
「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」
(赤い玉は、通した緒まで光るほど美しい。けれど、白玉を見ていると、真珠のようなあなたのお姿が、貴く思い出されるのです」
『古事記』上つ巻:豊玉媛が息子の元へ行く玉依媛に、穂穂出見宛に託けた歌


千葉県いすみ市中原に鎮座する「玉崎神社」(たまさきじんじゃ)。
今回のCHI☆BA旅の1番の目玉の神社でしたが、まさかこんな味わい深い場所にあったとは。

2025年初の遠方へ旅、それをCHI☆BAに選んだのは、昨年末ギリギリのことでした。

KANEKOさんが『偲フ花』に初コメントをくださったのが、昨年11月18日。
KANEKOさんは石見国造家のご子孫で、石見国一宮物部神社本家に近い分家の方というとても稀有な方で、大変興味深く、オンライン上ではありましたが親交を少しずつ深めさせていただいてました。
で、そういえば確か、KANEKOさんはCHI☆BAにいらっしゃったな、と思い出し、今回の旅の内容を振ってみたところ、まさにこの玉﨑神社に近い場所にお住まいだとのことで驚きました。
それで自然な流れとして、旅先の1日を一緒に聖地巡礼することに決まったのが、1月17日。僕は平日しか休みが取れないので、他の人と同行できること自体が希少なのです。

僕が玉﨑神社を訪ねたいと考えるようになったきっかけは、2023年4月に徳島の『豊玉毘賣神社』の記事に際して、”keno”さんから、次のようなご質問をいただいたことに始まります。
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いつも、拝見させていただいております。
千葉に玉前神社というのがありまして、御祭神が玉依姫です。
その玉前神社の本宮と言われているのが、玉崎神社(中原)でそこは、物部氏が1200年前に創建し、こちらは豊玉姫を祭っております。
そこで、疑問がいくつかできました。
なぜ、裏切った物部が、豊玉姫を祀ったのか?
そして、豊玉姫から、玉依姫に御祭神が変わっている理由は何か?
もし、ご存じのことがあれば、教えていただけると幸いです。
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このとき、思いつくだけの返答はさせていただいたのですが、やはり自らの足で訪ねてみないことには、とずっと気にかかっていた神社でした。

奇しくもKANEKOさんからいただいた初コメントに、返信をした11月18日は、奈良に宿をとっていた時でした。
翌日の19日には僕は石上神宮とその奥宮「八つ岩」を訪ね、新たに芽生え始めた「物部氏」に対する思いを確たるものに変えた、そんな時だったのです。

さらに僕は、昨年10月末からリアルすずめの戸締りの”媛さん”と交流を始め、11月11日に直接お会いし、彼女が宮崎五ヶ瀬の橋本家の血筋の女性であることを知りました。
また特別に、聖域「橋本」の場所を媛さんから教えていただき、媛さんのお母様「すず」さんの年であるドラゴンイヤーの年末に、遥拝させていただく機会を得ました。
そのことを記事にしたのが年明けで、narisawaさんのコメントで、彼女が物部本家とされるイツセの命の母系の末裔であると確信に至ったのが、今年の1月6日のことです。
ちなみに最近では、イツセは物部本家とは少し違うのではないかと思い始めていますが。

スピリチュアルな物言いは言い憚れますが、このような感じで、何とも言えない物部包囲網に導かれつつ、物部氏末裔の弓削氏が宮司をされている千葉・物部の最大聖域、玉﨑神社を訪ねることになったのです。

玉﨑神社参道の階段を昇り終えると、立派な茅の輪が出迎えてくれました。
当社では夏と冬(正月)の二度、茅の輪が設けられるのだと、玉﨑神社のことにも詳しいKANEKOさんが説明してくれます。

