畝傍山:常世ニ降ル花 神門如月篇 06

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「思ひあまり いたもすべなみ 玉たすき 畝傍の山に 我れ標(しめ)結ひつ」

(恋しくとも、なすすべもないので、あなたを思わせる畝傍の山に、私だけのものだとしるしを結うのです)

- 『万葉集』1335 詠み人知らず

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奈良の天理市にできた道の駅「なら歴史芸術文化村」ってさぁ、めっちゃシャレオツなんだよね。

「全国初の本格的な文化財修復と展示を見学できる施設を中心に、産直野菜売り場や伝統工芸品の展示販売、デジタルサイネージを駆使した観光案内所など、多様な施設が集まっています。
世界に誇る文化遺産だけでなく、奈良の食材や農産物、良質な工芸品など、奈良の良いところをぎゅっと集めた道の駅です。」

それで、そこのレストラン「まるかつ」さんのカツ、めちゃ旨だったから激推し~☆
ほら、ねえ、あんまりこんなこと言いたくないけど、奈良ってご飯食べるとこなくって、困っちゃうじゃん。
いやあるんだけどね、探せば、きっと、たぶん。奈良飯のよいとこ、誰か教えて~っ!!あと京都飯もー。

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ということで、膨れた肉体を昇華するため、橿原市久米町鎮座の「橿原神宮」(かしはらじんぐう)にやってきました。

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橿原神宮は、民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建されたと云います。
その理由は、ここに初代天皇の宮「畝傍橿原宮」があったからだとされています。
なので、祭神は初代天皇とされる「神武天皇」と、その皇后「蹈鞴五十鈴媛命」(タタライスズヒメノミコト)になっています。
常識的にいえばそうなんだけど、富家伝承的にいえば、違うよね。

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第一次物部東征で大和入りを果たした物部族が、「磐余」の地に拠点を構え、その後、最終的に本拠地としたのがここ、橿原の地であったと、確か大元本のどこかに書いてあったと記憶しています。
まあ、流れからしても、ここが第一次物部東征軍の最終拠点であったと考えて間違い無いかと。

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さて、橿原神宮の広大な境内を歩くだけでも、多少のキャロリーは消費できるでしょうが、今日はあの畝傍山(うねびやま)を登ってみようと思います。
午前中は八つ岩登ったばかりでしたが、カツ食べたし、帰りは空港でたこ焼き食べる予定だし、体重のマッチポンプ。

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橿原神宮の北参道の途中に畝傍山登山口があり、約30分で山頂まで登ることができます。

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畝傍山は奈良盆地南部に位置し、天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ親しまれる低山。

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標高は198.8mと、三山の中では最も高い山となります。

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登山口から少し歩くと、「東大谷日女命神社」(ひがしおおたにひめのみことじんじゃ)がありました。

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鳥居横に建つ義民顕彰碑は、明和5年(1768年)の大凶作に由来するものです。
この大凶作で苦しむ農民たちの中から、大谷村の庄屋半兵衛、畝傍村の惣治郎を筆頭に池尻の陣屋に強訴を行い、役人から年貢不納の免許状を勝ち取りました。
しかし後に、江戸から来た役人が厳しい取り調べを行い、惣治郎は死刑、他の加担した農民たちには、村高百石につき四石の科料(罰金)が命じられました。
村人たちは惣治郎の功績を称えて、ここに顕彰碑を建立したと言い伝えられています。

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不思議な形の石の庚申さん、カエルがあぐらかいているように見えます。

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僕は最近まで、この東大谷日女命神社の存在を知りませんでしたが、とても心地よい神社です。
アクセスが容易な割に、しっとりとした秘境感が素敵。

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祭神は「姫蹈鞴五十鈴姫命」(ひめたたらいすずひめのみこと)ですが、当社の創建は不詳で、徳川時代には「熊野神社」として明治11年頃まで熊野権現・伊弉冊尊を祀っていたとのことです。

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式内社「東大谷日女命神社」に関しては、桜井市山田に鎮座する同名の「東大谷日女命神社」を比定する説が有力ですが、大谷という地名が畝傍山西方にあり、明治20年頃から当社を式内社「東大谷日女命神社」に社名変更して比定地として名乗りをあげました。その際、祭神を神功皇后に変更。
さらにその後、祭神を姫蹈鞴五十鈴姫命に変更した経緯があります。

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神社巡遊録』さんによれば、当社には次のような情報があるとのことです。


室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば次のように記しています。
・当時の社号は「東姫神社」。
・久米郷今井村宮森にある。
・忌部氏の記録によれば、祭神は「朝日豊明姫命」であり、大倭盛次は稚日女尊の隠号であるという。

久米郷今井村とは現在の橿原市今井町と考えられ、今の「東大谷日女命神社」論社二社とも全く異なる地となってるとのこと。
また忌部氏の記録による祭神「朝日豊明姫命」は、大倭何某に言わせれば「稚日女尊の隠号である」と。

