乙姫神社:常世ニ降ル花 神門如月篇 17

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大地に横たわる大地母神「阿蘇」。

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熊本県阿蘇市の西寄りに、「乙姫」と呼ばれる一角があります。

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乙姫地区の山寄りの場所に、子授かり・安産・安全祈願にご利益があるという「乙姫子安河原観音」(おとひめこやすかわらかんのん)があるというので、行ってみました。

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いや、べつに今さら子作りがしたいわけではありませんがね。

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公園にはいくつかの観音像が建てられており、下に赤と黒の石が置かれています。

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この石は阿蘇の火山石だそうで、男の子が欲しい者は黒い重めの石を、女の子が欲しい者は赤い軽めの石を持ち帰り、股にはさむと授かると云われているそうです。
火山石は割とゴツゴツしているので、お股が痛そう。

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また、神功皇后由来の貫通石なんてのもありました。

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この公園から、河原に降りる道があります。
そこに御神体があるとのこと。

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ほうほう、これが子安河原観音さまですか。

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上向きに寝た女体の形をした自然石が御神体なのだそうですが、

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埋もれてる。。
神功皇后が渡海の際、御懐妊中であったので尊体の安全、安産を祈られたと伝えられ、また大正天皇の御出生にあたっては、第87代阿蘇大宮司惟敦が七日七夜、御安産を祈り、その御神石を宮中に奉持し大金を下賜されたということです。
半分埋もれてはいましたが、そこだけ滑らかな岩肌は、確かに女体を思わせました。

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乙姫地区ののどかな細道の先にある

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「乙姫神社」(おとひめじんじゃ)で、アシュラさんと待ち合わせをしておりましたが、

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朝の掃除をされていた氏子の皆様に、アシュラ講習会が始まっていました。

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しかしアシュラさんの話に、氏子さんの中には苦い顔をする方もチラホラ。
それも無理はありません。乙姫神社も阿蘇神社系に属して長く、すでにそうした歴史が積まれているのです。
阿蘇神社否定説を強く主張するアシュラさんは、いわば出雲で出雲大社を否定しているようなもの。
僕はアシュラさんの背後で、小さくあわわしていました。

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あわわ。

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古事記・日本書紀の時代に、歴史が大きく書き換えられ、また、明治でも神仏分離・合祀・祭神書き換えなどが盛んに行われ、本来の歴史が消されてきました。
そうした中、地元民や氏子さんらですら、すでに本来の伝承を失って久しく、新しい体制を信奉する人たちが多いのです。

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乙姫神社の祭神は現在、阿蘇神社の主祭神とされる健磐龍(たけいわたつ)の孫・惟人命(これひとのみこと)の妃で天の女である「若比咩神」(わかひめのかみ)となっています。
由緒には、祭神は容姿艶麗、才色の誉れ高く、主神を助け九州の開発に尽くされ、神功皇后の三韓の役に、母神蒲池比咩神(かまちひめのかみ)並びに惟人命御出征の留守を預かり給いてよく使命を全うし、後願の憂いなく守られた功績は特に大書すべきものであった、と書かれています。

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更に、この役の功により、蒲池比咩神は宇土「郡浦神社」に、惟人命は益城郡「甲佐神社」に祀られるようになり、「阿蘇神社」「健軍神社」と合わせて阿蘇4社とし、阿蘇大宮司直祭となるのですが、乙姫神社もこれに準じて大祭は阿蘇大宮司が執り行っていた、と。

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改めて由緒を見ると、時代はチクハグで、神功皇后の英雄譚に無理やりこじつけている印象です。
その結果として記されているのは、いわゆる阿蘇神社の大支配という構図。

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では、当社の本来の祭神は誰なのか?
アシュラさんはその神を「阿蘇媛」(あそひめ)だと言います。
一般には「阿蘇津媛」と呼ばれますが、「津」を省いた名称が正式なのだと。

