阿蘇山中岳〝阿蘇氏と諏訪氏考〟:八雲ニ散ル花 アララギ遺文篇 09

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阿蘇氏と諏訪氏は祖を同じとするという説があり、それによると阿蘇氏は諏訪方面から西征し、阿蘇一帯を開拓したと説きます。
つまり阿蘇氏の大祖神はタケミナカタであると云うのです。
これに若干もやもやしていた僕は、とりあえず阿蘇山中岳の火口に足を運んでみました。

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阿蘇山中岳は、その日の風向きによって登山規制が行われます。
結構な割合で登山できないことがありますので、あらかじめHPで規制情報を確認して出かけました。
向かう途中は大地震の傷跡が深く、未だ残っている場所もあります。

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阿蘇パノラマラインを過ぎると、広い駐車場とロープウェイ乗り場があります。
駐車場は無料と有料とがありますが、早い時間に行けば無料で停められそうです。

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ロープウェイ乗り場とありますが、実は先の大地震以降、運行を休止しています。

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代わりにご機嫌なシャトルバスで行くことができますが、通行料を払えば、マイカーでも山頂へ行くことができます。

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ロープウェイ乗り場では、のりばの中まで入ることができます。

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運行していれば、なかなかゆっくり見ることができない施設。

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ちょっぴりノスタルジーに浸るのも、今ならではの特権です。

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荒涼とした阿蘇山公園有料道路を走り抜けると、すぐに火口に着きました。

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山上身代不動が鎮座。

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また、所々に突然の噴火による噴石の被害から身を守るための退避壕があります。

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退避壕は鉄筋コンクリートで出来ていますが、部分的にむき出しになった鉄筋が、噴火の威力を物語っています。

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巨大噴石も、モニュメントのように置かれていました。

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Bゾーンと呼ばれるエリアに入ってきました。

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中岳の展望エリアはBからDゾーンへと区分けされています。
Cゾーンはロープウェイの火口西駅を中心としたエリアで展望はイマイチです。
Bゾーンは最も火口近くまで立ち入りできるゾーンとなっており、中岳の一番の見所となります。
ちなみにAゾーンはBゾーンのさらに火口寄りのエリアとなっていて、常時立入禁止区域となっています。

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Bゾーンには天然硫黄や馬油などが売られている売店もあります。

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ではいよいよ、火口に迫ります。

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吸い込まれるような、ポッカリと口を開けた第一火口。

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今尚活動を続ける第一火口は雨水や湧水が溜まった火口湖になっており、マグマに熱せられて熱湯になっています。

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その温度は90度を超えることもあるということです。

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湖水はPH1以下の強酸性で、コロイド硫黄と鉄イオンが溶け込み、エメラルドグリーンの色を生じています。
火口湖の水位や色は火山活動や天候により常に変化しているのだそうです。

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第一火口以外にも7つくらいの火口が付近に密集していますが、現在活動をしている火口は第一火口のみ。
あとはまあ、マニアでないと楽しめない感じです。

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Dゾーンへやってきました。

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Dゾーンは火口縁西側に位置します。

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終着地点には火口西展望所があり、360度広がる大パノラマを楽しめます。

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溶岩ブロックに覆われた展望台を登ります。

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火口方面を望むも、わずかに噴煙を見るに留まります。
火口のダイナミックさには欠けますが、

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北側には、侘びた景色を見ることができます。

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砂漠のような、白い砂利。

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西側には烏帽子岳や杵島岳などが見え、阿蘇五岳の広大さを味わうことができます。

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そもそも、阿蘇山とは、僕はこの火口湖のある中岳のことだと思っていました。
しかし阿蘇山は阿蘇五岳のみならず、外輪山を含んだ全てを指します。
3D図を見ると一目瞭然ですが、阿蘇は典型的な二重式の火山の形をしています。

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外輪山は南北25km、東西18km、周囲128㎞に及び、ほぼ900mの高さで火口原を囲む、まさに世界最大級の火山になります。

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10万年前の阿蘇には数多くの火山があり、活発に活動を繰り返していました。
過去4回、日本中を巻きこむほどの大規模な噴火があったことが調査で分かっており、その最後に大陥没がおこって、今の外輪山の原形が生まれたそうです。
阿蘇五岳は、約3万年から5万年前に噴出したといわれています。

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Cゾーンロープウェイ火口西駅から少し麓に戻ったところに、「砂千里」と呼ばれる砂の平原があります。

