
龍宮の神奈備「宝満山」(ほうまんざん)。

福岡県太宰府市連歌屋の小高い一角に、少弐氏の居城と伝えられる「浦ノ城」(うらのじょう)の城跡がありました。

鎌倉時代の文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に元寇が起きた時、大宰府の責任者であった少弐資能(しょうにすけよし)は、子の経資(つねすけ)や景資(かげすけ)らとともに鎮西(九州)の総大将として、元の大軍と戦いました。
しかし、弘安の役の際には経資の子・少弐資時が壱岐で戦死し、資能自身も戦闘の際に蒙った傷で死去します。

弘安5年(1282年)鎌倉幕府は、少弐氏へ元寇の恩賞として岩門城・大宰府城(浦ノ城)の築城を行いました。
浦ノ城は、古寺の原山無量寺の一角に建てられ、中世豪族の規模であったといいます。
少弐資能の死後、経資と景資の兄弟間で家督争いが勃発。弘安8年(1285年)の岩門合戦で弟・景資が敗死します。
永仁元年(1293年)鎮西探題が博多に設置され、北条氏の力が西国にも及ぶようになると、太宰少弐はその権限を奪れました。
鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃します。
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、京都から駆逐された足利尊氏は建武3年(1336年)に九州へ逃れ、この浦ノ城に入城したとされています。

その後、南北朝時代・室町時代・戦国時代を経て少弐氏は激動の中を生き抜きますが、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡。
後に政資の子である少弐資元が第16代当主となり、資元の子・少弐冬尚が第17代当主を継いで少弐氏を再興しましたが、永禄2年(1559年)、謀反を起こした龍造寺隆信に勢福寺城を攻められ、冬尚は自害を余儀なくされました。
これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したということです。

かつては四王寺山から南東側に延びる尾根上の頂部、ジョウセン山とナラコ山に位置した浦ノ城は、昭和44年(1969年)に宅地開発によって消滅し、今はこの跡地を残すばかりとなっています。

浦ノ城跡から北に200m、太宰府三条地区の南端に位置するこんもりとした杜は、

以前も訪ねた「朝近稲荷神社」(あさちかいなりじんじゃ)になります。

子供の頃の秘密基地みたいな神社。

朝近稲荷は、由来も不明の謎のお稲荷さんですが、大根地山(おおねちやま)が本宮だと思われます。
大根地山の扇の滝は、僕に『由比正雪と薄明の月』の物語が降って来た場所であり、ヒロイン朝近ちゃんタソが爆誕した場所でもありました。

以来、それまでは少し怖い印象だったお稲荷さんが、萌えに変わりました。
人って、ちょっとしたことで変われるもんだね。

この三条の朝近稲荷神社ですが、先の浦ノ城の屋敷神だったのかもしれません。

つまり、この尾根沿いの先には、四王寺山があるということです。



ある時、僕の同級生の娘さんで、可愛らしいお嬢さんなのですが、バイト先でこんなことを聞いたと話してくれました。
その可愛らしいお嬢さんのバイト友に、三条地区の人がいたのですが、その人が言うには、三条の子供たちは皆、

「見える子ちゃん」なのだそうです。

なぜか、三条で生まれ育つ子供たちはそういう体質になるのだそうで、大人になるにつれ、だんだんと見えなくなり、次第に見えていた頃のことも曖昧になるのだと。

太宰府といえば、1月7日に火祭り「鬼すべ」が行われます。
「鬼すべ神事」は、寛和2年(986年)に道真公の曽孫にあたる大宰大弐・菅原輔正(すがわらのすけまさ)によって始められたと伝えられています。

氏子およそ300人が地区ごとに、鬼を追い払う「燻手」(すべて)対、鬼を守る「松明」「鬼警固」、そして「鬼係」の各役に分かれ、炎の攻防が繰り広げられる壮大な祭りです。

これらの役は、普通なら持ち回りとなるようなものですが、鬼すべでは固定されていると聞きます。
つまり、鬼役の集落は、毎年鬼役をやるのです。

では三条の人たちはどの役回りなのか、というと、鬼を追い払う「燻手」のようです。
4つの役回りのうち、唯一の鬼祓い役です。これは何かを意図しているのでしょうか。

そもそも、太宰府には五条という地名があり、三条があります。
大宰府は西の都でしたから、条里制の三条通りからその名がついたかと思いきや、違うようです。

それは五条桐彦の名前を考えたときに調べたものでしたが、五条が筑後に来た清家が五条を名乗ったことに由来したように、三条も別の由来がありました。
三条とは「山上」、そう背後に聳える四王寺山に、関係があるようなのです。



