さ33mの「長橋」(ながばし)は「御供所」(ごくしょ)から神饌が運ばれるときに使われていたそうです。

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ここに3つ目の鏡の池があります。

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鏡の池はいずれも枯れることのない池だと聞いていますが、ここの池は枯れているように見えます。

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天神社の奥には「反橋」(そりばし)があります。

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別名、「勅使橋」ともいい天皇からの使者だけがこの橋を渡ることができたそうです。

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有名な「能舞台」です。
国重要文化財で切妻造・桧皮葺の建物です。

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夜に行われる舞は、波の揺らめきが反射して、とても幻想的です。

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本殿では祈願が行われていました。
僕の息子と娘は、ここ、厳島神社でお宮参りをしました。
世界遺産の氏子です。

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そして娘は、結婚するなら厳島神社か出雲大社が良いと言っています。

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せっかくなので、御神籤を引いてみましょう。

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大吉です♪

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「火焼先」(ひたさき)へ出てみました。

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嚴島神社は潮が引くと、大鳥居のそばまで歩いて行けます。
日によっては歩いて鳥居をくぐることもできるそうです。

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鳥居の左右には、太陽と月の印が付けられています。

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間近に見ると、色々気づくこともあります。

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真冬の寒い日でしたが、水鳥たちは気持ちよさそうに泳いでいます。

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宮島は太古から神聖視され、むかしは人が住むことが禁じられていたと云います。

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人が住むようになったのは鎌倉時代末期からだそうで、神聖であるがゆえに、現在でも島内に墓地はないそうです。

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248年頃の弥生時代、九州物部族の王「イクメ」は父の念願だった第二次物部東征を決行しました。
その時、連合関係にあった豊王国も女王豊玉姫とともに軍勢に加わります。

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しかし豊玉姫は道半ば、安芸国で亡くなります。
そして宮島に遺体を運び、仮埋葬を行うことになったと云います。

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嚴島神社本殿裏の杜は、「後苑」(うしろぞの)という禁足地になっています。
そこには「不明門」(あかずもん)があり、絶対に開いてはならないと言い伝えられています。

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境内裏の「後苑」にある門です。
「不明門」は弥山から神が往来する門だと云われています。

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豊玉姫は宮島で仮埋葬されましたが、戦時中であるので、女王の墳墓は造られませんでした。
彼女の遺骨は豊王国のある宇佐に移され、宇佐八幡宮から見える奥山に埋葬されました。

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偉大な女王の葬儀は盛大だったと云います。
その日、小さな小島、宮島は、「神を斎き祀る島」となったのです。

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