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一面が火山灰におおわれた黒い平原。
地熱が高く、雨上がりには大地が湯気を上げる幻想的な光景を見ることができるそうです。

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ここからは荒涼な景色が続くばかりなので、冒頭の阿蘇氏について考察してみたいと思います。
阿蘇氏と諏訪氏の同祖論を説く人は、阿蘇と諏訪の不思議な類似性をあげます。

優良な馬の産地であり、古来より馬を食べる文化があること
水、温泉に恵まれた地であること
山に囲まれていること
信濃に「アソ」と呼ばれる地名があること
阿蘇神社も諏訪大社も、中央構造線上にあるパワスポであること

などです。

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阿蘇神社に祀られる阿蘇地方の開拓神「健磐龍命」(たけいおたつのみこと)は「神八井耳命」の5世の孫であると伝わり、その子「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)が国造にさだめられて以降、健磐龍の子孫が阿蘇神社の神職となり、祖神をお祀りしたとされます。

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また、建磐龍は「武五百建命」とも表記され、その子に速瓶玉ともうひとり、「建稲背命」(たけいなせのみこと)がいたとされます。
建稲背の七世孫が「金弓君」であり、その子孫が諏訪大社下社の大祝(おおほうり)「金刺氏」であると云われています。

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つまり阿蘇氏と金刺氏は建磐龍、さらには神八井耳を同祖とする一族であると言えます。
阿蘇地方の伝承では、建磐龍命が日向から高森の草部吉見神社を経て、阿蘇に入ったと伝わっています。
ちなみに建磐龍命の父「敷桁彦」(しきたなひこ)は河内国を拠点とする「多氏」(おおし)出身だったと云う話もあります。

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ところで、阿蘇氏と諏訪氏が同祖であるということに対する、僕のもやもやは解消されました。
そもそも、僕のもやもやの理由というのが、阿蘇氏と出雲族のタケミナカタが、どうしても繋がらないというものです。
実際に阿蘇氏と同祖であるとされたのは、金刺氏です。
諏訪大社上社の大祝「諏訪氏」も同祖であると云う説がありますが、可能性はやや低いように思われます。

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阿蘇地方と高千穂地方に伝わる「鬼八伝説」というものがあります。
それによると鬼八は建磐龍に(高千穂では三毛入野に)殺され、しかし鬼八は何度も甦るので最後にはバラバラに切り刻まれ、そして遺体は別々に埋められたと云います。
鬼八は死後も祟ったので、阿蘇の「霜宮神社」と高千穂の「高千穂神社」では、それぞれ鬼八を慰める祭が行われてきました。
また建磐龍は阿蘇入りする前に、高森の草部吉見神社でオロチ族を滅ぼしています。

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この行く先々で力でねじ伏せる行いが、出雲族であるタケミナカタの血筋とはどうしても結びつきませんでした。
しかし阿蘇氏も金刺氏も、神八井耳の子孫とわかり、納得です。

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富王家伝承によると、神八井耳は大和王朝の初代大王「天村雲」の孫にあたります。
天村雲は支那秦国から出雲に渡来した「徐福」の孫です。
2代綏靖天皇とされる「沼川耳」の後を継いだのは神八井耳の弟「玉手看」(安寧)でした。

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徐福は二度、日本に渡来していますが、一度目の渡来で残した一族は後に「海部家」(あまべけ)と呼ばれ、二度目の渡来地佐賀に残した一族は「物部家」(もののべけ)と呼ばれました。
ちなみに二家は秦国から渡来した一族ということで「秦氏」(はたし)とも呼ばれます。

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海部家も物部家も、武力に長けた一族でした。
初期の大和王朝は海部家が大王に就きましたが、出雲系の登美家から后を続けて迎えたため、後は出雲族の血が濃くなっていきました。
しかし神八井耳の頃はまだ海部家の血が濃く、その子孫には攻撃的な血が受け継がれたものと思われます。
それに対し、阿蘇・高千穂に勢力をもっていた鬼八族や草部のオロチ族は、出雲系の宗像族から派生した一族だったのではないかと推察します。

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ところで、高千穂で鬼八を征伐した「三毛入野」は物部族の人間です。
海部家と物部家は相いれない印象が強いので、阿蘇と高千穂の近い距離で共闘したとはイメージできません。
何より三毛入野は第一次物部東征でイツセらとともに大和入りしていますので、高千穂から阿蘇にかけて勢力を持っていたアララギ族を西征したのは建磐龍系海部家族だったと思われます。
後年、筑後に来た三毛入野の末裔氏族が高千穂に入り、祭神を書き換えたということではないでしょうか。