狛犬は獅子ではなく本当に犬って感じの造り。

秩父三峯神社のお犬様(狼)に近いのでしょうか。いや、どう見てもわんこですが。

立派な社殿に祀られる祭神は、「豊玉毘売命」(とよたまひめのみこと/母神)と「鵜葦草葦不合命」(うがやふきあえずのみこと/子神)。
それに母子だけでは不自然と見る向きもあってか、父神の「火遠理尊」(ほおりのみこと)も祭神に加えることもあるようです。

ネットで情報を探していたら、スピリチュアルな感じの人が「千木が縦削ぎだから、ここには本来、男神がいらっしゃって、祭神をいつも豊玉媛と勘違いされて不機嫌になられておる!」っておっしゃっているのを見ましたが、縦削ぎが男神、横削ぎが女神というのは、比較的新しく言われ始めたこと。
「二礼二拍手一礼が正式参拝だ!」という話と、同レベルということです。

確かに、当社が男系物部氏の神社であるなら、千木は横削ぎになっていないとおかしい、と考えることはできます。
現社殿は昭和4年の造営だそうですが、歴史の深い部分を知る方が造られたなら、敢えて縦削ぎとしたことに意味があるのかも知れませんし、そうではないかも知れません。
要は千木に囚われすぎては、本質が見えなくなる危険性に注意が必要です。

さらに社殿には数々の美しい彫刻が施されていますが、

所々に目立つのは「鶴の彫刻」。
阿蘇国造家の雨宮媛の子孫と称するアシュラさん曰く、「鶴は裏神紋」であるとのこと。
おそらく鶴を神紋、もしくはトーテムとする母系一族がいたのではないかと思われます。

向拝に彫られた彫刻は、鶴と亀。亀もまた、重要なトーテムです。

玉﨑神社に祀られる本来の神は、玉=月の巫女「豊玉媛」一柱のみだったと推察されます。
それは親潮と黒潮がぶつかる海に突き出た大東岬が「龍宮」、すなわち「常世」の入口だと考えられていたからではないでしょうか。
ただ、物部一族弓削氏と豊族の偉大なる姫巫女の祭祀の関連性が、気になるところです。



境内の由緒書きを見ると、玉﨑神社は二度、遷座を繰り返していたことが記されていました。

「当神社は物部系氏族之を創建しまつり、往古夷隅川辺のまほらに鎮座し」
この夷隅(いすみ)川辺のまほらとは和泉浦のことのようで、物部一族が上陸した場所だと伝えられているそうです。
ここにも「和泉玉崎神社」があったそうですが、今は浸食によって失われたとのこと。
「大同二(平城天皇御代)今よりし千百八十六年前大宮(現椎木内鎮座せし為地名となれり)地区へ遷座されました」
とは、椎木玉前神社のことで、こちらは今も現存しています。
「而して後宝永四年(東山天皇御代五代将軍綱吉公時)今よりし二百八十六年前に至り」現在の中原に再遷座されたということです。

この経緯を見てみると、和泉浦は明らかに標高が低く、水位の高かったという古代においては、聖地としてふさわしくなかったろうと思われます。
物部一族も苦労してその地で祭祀を続けていたことでしょうが、ついには椎木の地に遷座を余儀なくされました。
それから相当長い期間、椎木で祭り事を続けてきた一族でしたが、今から318年前の宝永4年(1707年)に当地に遷座を行いました。それはなぜか。

遷座の理由は「大宮の邑、卑湿を以て」と説明されているようですが、僕は違うと考えます。
ここを見て、直感しました。
往古の物部一族は、元来当地で祀られていた神、当社の弓削宮司もいつからあるのか分からないという聖域、

「琴平神社跡」の神域を守るために、遷座したのではないかと思うのです。

琴平神社の聖域は、玉﨑神社境内にあり、さらに小高く土盛りされた場所になっていました。
ここで今回、僕が玉﨑神社を参拝するにあたって、もうひとつの奇跡が起きていました。

