橿原神宮「神武天皇御一代記御絵巻」に見る神武東征神話

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『古事記』『日本書紀』は、日本の正史を記す書とされていますが、両書が与えられた最も重要な課題は「日本建国の起源を明確に記すこと」であろうと思われます。
いわゆるこの「日本建国神話」は、古事記では中巻の冒頭に、日本書紀では巻三の「神武紀」でそれぞれ記されています。
ただ、その信ぴょう性には多くの学者が疑問視をしているのが実情で、古事記は5割、日本書紀は8割が虚実であるなどと言う研究者もいるほどです。
僕は記紀に消された「古代出雲王国」の王家の末裔を称する「斎木雲州」氏の伝承を元に、各聖地を旅していますが、ここに一度、日本建国神話「神武東征」の物語を、整理したいと思います。

神武東征を記すにあたって、奈良の橿原神宮に公開展示されていました、「神武天皇御一代記御絵巻」を引用させていただきました。

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遥か昔、天照大神の孫「ニニギノミコト」が高千穂に降臨しました。
ニニギは美しい姫「コノハナサクヤヒメ」を娶り、3人の息子を得ます。
その一人、「ヒコホホデミ」又の名を「山幸彦」は龍宮の姫「豊玉姫」を娶り、「ウガヤフキアエズ」を儲けます。
そしてウガヤフキアエズと豊玉姫の妹「玉依姫」との間に、4番目の皇子として誕生したのが「神日本磐余彦」(カンヤマトイワレヒコ)、「神武天皇」でした。
磐余彦は大変聡明で、15歳の時に皇太子に即位します。

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磐余彦45歳のとき、他3人の兄達と集まって、「この国の全ての人々が、安らいで暮らせるにはようにするには、どうしたらよいか」を話し合いました。
それには今の和国の西「九州」よりもっと東に宮を移すのが良いとなります。
そして和国の中心「大和」を目指す東征が決められたのです。

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日向(宮崎)を出航した磐余彦一行は、速吸之門(はやすいのと/豊予海峡)へ到ります。
そこは名の通り、潮の流れが早い海峡でした。
磐余彦たちの船は皆、先に進めなくなってしまいましたが、国津神の「珍彦」(ウズヒコ)と出会い、彼の水先案内で、宇佐へ無事上陸できました。
珍彦は「椎根津彦」(シイネツヒコ)という名前を賜り、東征後半で大活躍します。
その後、遠賀川流域の岡田宮(福岡)から埃宮(広島)、岡山へと進軍。
岡山では「高嶋宮」を建て、3年の間、兵糧備蓄・軍船建造を行います。

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磐余彦らは岡山からいよいよ大和の地「難波の碕」に到着します。
「白肩の津」を経て生駒山から中洲(大和)を目指そうとします。
しかし、ここで彼らを待ち受けていたのは、大和最大最強の敵「長随彦」(ナガスネヒコ)とその大軍でした。
孔舎衛坂(くさえのさか)で相対することとなった磐余彦軍と長髄彦軍は激戦となり、奇しくも磐余彦軍は敗退してしまいます。
この激戦で磐余彦の兄「五瀬」(イツセ)は、長髄彦軍の矢を肘にうけ、重傷を負ってしまいます。
ひとまず退散した磐余彦軍でしたが、兄の五瀬は磐余彦に、
「我々は太陽の女神の子孫である。その我々が日に向かって矢を射かけて進軍したのが間違いだった。これからは遠回りしてでも日を背に受けて戦おう。」
と告げます。
しかし、その後、和歌山の竈山(かまやま)で、五瀬は帰らぬ人となるのです。

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東に向かって進軍したのが敗因と悟った磐余彦たちは東から西に向かって攻めるため、紀伊半島を海路にて南下します。
やがて熊野灘に至ったところで今度は大嵐に遭遇、二人の兄「稲氷」(イナヒ)と「御毛沼」(ミケヌ)が相次いで海に身を投げ、嵐は治まりました。
磐余彦は兄達の全てを失ったのです。

