「ホッホッホ、ところで諸君、なぜ太宰府天満宮はあの場所にあるんだい」
「道真公の遺体を引いていた牛車があの場所に立ち止まったから、と云われていますよね」
「一般的にはそうだね、でもそれはとてもおかしな話なんじゃよ」
最近僕のお気に入りである、ダンブルドア先生と話していたある日のことでした。
ダンブルドア先生は僕の3倍は知識と経験が豊富な方ですが、ある人がその人を「ダンブルドア先生みたい」と言うので僕もだんだんダンブルドア先生のように思えてきました。
ダンブルドア先生は「百嶋由一郎」氏ゆかりの「九州王朝説」を支持・研究しておられます。
僕の富家伝承を元にした考え方とは根本に相違がありますが、異なる主張であってもそれを越えて意見を受け入れる余裕が互いにあり、ダンブルドア先生の営むホグワーツは情報のキャッチボールが楽しい、僕の憩いの場所となっているのです。
古代史研究家というのは得てして狭量で、異説交流は難しい傾向にあります。
ところでどうです、ここが飲食店だと誰が思うでしょうか。
店内に所狭しと置かれた本や資料の山。別にテーブル席が3つ用意されていますが、ディープな常連さんは資料が溢れたカウンター席にも躊躇なく座り、歓談を楽しみます。
これぞまさにホグワーツ。
そして僕の疑問や質問に対して素早く、ダンブルドア先生は店内に溢れたデータバンクから的確に、「君の求めているのはこれだね」と言わんばかりに資料を取り出してくるのです。
コレもう完全に魔法じゃん。
さてその先生が太宰府天満宮はなぜあそこにあるのか、と問われます。
太宰府天満宮は言わずと知れた菅原道真公の墓と伝えられます。本殿の中に墓があるのだと。
当時は配流の人といえど、客死して骨となれば、自家に送られるのが習わしでした。
『万葉集』『懐風藻』にもその名がある奈良時代の貴族「紀男人」(きのおひと)は、天平10年(738年)10月30日に任地の九州にて卒去、遺骨は骨送使の山背靺鞨により平城京に運ばれたと記録があります。つまり骨送使という官人もいたのです。
常々帰京・帰家を願っていた道真、しかし彼の骨は慣例を破り、何故か大宰府の外れの杜に埋められたのです。
確かにこれは異なことです。
ダンブルドア先生は言います、『北野天神御伝』に彼の遺言がある、と。
北野天神御伝なるものを検索してみましたが、なかなか情報が出てきません。
すると太宰府天満宮のFacebookにそのことが紹介されていました。
-『北野天神御伝』には、延喜3年正月、病がいよいよ重くなられた道真公が次の遺言をされたと伝えられています。
「余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所に依りて、此事願はず。」-
ほう、なるほど。
天満宮さんは後半で一般的な伝承を述べつつも、「当時大宰府をはじめ京の外で死去した中央貴族の遺骸は、骨送使の手によって都へ運ばせるのが常でした。しかし道真公は「思ふ所」によってあえてそのことを願われず、遺言の通り御遺骸は大宰府に葬られることとなります。」と記してあります。
牛に引かせて立ち止まった云々の話は後付けの逸話であり、本当は確たる意志を持って、道真はあの場所に、自分の遺骸を埋葬させたのです。
その彼の「思ふ所」とは一体何だったのか。
「道真公が登ったという天拝山、あそこの荒穂神社の裏に磐座があるじゃろ。あと宮地岳の上に徐福伝承の磐座がある。太宰府天満宮とこの二つの磐座を結ぶと不思議なことに正三角形になるんぢゃよ」
いやちょっと待ってくださいよ、天拝山は何度も登っているし、確かに山頂に小ぶりな磐座らしきものはある。
荒穂神社も知っているけど山頂の神社の摂社のような神社ですよ、そこに磐座なんてあったっけ。
そういえば富先生も太宰府の徐福の磐座を訪ねたとおっしゃっておられたが、僕はてっきり天拝山のことだと思っていた。
まさかその宮地岳とかにある磐座のことだったのだろうか。
そう考え出すと居ても立ってもおられず、台風接近の雨の中、僕は二つの磐座を見に行くことにしたのだった。
天拝山の登山口に来ました。
「筑紫野に立つ虎麿」の像。
「武蔵寺縁起」に藤原虎麿が霊夢を得て創建したとあるそうですが、その憂いを帯びた姿は道真に重なります。
登山口の鳥居。
なんと今更ですが、扁額が山頂の「天拝神社」ではなく、「荒穂神社」となっています。
つまり天拝山の主たる神社は荒穂の方となるわけです。
歩きやすい、整備された登山道を登ります。
普段はなんてない山道も、雨の日だと少し不気味。
5合目を過ぎたあたりで鳥居が出現。
荒穂神社です。
荒穂神社といえば佐賀県三養基郡基山の荒穂神社が思い浮かびますが、当社はそこから勧請されたようです。
祭神は基山の荒穂神社同様、瓊瓊杵尊という設定ですが、おそらく本来は五十猛命が祀られていたはず。
また由緒では、宮浦荒穂明神が一夜のうちに馬上空を飛んで、この岩間に鎮座したとも伝えていました。
岩間、そう磐座!
