阿蘇神社の北にある「国造神社」(こくぞうじんじゃ)を訪ねます。
境内の手前には、少し小さめの古墳が二つあります。
「下御倉古墳」(しものおくらこふん)は「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)の妻、「雨宮媛命」(あまみやひめのみこと)の古墳だと云いますが、何だか荒れた感じでした。
その上に「上御倉古墳」(かみのおくらこふん)があります。
こちらは「速瓶玉命」の古墳とされ、いずれも横穴式古墳となっています。
速瓶玉命は健磐龍命の子で、崇神天皇の時代、阿蘇国造に任命された人だと伝わります。
速瓶玉は阿蘇氏の祖になるのですが、それにしてはあまりに放置感がひどい。
古墳ってこんなものでしょうか。
その速瓶玉命を主祭神に祀った神社が「国造神社」と云われています。
古びてはいますが、重厚な印象。
祭神は速瓶玉命の神名「国造大明神」ほか、妃の「雨宮媛命」と「高橋神」「火宮神」の二人の御子です。
国造神社は阿蘇神社の北にあるので、「北宮」と愛称で呼ばれています。
当社創建は阿蘇神社よりも古く、その元宮とする伝承もあり、肥後最古にて二千年以上の歴史をもつ神社だと云うことです。
肥後国誌には速瓶玉が景行天皇18年(88年)に社を修復したと記され、それ以前より存在していたことを匂わせます。
このあたりの情報は、国造神社の社家、阿蘇北宮祝家の血縁の方のブログで学びました。
他の記事も含めて読みやすく、とてもよくまとまっています。
油獏氏が記されるところによると、阿蘇大宮司家を補佐する阿蘇権大宮司家、阿蘇祠官家、阿蘇北宮祝家は全て、日子八井命の裔とされる草部吉見系であり、阿蘇神社最大の祭事「火振り神事」は日子八井命の結婚を祝うものと云われているそうです。
阿蘇神社の祭神も祀る12柱の神のうち、8柱が草部吉見系の神です。
また「田作り祭」などを始めとした阿蘇神社の四季折々の農耕祭事は、草部吉見系の宮川一族の祭りであると伝わり、建磐龍命を主祭神としながらも、草部吉見族の信仰や祭祀が多いのだと云います。
つまり阿蘇神社は主祭神が大和系・建磐龍命であるのに、草部吉見神系に拘わる信仰が主体となっているのです。
境内に「鯰宮」(鯰社)と呼ばれる祠があります。
大昔、阿蘇谷が大きな湖だった時、建磐龍は農地をつくるため、立野の火口瀬を蹴破りました。
一気に水が流れ出し、湖は干上がるはずでしたが、一向に水が流れ出ていきません。
健磐龍が見てみると、湖の主である大鯰が、阿蘇谷の半分にかけて横たわっています。
命は鯰に「多くの人々を住まわせようと骨折っているが、お前がそこに居ては仕事もできぬ」と訴えます。
それを理解した大鯰は頭を垂れて、命に別れを告げて立ち去ったと云います。
人々は自分たちが豊かになるために退いていただいた大鯰の霊を神として祀ったのがこの祠だと伝えられます。
鯰宮の下を覗くと、小さな鯰が鎮座していました。
当社では大鯰は健磐龍と和解し、素直に立ち去ったと伝えていますが、別の場所では鯰は健磐龍に刀で3つに切られ焼かれたとか、涸死したと伝えてられています。
これは草部吉見神社同様、鯰族が大和族に制圧された歴史を物語っています。
ではこの大鯰と草部吉見族との繋がりはどこに。
国造神社の鯰宮に祀られている大鯰は阿蘇の母神「蒲池媛」(かまちひめ)であると云われています。
そして阿蘇郡誌によると、当社祭神の速瓶玉妃「雨宮媛」が宇土半島、郡浦の蒲池媛命であると伝えていたのです。
また、国造神社に拘わる人々は、鯰を眷属として決して食べないということです。
境内の奥には、速瓶玉命手植の杉と伝わる「手野のスギ」が保存されています。
昔は二株で、夫婦杉と呼ばれていたそうですが、文政年間(1818~1830年)に落雷のため雄杉が焼失。
残る雌杉も平成3年(1991年)の台風19号で折れてしまったそうです。
蒲池媛は神功皇后の三韓征伐に従い、満珠干珠を操り、皇后軍を勝利に導いたと云われる古族の姫で、八代海・宇城の地より阿蘇に入り、阿蘇の神に嫁いだとされています。
ここで重なるのが筑後の「水沼君」。
水沼君は蒲池媛の後裔とする説があるようですが、むしろ水沼族が阿蘇に進出した一族が蒲池族だったのではないでしょうか。
宗像・宇佐そして有明海に面する筑後平野に勢力を有していた水沼一族。
有明海一帯を中心に点在する豊姫・淀姫信仰。
そして八代から阿蘇にかけて信仰される蒲池媛。
これらを繋ぐのは、あの干珠と満珠。
つまり背後に見えるのは、親魏和王の称号を受けたことにより歴史から消された幻の王国と女王、邪馬台国の豊玉女王なのです。
豊玉姫の眷属が鯰です。
そういえば草部吉見族の日子八井耳こと「国龍王」も干珠・満珠を受けています。
ただ国龍王はどちらかといえば「鬼八」(キハチ)、出雲系アララギ族の王の一人だったのではないでしょうか。
高千穂から阿蘇にかけては、出雲系アララギ族と豊系蒲池族が平和的融合を遂げた共和王国があったのではないかと思えるのです。