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かつては祭神が阿蘇媛であることを示す由緒書きが境内にあったそうですが、それが消されてしまったとアシュラさんから伺いました。
実は僕も以前、当社他、いくつかの神社を参拝する中で、阿蘇の乙姫とは阿蘇(津)媛のことではなかろうかという結論に、至っていました。
アシュラさんは、阿蘇媛とは、国造神社に坐す「雨宮媛」(あめのみやひめ)のことだとも言います。

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アシュラさんは僕を、境内の裏手に案内し、ここが高台になっていることを教えてくれました。
この高台は、阿蘇から流出した溶岩の一番端の部分に当たるそうで、つまり国造神社と同じく地盤が強固なのです。
なので、熊本大地震の時でさえ、両社ともびくともしなかった、ということです。
古代より重要な社は、そうした場所に建てられるのだと。

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乙姫地区は古来より、良質なリモナイトが豊富に採れる産地だったそうです。
この写真は、アシュラさんと入った某温泉にて露出したリモナイトです。

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リモナイトは別名「阿蘇黄土」と呼ばれ、鉄の酸化鉱物でいわゆる天然の錆となります。

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鉄分、カルシウム、マグネシウムなどのミネラルが含まれており、乾燥させて焼き締めると、黒みを帯びた赤色になり、古代には鳥居や石櫃の朱として用いられたそうです。

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リモナイトもまた、大火山「阿蘇山」がもたらしたものの一つ。
その阿蘇山山頂に祀られていた神がいます。

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「西巌殿寺」(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院で、山号の「阿蘇山」から分かるように、かつては山頂に本堂がありました。

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西巌殿寺は、古くから阿蘇山修験道の拠点として機能し、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつであったと云われています。

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開基には二説あり、寺院が採る神亀3年(726年)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・建磐龍命を感得したとするものとなります。
もう一つの天養元年(1144年)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとするものです。

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延喜式神名帳の西海道肥後国の項に在る神社は、
「国造神社」「疋野神社」「阿蘇媛神社」「健磐龍命神社」ですが、そこに「阿蘇神社」は存在していません。
一般的には、健磐龍命神社=阿蘇神社と解されているようですが、創建年代、立地条件等をみても、それは違うとアシュラさんは主張されます。
阿蘇山上、古坊中の以前から存在する西巖殿寺に併設されたと思われる神社が、健磐龍命神社だと。

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阿蘇山上に最栄が庵を開いてからは、多くの修行僧、修験者が集まり、西巌殿寺は三十六坊五十二庵と言われるほどに栄えました。
これらの本堂や古坊中は、天正年間の戦乱時に焼き払われてしまいますが、加藤清正によって再興されます。
この時、山上本堂を修復するとともに麓の黒川村に三十六坊を復興させます。

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しかし明治になって神仏分離令が発せられると、西巌殿寺は廃寺となりました。
ほとんどの僧侶が還俗する中で、山上本堂を麓坊中のひとつ学頭坊に移し、学頭坊を西巌殿寺麓本堂とすることで、かろうじて法灯は継承されました。

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明治23年(1890年)には古跡保存のために山上に本堂「奥の院」が再建。

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ところが平成13年(2001年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失する事件が起きてしまいます。
現在は、僧坊などに保存された貴重な文化財とともに信仰を継承しているということです。

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「阿蘇の山頂という不安定な場所に、重要な社を作るでしょうか?」
僕はアシュラさんに質問しました。
「それは修験の社だから、燃えては建て直しを繰り返したんだと思うよ」
とのこと。阿蘇修験者は修行で、阿蘇火口を降りたりしたのではないか、との話もあり、なるほど彼らならそのくらいするだろうと妙に納得しました。
麓本堂もぜひ、また建て直して欲しいと思います。

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アシュラさんは健磐龍命も、平安時代の創作だとおっしゃいます。

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僕は彼の実在性を、何となく感じているのですが、まあなかなか、歴史はわからない事だらけなのでした。

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