確かにありました、巨大な磐座が。
社殿が邪魔で(失礼!)磐座の全貌が見えませんが、横から上に登っていけます。
雨で足を滑らせないよう、注意します。
次第に見え始める聖なる磐座。
それは巨大な石が、幾つにも積み重ねられたものでした。
丸く笠のように意図して積まれ、
一際大きな石のひとつが反り返ったように立てられています。
これを見た時、僕は亀のようだと感じました。
甲羅の部分は子亀が乗っているようにも見えます。
数々の磐座を見てまわると、その中のいくつかは亀を模した磐座があることに気がつきます。これは僕とダンブルドア先生の共通認識です。
そしてさらに、僕はそれは蓬莱信仰・龍宮に関係するのではないかと考察します。彼らが求めた、不老不死の象徴としての磐座です。
天拝山は海部か物部かの秦氏の星読みの山であると思われます。山頂の磐座は星読みの場所だったのでしょう。
しかしこうしてみると、天拝山の最も重要な祭祀対象はこの荒穂神社であると実感するのです。
次に向かったのは宮地岳。
そこの中腹に徐福伝承のある「童男丱女岩」(どうなんかんじょいわ)があるとのことです。
が、絶賛雨なう。
西方寺に車を停めさせていただき、お堂で合掌。
横の小さな神社にもご挨拶します。
鳥居の扁額には「大行事宮」。
この神社は高木神社と呼ばれ、高皇産霊神を祭神としています。
高皇産霊、または高木神とは徐福の母・栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)のことです。
なので徐福伝承の当地に高木神が祀られているのは納得するもの。
しかし先の扁額にあったように、明治以前は当社は大行事宮と呼ばれ、大行事権現を祀っていたと云います。
大行事権現とは大年神のこととされています。
大年神は本来は出雲の神ですが、後に海家の五十猛(いそたけ)が大年彦と呼ばれます。
明治の新政府樹立後、神社庁が誕生し、神仏分離令などが施行されました。
その影で、多くの神社の祭神や由緒が書き換えられたり、取り潰されたりしました。
しかし地元の人が扁額などにこうした痕跡を残してくれていたりして、本来の姿を知る重要な手がかりになっています。
高木神社の横を登っていきます。
その先にお目当ての童男丱女岩はあるのだそうです。
童男丱女岩のある位置は筑紫野市の宮地岳南中腹。この一帯は天山(あまやま)と呼ばれています。
徐福は秦の始皇帝より延年益寿・不老長寿の妙薬を探す命を受け、童男童女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し佐賀平野に辿り着きました。
童男丱女岩の伝承ではこの岩に船を繋ぎ、700人が上陸したと伝えています。
ということは残りの2300人は、あるいは散り散りとなり別の岸に辿り着いたか、あるいは海へと消えて綿津見の神となったか。
もっとも、たとえ古代は筑紫平野は中つ海であったとしても、こんな山奥にある岩に船を繋ぎ止めたとは考え難く、童男丱女岩は後に徐福伝承をこじつけた聖蹟であろうと思われます。
貝原益軒は「筑前国続風土記」で次のように記します。
「天山の西方寺の上に重なり合う岩石群がある。この場所を里の人々は童男丱女の旧跡と言うが、その謂われは老人にも知る者はいない」と。
しかし僕は、その聖蹟で驚くものを見ました。
それにしても雨は降るし、ひと気はなくて怖いし。
傘をさしながらのトレッキングの宴もたけなわとなってきた頃、
童男丱女岩が姿を表しました。
これは!