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稚日女と言えば、大和入りを果たした豊のカリスマ巫女「豊来入姫」となります。
コレは胸熱。
ただ、『和州五郡神社神名帳大略注解』がどの程度信憑性があるものかも、大倭盛次がどういった人物かも、不明ではあります。
はっきり言って、かなり偽書っぽい。

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それはそうとして、「東大谷日女命神社」の祭神は、姫蹈鞴五十鈴姫や神功皇后、豊来入姫ではなく、「東大谷日女」なる女神であることは濃厚で、東を「やまと」と呼ぶなら、畝傍山の東に鎮座していなくても良いわけです。
だって、大谷という場所は、畝傍山の西麓なわけですから。
これについても『神社巡遊録』さんは、西麓にある「畝火山口神社」と鎮座地が入れ替わっているのではないかと、疑問を投げかけていました。
おもろ~♪

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さて、ズイズイ歩くよ~。

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畝傍山はかつて、「畝火山」、「雲根火山」、「宇禰縻夜摩」などと記されました。
また、万葉集の中では「瑞山」(みずやま)とも詠まれ、古来より歌人に愛された山でした。

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美しい山容の畝傍山は、高貴な女性の例えとしても用いられ、冒頭の万葉歌は身分違いの女性を愛した男の歌であると考えられます。
万葉集の詠み人知らずは、ほとんどが柿本人麿のものだといいますが、まあ、彼ならさもありなんといったところでしょうか。愛妻家ではありますが。

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畝火とは「火がうねる」という意味になります。
そのことから名の由来は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つことから名付けられたとも、瀬戸内火山帯に属しており、古代人がこの山を火山と認識していたともいわれています。

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しばらく行くと、畝火山口神社への分岐がありました。

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なるほど、では先に下って参拝していきましょう。

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グイグイ~っと降りてくると、橿原市大谷町の「畝火山口神社」(うねびやまぐちじんじゃ)に到着です。
そう、ここの地名が「大谷」なんですね。

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畝火山口神社は、地元では「お峯山」(おむねやま)とも呼ばれているそうです。

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創始の由緒は不詳で、文献の初見は『新抄格勅符抄』大同元年(806年)の神封一戸を寄せるという記述になります。

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祭神は「気長足姫命」(神功皇后)、「豊受比売命」「表筒男命」となっていますが、他の山口神社の例や神社の性格から、本来の祭神は大山祇命であったとみられているそうです。

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こちらに豊受比売がいることから、「忌部氏の記録によれば云々…」という話は、コレとごっちゃになっている可能性があります。

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当社は、例の『和州五郡神社神名帳大略注解』(五郡神社記)によれば「畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾」とあり、実際に天正年間の地図には畝傍山頂に記されており、文安から天正までの間は、山麓から山頂に神社が遷されていたことになります。
それが、昭和15年(1940年)の橿原神宮大拡張工事が行われた際、橿原神宮や神武天皇陵を見下ろすのは皇国史観全盛期の時勢から「神威をけがす」として、日本政府より畝傍山西麓の現在地に遷座するよう命じられたとのことです。

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この時、五郡神社記に元の鎮座地が畝傍山の西麓であると書かれていたため、ここに遷座したようです。

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つまり、畝火山口神社が山頂から降りてきたので、ここにあった東大谷日女命神社は場所を譲って、東麓に遷ったのではないかと推察されます。

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畝火山口神社は、延喜式祝詞に記される大和国内の山口社6社(飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無)のうちの1社であり、臨時祭での祈雨神祭八十五座の1つであるそうですから、当時の権威もあってのことでしょう。

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境内にはサイノカミを思わせる石も、置いてありました。

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畝火山口神社から、再び登ります。

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分岐点まで戻ってくると、怪しげな脇道がありました。

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これはショートカットの予感。

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かなり険しい斜面を、ロープを目印に這い上ります。

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おお、もう山頂か!

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ってことはなく、道はまだ続きます。

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しかし、最初こそクライミングばりの斜面でしたが、すぐに尾根に辿り着きました。
あとは楽ちんモード。
体力に余裕がある人は、このショートカットコースがおすすめです。
可愛いコは、ショートカットヘアがおすすめです。可愛いから。

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さて、謎の神社の謎の祭神「東大谷日女」ちゃんですが、ネット上では記紀にも見えない名前の神でよくわからない、と言われています。
“東”は”ヤマト“で間違いないでしょうが、”大谷”を”オオタニサーン”と呼んでしまえば、分からなくなるでしょう。
でもね、読み方を変えたら、あるじゃぁないですか、ビッグネームが記紀にも。