今年1月の16日、そう、僕がCHI☆BA旅を計画し、KANEKOさんに同行をお願いしようとしていたそのとき、天女さ、天からシステムさんの声が降りてきたのです。
システムさんは、なんと少し前に、玉﨑神社の弓削宮司と線友になっていたというのです。
システムさんは僕が訪ねてくることを、弓削宮司にお伝えしてくれるとのこと。
そこで僕はダメ元で、この琴平神社の聖域に入ることをお許しいただけないか、弓削宮司にお願いしてもらうことにしたのです。

というのも、20年程前から当社にご縁があるというKANEKOさんから、かつては自由に訪れることができていたこの聖域で、10年弱前に怪しいスピ系の輩が禁を犯し、まず撮影禁止の札設置、次に柵を作って立入禁止になってしまったと、聞いていたからです。
その経緯にも詳しいKANEKOさんからは、改めてそのスピ系の輩がやらかした内容をお聞きしましたが、それはおよそ信じられないほどの蛮行でした。
ありえない。
また僕のスピ嫌いの感情が、強くなってしまう出来事でした。

CHI☆BA出発の3日前、僕は恐る恐る、システムさんにお願いの結果を伺ったのですが、びっくらポン。
弓削宮司は何というか、見える方のようで、僕が「玉﨑神社を訪れることは分かっていた」と、システムさんにお伝えになったそうです。
それで「どのような人物かも分かっているから、聖域に入っても良い」
当日は宮司自身は所用があるので行けないが、代わりの者に案内させる。
「まあ、その男とはまた会うことになるだろう」と。

そして僕が玉﨑神社に訪れる時間も、ご指定になられました。
その季節、鬱蒼とした聖域に光が差し、一番神々しくなる時だからだと。

確かに、身震いするほどの美しい世界が、そこにありました。
案内してくださったのは、ここの清掃を任されている崇敬会の方でした。
前日までの予報では、この日の朝は微妙で、実際夜は雨も降り、光の聖域を拝むことは絶望的ではないかと、僕もKANEKOさんも思っていました。
しかしその時間になったら雲は消え、燦々と光が差し込んできたのです。
びっしりと生えた豊かな苔の絨毯に、玉のように光る木漏れ日。光に反射して、キラキラと輝きながら降り注ぐ、葉しずく。
僕は願いもせず、何もせず、ただ奇跡の中で立ち尽くし、古代から続くこの美しさが今もあり続けることに、有り難みだけを感じていました。

一之宮の玉前神社もレイラインを謳っていましたが、そちらは微妙にラインがずれており、本来のラインは玉﨑神社のほうだとKANEKOさんもおっしゃっていました。
つまり今の玉﨑神社鎮座地は、光の聖域なのです。
その古来の聖域が「琴平神社」であるということに、興味が湧きます。

全国各地にある琴平社は、四国の金刀比羅宮から勧請されたものが多いですが、この琴平神社は平安時代の大同2年(807年)よりも遥か昔から鎮座していたと考えられ、金刀比羅宮の元宮たる島根県飯南町の琴引山の神を勧請したものと思われました。
それはつまり、ここに神門家の血を引く一族がいたことを示しているのです。

東の果て、和泉浦にたどり着いた物部一族は、なぜこの地に豊玉媛を祀ったのか、その謎がまだ解決していませんでした。
これは完全に、僕の推測でしかありませんが、当地に至った物部一族は、大東岬を常世の入口だとみなした。
それで物部の母系の一族が、常世に通じる月読みの偉大な姫巫女を祀ったのではないでしょうか。
つまり弓削一族は、物部の母系氏族なのではないかと思うのです。

物部の男系は祭祀力を持たず、それを補うため、霊力の高い一族を后に迎え入れていた。
そのことは、KANEKOさん、媛さんにお会いして、その姿を見て、話を聞いて、僕の中で確信に近い考えになっています。
故に弓削一族も、そうとうな霊力を有していたものと思われます。