なんと見事な亀甲紋の岩。
対馬の和多都美神社参道の池に三柱鳥居が建てられ、そこに安曇磯良の墓とされる「磯良恵比須」と呼ばれる岩が祀られています。
その岩がこのような亀甲のヒビの入った岩でした。
また屋久島の益救神社にもありました。
しかしこんな巨大なものは初めて目にします。
横には意味ありげに組まれた巨岩。
それもよく見ると亀甲の岩でした。
なぜこんな山上に、特殊な磐座を築いたのか。
そもそもこの亀甲の磐座はどこから持ってきたのか、謎です。
近いところでは、石穴稲荷の磐座群の中にいくつかあったように記憶しています。
荒穂神社とこの童男丱女岩、二つの磐座を見て、僕の中にあるキーワードが浮かび上がります。
それはやはり、「龍宮」なのです。
最後に太宰府天満宮にやってきました。
ダンブルドア先生は太宰府天満宮は、元々は「安楽寺」というお寺だったとヒントをくれました。
安楽寺とは安曇の寺か。
天満宮参道の太鼓橋横には、なぜか一見関係なさそうな志賀社がとりわけ立派に祀られています。
思えば天満宮が背後に抱える霊山・宝満山の祭神は玉依姫。
彼女は龍宮の乙姫・豊玉姫の妹であると柿本人麿は古事記に書き遺します。
古事記によると、豊玉姫は息子・ウガヤフキアエズを残して、龍宮へと帰ってしまい、そして妹・玉依姫を乳母として遣わします。
やがて成長したウガヤフキアエズは玉依姫を妃にと切望し、二人は結ばれたのでした。
そしてその子の一人が神武となります。
宇佐家伝承を読み解くと、豊玉姫の息子・豊彦に嫁いだのは越智家の常世織姫だと云います。常世織姫=玉依姫なのでしょうか。
越智家から派生した三島家に、富家の事代主に嫁いだ妃がいますが、彼女の名が活玉依姫です。
ということは、この太宰府トライアングルに隠されたものとは、越智家の国がかつてあり、安曇族が深く関わっていると言うことでしょうか。
菅原道真が「骸骨を故郷に帰さんこと」を願わず、「思ふ所」があるのだと定めたのはこの事なのでしょうか。
安曇族が道真に接触して、情報を流していたとか。
しかしそれが切望していた帰家を蹴ってでも彼が伝えたかった事なのかと言うと、僕にはやや違和感が残ります。ピンとこない。
僕はこのあとすぐにホグワーツに戻り、ダンブルドア先生に報告と感想を伝えました。すると、
「この近くに白川伯王の神社があるのは知ってる?」
また新たな情報を出してきました。
白川伯王??
そこから僕の白い一族の軌跡を辿るメイド・イン・アビスが始まるとは、この時は想像もしていなかったのでした。
🧙♂️
この世界は
わしらが知らないことだらけじゃ
見えているのはほんの一部
わかったと思っても
また次の扉が現れるのじゃ
だからこそ
人間世界は面白いのかも知れぬ
亡くなった武内むっちゃんも面白い人でしたね。
最近、彼の動画を見ています
いつのまにか、真・古事記の邪馬台国と言う本を出していて、東征が二度にわたる事、卑弥呼が複数いた事を書いていて、他家の古伝が出雲伝承を補完する様な展開になってきています
武内家の議決権の過半数を押さえて発表に至ったらしいですが、よほどの秘密だったと思われ、出雲伝承公開の覚悟の大きさを思い至ります
九州に行き山も歩きましたが、全体的な俯瞰した流れは別として、個々の地元情報の確度の高さと言うものは、つい最近の諏方伝承の公開のとこもあり、傾聴に値するものだと思い直しています
逆に記紀の隠し事の巧妙さとは凄いものですよね
正しい部分と、隠されている部分がどの伝承にもあって、確信だけは持てない様になっています
我が国国民は千年以上経てもまだ正しい認識が待ていません
凄い細工をしたものだと思います
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この国の歴史は、2度にわたって隠されたと感じています。各社家にも、口外できない秘伝がまだまだ埋もれているような気もします。いつかそれが明るみになった時に、少しだけ真実の日本の姿が見えてくるのかもしれません。
ところでむっちゃんさんはなぜ亡くなったのでしょうかね。
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ホグワーツに行ってダンブルドア先生に会いたい!
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気をつけないとですね、30分くらい居たかなと思ったら、3時間くらい過ぎているんですよ😄おそるべしホグワーツ!
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荒穂神社の風格ある掘立て小屋感、漆黒の光沢の磐座なんか恐い、童男丱女岩の味のある彫刻刀跡、志賀社の見事すぎる風合いの安普請、素晴らしい🐥完璧です。菅原道真もきっと故郷に帰りたかったけど我慢した…
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そうとう我慢したんでしょうね😅
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