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磐余彦は悲しみをこらえ、軍を率い陸路を進みます。
熊野の荒坂に差し掛かった時、突然、熊(神)が現れ、その熊の毒気によって全軍が昏倒してしまいました。
磐余彦軍の絶体絶命の危機を、天界から見ていた天照大神はタケミカヅチに救援を命じます。
タケミカヅチは、葦原中國を平定した神剣「韴霊剣」(フツノミタマノツルギ)を地上に降ろします。
それを受け取り磐余彦に届けた人物が「高倉下」(タカクラジ)でした。
磐余彦が剣を引き抜くと、毒気が晴れ、全員が正気になり、危機を脱出します。

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さらに進軍する磐余彦は、熊野の険しい山中「大台ケ原」で道に迷います。
このとき、再び天照大神の救援により、八咫烏が飛来し、磐余彦軍を道案内しました。
おかげで一行は吉野川の上流までたどり着くことができました。

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宇陀の穿邑(うがちむら)に至ると、そこには豪族の「兄猾」(エウカシ)と「弟猾」(オトウカシ)兄弟がいました。
兄猾は磐余彦の誘いに恭順せず、彼を暗殺しようとしますが、弟猾の密告で謀を事前に知ることができた磐余彦は、逆に兄猾を誅殺しました。

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宇陀を平定した磐余彦には、次第に帰順する土地の豪族も増えてきます。

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磐余彦が宇陀の高倉山に登って遥か中洲を眺めると、四方要所はすべて賊(敵)に囲まれていることがわかりました。
その夜に、夢に天照大神が現れ「天香山の土で祭器をつくり、それで天神地祇を祀るなら、争うことなく賊は自ずから従うでしょう」と告げました。
果たして磐余彦はそのとおり実行し、丹生川上で神祇祭祀を行います。
そして神威により、お告げの通りとなりました。

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国見丘(山)に陣取っている大勢の敵がいました。
「八十梟帥」(ヤソタケル)です。
屈強で有名な八十梟帥でしたが、神威を得た磐余彦はこれを撃破することに成功します。

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磐余彦軍は、榛原と大和平野の間にある忍阪(おさか)に至ります。
そこにも多くの賊が待ち構えていましたが、これに道臣命が一計を案じます。
大室(おおむろ)を作らせて饗宴に誘い、敵が油断した時に殲滅しました。
さらに進んだ先では、兄磯城(えしき)を誅殺します。

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磐余彦軍は再び長髄彦軍との激戦を迎えました。
やはり長髄彦軍は屈強で、磐余彦たちは苦戦します。
すると突然、天曇り氷雨が降るなか、「金色の鵄(トビ)」が飛来し磐余彦の弓に止まりました。
長髄彦軍はこのまばゆい光に眩惑し、ついには退散してしまいました。

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長髄彦のもとに天神の子「饒速日」がおりました。
彼は長髄彦に帰順を勧めますが、改める様子はありませんでした。
饒速日は、やむなく彼を見限って殺し、息子の「可美真手」(ウマシマデ)とともに磐余彦の元へ帰順しました。
こうして最大の敵、長髄彦は滅したのです。

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争いを終えた磐余彦は、畝傍山のほとりに全軍招集し、「みことのり」を高らかに宣言しました。
人々はその地に、新たな王の宮殿を築きました。
それが橿原神宮が鎮座する場所だと云います。

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磐余彦は事代主娘「蹈鞴五十鈴姫」(タタライスズヒメ)を正妻に迎えました。

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そして遂に「紀元元年1月1日(新暦2月11日)」、磐余彦は初代天皇「神武」として、橿原の宮にて即位したのです。
まさに「日本」という国の建国の瞬間でした。
今にいう建国記念日は、この歴史的記念日を祝う日なのです。

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神武天皇は建国の基礎が定まったので、鳥見山に「まつりのにわ」を立て、天照大神を祀りました。

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と、以上の話が、おおよそ我が国の建国の神話、「神武東征」の神話となります。
神話と歴史、これは全く別物と言っていいと思われますが、真の古代史を紐解くにも、神武東征の神話を敢えて踏まえておくことも必要かと、あらためて思いました。

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