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さて、中岳を後にしますが、観光スポットはまだ他にもあります。

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烏帽子の中腹に広がる直径約1kmの火口跡「草千里」は美しい草原となっています。
お椀状の窪地には大きな水たまりが出来て池になっており、その周囲では牛や馬が放牧されています。

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乗馬コースも設けられ、のどかな風景を堪能することができます。

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溶岩のしぶきである火山弾やスコリアが降り積もってできた可愛い丘は「米塚」です。

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その昔、阿蘇の神が飢えた人々を救うために空から米を降らし、そのてっぺんをすくって分け与えたと伝えられています。

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先の大地震で火口跡に亀裂が生じたものの、なんとかその愛らしい形状を維持していました。

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健磐龍の子、速瓶玉が阿蘇国造となり、当地で繁栄を迎えます。
『日本書紀』には景行天皇を出迎える「阿蘇都彦」の名が見えます。
さらに子孫は阿蘇氏を名乗るようになっていきますがが、大化の改新の頃、その本流は断絶したようです。
以後は同祖で傍流の宇治氏(宇治部公)が継承し、大宮司職を世襲するようになったと云います。
現在の阿蘇氏は、この宇治氏のことのようです。

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平安時代、宇治惟泰は、治承・寿永の乱の鎮西反乱に参加し、源氏方で活躍しました。
この功績により惟泰は阿蘇の姓を賜り、阿蘇氏を称するようになります。
鎌倉時代には北条氏とも深い関係を持つようになり、阿蘇氏は最盛期を迎えます。

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しかし以後、参加する戦の敗戦が続き、当主、及び次男の戦死など、惣領家としての阿蘇家は断絶の危機に立たされてしまいます。
これがきっかけで、一族の家督争いが度々起き、やがて戦国時代の動乱もあって、相次ぐ有力者の死に、阿蘇氏は急速に弱体化することになります。

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天正13年(1585年)、島津軍が人吉の相良氏を降伏させ、勢いそのまま阿蘇氏の領内に侵入してきました。
これに阿蘇勢は総崩れとなり、多数あった阿蘇氏の城はことごとく陥落してしまいます。
いわゆる「阿蘇合戦」と呼ばれる戦です。
わずか2歳の当主「阿蘇惟光」と弟、母親らは山深い・目丸(山都町)に逃走しました。
これは「阿蘇の目丸落ち」と伝えられています。

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天正14年、さらに北上する薩摩勢に対し、一貫して防戦してきた阿蘇家の大将「高森惟居」がついに切腹し、肥後国における最後の砦「高森城」が落城します。
ここに九州内で名家・戦国大名として一目置かれていた阿蘇氏は実質滅亡したことになります。

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のちに阿蘇惟光は、九州を制圧した豊臣秀吉に保護を求めて、大名としての特権は剥奪されるも阿蘇神社宮司としての地位を認められます。
しかし文禄2年(1593年)、惟光は梅北一揆に家臣が加担したとして秀吉に自害させられました。

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関ヶ原の戦い後、加藤清正の計らいで惟光の弟、阿蘇惟善に所領が与えられ、阿蘇神社の大宮司となります。
その後、明治17年(1884年)、当主の阿蘇惟敦が男爵を授けられて華族に列しました。
絵に描いたような栄枯盛衰の果てに、今も名家として阿蘇家は存続しているのです。

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5件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    謡曲(能楽)の大定番で少し昔迄は婚礼で祝詞の代わりの祝い謡、
    「高砂」の主人公は阿蘇神社の神官/神主が都に上る途中の高砂(加古川(日本海に至る重要な交通の要衝)の河口の西側の高砂神社。東側には尾上神社)で出くわした奇譚を題材としています。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、たぬき様。
      「高砂」の内容を調べてみましたが、なかなか興味深いですね。
      福岡にも高砂という地名があり、気になりました。
      面白い情報、ありがとうございます!

      いいね

  2. 阿蘇山、ず~と昔に行ったことありますが、ツアーだったから火口までは行かなかったです。
    火口すごいですね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      煮立つ火口湖を見れるのも、阿蘇くらいかもしれません。
      古代の大噴火では、九州中に火砕流が流れ出し、関東付近にまで火山灰が届いたと云われています。
      阿蘇は間違いなく、世界クラスのジオパークです。

      いいね: 1人

      1. ええ~、古代の噴火、すごいですね…。
        火口湖、緑色というのも意外でした(^.^)

        いいね: 1人

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