四王寺山の「焼米ヶ原」(やきごめがはら)へやって来ました。

焼米ヶ原とは、炭化した当時のお米をここで拾うことができることから呼ばれていて、かつては食糧保管庫であったと考えられています

低山とは言っても、山の尾根。
見晴らしがよく、風も気持ち良いです。

尾根伝いに北東方向へ、しばし歩きます。

道中には、地蔵さんがちらほら。

さて、先ほどの三条の地名の由来ですが、そこはもともと「山上衆」とよばれた僧侶が移り住み「山上町」といわれていたものが、江戸後期に「三条町」と呼ばれるようになったとのことです。

三条は宇美方面から太宰府への入口にあたり、かつては三条の通りは参拝者で賑わっていたといいます。

この山上衆は普通に考えて、西の四王寺、東の宝満宮のどちらかにいた人たちで、山上から降りて来たのであろうと推察されますが、

三条の四王寺側を見てみると、「鬼の腰かけ石」という非常に興味深い名前が見えます。

それでてくてく歩いて来たわけですが、

見えて来ました。

なんと、このウォシュレット機能付き便座のような、小さな石が「鬼の腰かけ石」でした。

太宰府市文化財情報のサイトによると、この岩は「鬼の腰掛け伝説」の場所とされ、「1月7日の太宰府天満宮の鬼すべの夜、鬼がこの岩に腰かけて下を見ると、鬼すべ堂でひどい目に遭っている仲間の姿が見えて、涙を流した」という伝説がある、とのこと。

なるほどねぇ。
「鬼すべ」神事は、陰陽道の追儺祭に由来するものだとは思われますが、伝説とは言え四王寺山の鬼と関連があるのでしょうか。
そして四王寺山の鬼とは、山上衆のこと?
でも山上衆の子孫が「燻手」をやっているって??わけわからん。

「鬼の腰かけ石」からさらに道が続いていたので、少し歩いてみると、

おお、

磐座らしき、立派な巨岩があります。

お地蔵さんが置かれているということは、やはりこの岩は信仰の対象だったのでしょうか。

しかも、あれっ?
これは亀の磐座じゃないですかね。
右が頭、左が尻尾。

頭岩。

全景。

ちょっくら失礼して、亀の背中に乗せてもらうと、二つに割れた石がありました。

カスタネットみたいやな。

亀の磐座というと、太宰府のミステリートライアングルが思い浮かびます。

太宰府のミステリートライアングルとは、太宰府天満宮と天拝山荒穂神社の磐座、宮地岳の童男丱女岩を結ぶ線のことです。
僕は荒穂神社と宮地岳の磐座を、亀の磐座だと考察し、宝満山の祭神が龍宮の乙姫「玉依姫」であることから、「龍宮」に関する何かを示す領域が、このトライアングルなのではないかと推察しました。
そこに新たな四王寺山の亀の磐座が加わりました。
オレンジのラインは、油山の夫婦岩と宝満山、大根地山それぞれを結ぶラインです。
大根地山ラインは春分秋分の日の太陽のラインでもあります。
大根地山(おおねちやま)は、朝近稲荷の本宮でもあり、富家の家紋が大根に変えられたように、越智山が大根に変えられた山だと考えています。

さて、だからどうした、という話になるのですが、どうなんでしょうね。

結局のところ、三条地区の見える子ちゃんたちと山上衆、鬼、そんな関係が一切わかりません。
大根地の朝近ちゃんも関係するんだかどうだか。

亀の磐座の先にも、古墳のような土盛りとお地蔵さんがありました。

その上は遠見所となっています。

太宰府と、三条地区のミステリーは謎のまま。
誰か、三条出身の方とお話しできないかな。

鳥取県倉吉市にも四王寺山がありますね。
伯耆国庁跡のすぐ北側の低山です。
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四王寺山って他にもたくさんあるのかと勝手に思っていましたが、そうではないんですね。
倉吉市の山と何か関連はあるのでしょうかね。
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記事がありました(むくげの会の『むくげ通信』)。
それによると「伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の五国に「八幅四天王像」を送り・・・」とありますね。
https://ksyc.jp/mukuge/273/teraoka.pdf
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情報、ありがとうございます😊
災変を消却するために、四天を配するのですね。
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💚
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