実は玉﨑神社の先代宮司は亡くなられて、今は奥様が継がれているとのこと。
しかしシステムさんから聞いた話では、現宮司も相当な霊力の持ち主と見受けられます。
奥様も元々、弓削一族の血を引いておられる方なのかもしれません。
たとえ滅ぼした敵地であっても、この国の聖地・信仰を命懸けで守り続けてきたのが物部一族であり、寿命を縮めつつも血を濃く保つことで類稀なる霊力を繋いできたのが、その母系一族だからです。

古代霊跡には太陽の信仰があり、現本殿には月の女神が祀られるという隠れた神域、それが今の玉﨑神社です。
スピ界隈ではすでに知る人ぞ知るところとなっており、こっそり訪れてわちゃわちゃしているようで、これ以上荒らされないようにと本稿も鍵を掛けるべきか迷いました。
しかしこの場所は、もう少し人に知られても良いのではないかと思われ、それで物部包囲網の導きもあったのかということで、一般公開にすることを決めました。
インバウンドで日本の聖地各地も人で溢れ、人というものはどうしても穢れを持ち込みますから、浄化力の高い聖域もさすがに疲弊しているように思えます。
この国には、古代から連綿と、人知れず命を賭して大切な場所を守ってきた人たちがいることを、そろそろ僕らは知らなければならない。
聖地に赴いては何も求めず、何も残さず、ただそこに在ることだけに感謝申し上げる。
こんな時代だからこそ、神との関わりの在り方を、考えるべきではないでしょうか。
僕が、そこにイけてしまうというのは、多くの友人の導きのおかげであり、そのことも含めて突き詰めれば、そういうことなのだろうと思い至るのでした。
感謝。
※KANEKOさんに、連動企画をいただいております。
~ 空と大地と海を駆ける