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西出雲王家・神門家のアジスキタカ彦の娘は、丹波国でカゴヤマの妃となったあと、息子のタカクラジとともにカツラギに移住しました。
彼女は笛吹の北方で晩年を過ごしたので、その地には彼女の地名が残っているといいます。
その姫君の名前は「大屋姫」。オオタニサーンではなく、ヤマトのオオヤサーン、だったのです。

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大和に移住してきたタカクラジ、たぶんはその子孫が、父神を大和三山の天香久山に祀り、母神を畝傍山に祀ったのではないでしょうか。
畝傍の字も、元は采女などの”采”で、称賛を込めた名前だったのでは。
大屋姫は古事記には登場しませんが、日本書紀にオオヤツヒメの名で記載があります。

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どうやら、山頂に着いたようです。

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畝傍山の頂上部分は、黒雲母安山岩から形成され、ざくろ石黒雲母流紋岩の流離構造を示す貫入岩も存在します。
これは、中新世に噴出した火山岩が侵食されて、その一部のみが残存した侵食地形だとのこと。
噴火時の大きさは現在の2倍以上であったとされています。

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畝傍山の東麓には、初代天皇の御陵である「畝傍山東北陵」(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)があります。
これは、壬申の乱の際に、大海人皇子が神懸りして「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたという記事が根拠となっています。
しかし中世には、その所在も分からなくなっていました。
江戸時代初期に初代天皇陵を探し出そうという動きが起きますが、その治定には紆余曲折があり、今なお確証に乏しいというのが実情のようです。

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それもそのはず。
磐余彦といえば第一次物部東征で大和入りを果たしたウマシマジ、ということになるのでしょうが、彼が大和王朝の初代大王というわけではありません。
思えば明治期に橿原神宮が造られたのは、この矛盾を解消するためだったのではないでしょうか。
ウマシマジと村雲を融合させるという。
なので橿原神宮の祭神が本来はウマシマジであるはずなのに、后神に蹈鞴五十鈴媛が祀られるという、珍妙なことになっています。

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畝傍山の山頂は、ちょっとした公園のようになっていますが、なんと三女神が降臨していました。
やはりこの山は、女神の山です。

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その先の開けた場所からは、大屋の里が見えていました。

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ぐるりと周回すれば、耳成山も見えます。
耳成山は、菅之八耳ではないでしょうか。

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お隣には、三輪山も見えています。

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畝傍山山頂の中心には、畝火山口神社の旧御鎮座地というものがありました。

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この神社は元々畝傍山麓に祀られた、クナト神だと思われます。
アジスキタカヒコの子孫が大屋姫を祀ったなら、そこにクナト神を祀っていても、おかしくありません。

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そして東大谷日女命神社は江戸時代には「熊野権現」と呼ばれていたとのこと。
彼女の息子、タカクラジは紀国王でしたので、時の流れでそうなったのでしょう。
熊野権現でありながら、イザナミであったというのも、納得です。

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『「摂津名所図絵』(1796年)には、「住吉大社の神官が天香久山に向かい、香山の社司とともに畝傍山にて埴土を取った」と記されているそうです。
その埴土を使って天平瓮を造って住吉大神に奉ったとのこと。

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これは今も、大阪の住吉大社の特殊神事「埴土神事」として受け継がれています。

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大いなる母性が宿る土をもって、祭器を造る。
いかにもサイノカミ的な要素を含みます。

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美しき高貴な霊山に坐すのは、八千戈から血を受け継ぐ孫娘。
その偉大なる地母神は、ヤマト大屋日女であったと、思うのです。

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2件のコメント 追加

  1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    円錐形の三山、うねうねうね〜の畝傍山は蛇の山神〜、耳成山の「み」は巳🐍〜、香具山は「カカ」で蛇〜蛇つなぎ石ある〜🎶 みんな蛇。そもそも三輪も巳輪で蛇〜🐍 みんなとぐろを巻いてますね。ん?大和で九頭龍となったタケミナカタは、蛇というより龍🐉ですね。🤔🤔🤔

    では、るるぶ出芽、京都飯編行きま〜す。咖喱饭はどないですか?ワテは好き🩷 週3はいけますわ

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    そして、京都は下鴨神社西側の「出雲」地区。奈良の出雲が桜井ならば、京の出雲はそこ。出雲寺跡地、出雲路幸神社(網の中に入れられた猿さまの像と謎の石が本殿の中にあり。。。)裏手にツルツル石神さまがいらっしゃいます、が、消して触ってはなりませぬ。触るとそれは祟ると言われとるのどす。京都御所の護衛にされてる猿田彦様。大和朝廷の当時の圧力を感じさせます。。。出雲路幸神社は。。なんと安来にもありやした。塞神社、佐為神社とも言われてたのでしょう。京のここと対になっています感アリアリなんどす。安来の方が断然心地よく出雲を感じますけんど。

    それでは、神社を愛する皆の様方、楽しい京旅を。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      ありがとうございます。メモっておきます😋

      いいね

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