narisawa110
弓削氏は、男系物部、女系神門のもう一つの家なのかもしれませんね。
ロマンだ。
失敗階段ではなくて、九州親征で、税金徴税しに来た人たちだったりしてw
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うちの系図に弓削さんがないのって、時代差ではなく、「良きライバル」だったかもしれませんね😉
代々繰り返し言われてることですが、「物部は一筋縄じゃない」~ (/–)/
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narisawa110
何と弓削様いらっしゃらないのですか。
ぬう〜。祭祀能力の維持からするとそれは体勢の維持上不自然と言いますか、そうすると神戸家の血はまず入って無さそうな印象ですね。
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何しろ系図も「意図的に書かない」をやるところですので、物部は😂
神門系ではないとは言い切れません。
系図も金子男子の目に入る以上、弓削家と(先日書きましたが)仲悪かった説が
初めて玉崎の弓削宮司にお会いした2010年だったと思いますが「ほう、金子さんかね」←何かを見透かすようなきつい眼差しww もちろん温厚にお話しくださいましたが…
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narisawa110
弓削神社となると例の天皇陛下や道鏡さんのそれが多いのですが、こんなのもあります。→甲斐国の弓削神社
https://yugejinja.jp/2025/04/18/弓削神社の御祭神について/
抜粋
大伴武日命(オオトモノタケヒノミコト、日本武命の従者)
吉備武彦と共に日本武命に従い、酒折宮に駐せし際「靭部(ゆげいのとものお)」を賜りました。靭部とは、弓を入れる靭を負う者、という意味で、靭を持って朝廷の警護にあたった武官を表します。その後大伴武日命はこの市川の地に留まり、居館を造営し周辺一帯を治めました。地域の人々とその子孫が当社を創設したと言われています。靭部から当社の社名が決まりました。
まるで神門臣家の建部みたいなお話になっていて興味深いんです
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narisawa110
天候のお慈悲、見ているだけでも有難いですね。
場合によっては前修行もあるとお聞きすることもあります。
タマのつく神社ですが、玉置神社のように、物部氏の十種神宝に関係するんですかね。
少なくともウツシは唐松神社にその一部が伝わってるようですが。
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玉は月だと思っていますが、十種神宝にも関係ありそうですね、確かに。
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おはようございます。「玉・珠」←月の巫女アイテム は我が女子たちにとっては大切な神器、祭祀の際に身に着けております。
石見物部神社で授与される「十種神宝」神札はお守りとして使るもので、一般の方へ頒布されてますが意味合いは同じと思っております。 天候と言えば、土砂降りの雨直後に快晴になる場合は「御神事の日」に相応しいという上からの合図だ。と、少なくとも数百年は伝承されております。雨で穢れを祓い、清浄な空気・土地のもとに差す陽🌞
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narisawa110
風頭山諏訪大社というのがラインの端部にあるのがとても気になりますね。かつては別の神社であったと何故か思います。
全国的な諏訪祭祀の受け入れっていつ頃にあった出来事なのでしょう
その頃には忌部氏はもう諏訪に来ていたと思います。
そういえば、金子様が石見の物部神社から手を引かれて東日本に移住なされたのはお仕事の関係だったのでしょうか?
今思うと安曇氏の信濃移転も、事件というレベルではなく、当時の人たちからするといつのまにかそうなってたみたいな流れも想像してみたんです。
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民族の移動って、そういえば西から東へというのが主流なのはなぜですかね。
稀に例外はありますが。
最初は温暖な西に人が集中したのでしょうが、東にユートピアがあるように、当時の人たちには思えたのでしょうか?
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私のブログの方にも写真を記させていただきましたが、元々は日御碕までの天道祭例祭だけのポスターに宮司さんが皇道、人道を加えてこちらが本当のラインだ、と言う告知のためと伺いました。一宮玉前さんの元宮、中原、和泉浦、太東岬が本来のレイラインの緯度となるため、観光で派手に売ろうとする一宮町玉前牽制もあるように感じます😅 諏訪との縁は勿論宮司さんは意識されているはずです。
金子家に関しては書くと長くなるので簡潔にさせていただきます。私のブログでいずれ書きたいテーマです。
男系男子(家督)明治改革と共に神奈川で華族へ、女系の一部が近畿や九州へ。私の母の3代前から近畿です。公式祭祀ではなく陰の祭祀、それでも石上神宮で曾祖母の娘が祭祀を行ったり、私直結長女系の女系男子は陰陽道、女子が古代巫女という伝統は守り、戦前-戦後昭和30年代まで兵庫県のある神社社地をお借りして影ながら「行列のできる謎の相談所的社務所別殿」を授かっておりました。母とその夫である父の代でGHQの戦後神道政策中枢に関わり東京との行き来も増え、皮肉なことに私が子供の頃育った町は、千代田区の三番町。靖国神社徒歩5分!御所へ車で7分!という町に両親に連れて来られたことはどういう意味か・・・この辺りもブログにいたします。 千葉県へは「たまたま」惹かれて私の代で越してきて20年は経っておりません😅
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貴重な情報、ありがとうございます!
ブログの今後の記事も、楽しみです♪
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ここにご一緒できたことも光栄で
たまたま の御縁は【ダブルたまちゃん】の導きなのか
物部包囲網でもあるのか、頭グルグルわやくちゃですが😅
五条さんにお見せしたかった時代の写真、ささやかながらUPさせていただきました。
https://ameblo.jp/nasa-mirai/entry-12886003916.html
以前、こうだったのです…
また、弓削様からのお導きと、イセエビの香りが待っております。🌟
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ダブルたまちゃんのお導きも、あったのでしょうね。
古き時の穏やかなすがた、良いですね。
そこ頃に戻れたら。
伊勢エビ、やば、絶対食べ行きます。弓削宮司にもお会いしないと・・・😋
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🐥豊玉姫、玉依姫…🐤タマが好きな人々が建てた神社なんですな…
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タマはええですな。
ワイにも分けて欲しいどすな🌕🌕
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🐣タマの暖簾分けですかな
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玉が増えて、ええどすな🌕🌕🌕
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