太宰府天満宮・天神伝 / 天拝

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晩年、道真は無実を天に訴えるため、七日七夜「天拝山」山頂の岩の上で爪立って、身の潔白を書いた祭文を読上げ、天に祈り続けました。

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すると、祭文は天高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号が道真の元へ舞い届けられたのでした。

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福岡県筑紫野市に、九州最古の寺と云われる「武蔵寺」(ぶぞうじ)があります。

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初夏には古木が咲かせる藤の花が人気の寺院です。

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その境内に隣接するように、「御自作天満宮」(ごじさくてんまんぐう)が鎮座しています。

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当社は道真が晩年登ったとされる「天拝山」(てんぱいざん)の麓にあり、菅原道真公が自らの姿を刻んだと云う坐像が祀ってあります。

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この御神体を拝見できるよう扉が開かれるのは、年に3回しかありません。

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この写真の像は「菅公歴史館」にあったもので、当然、御自作天満宮に祀られるものとは別物です。
が、御自作天神は見れたとしても撮影禁止になっているので、当ブログでご紹介することはできません。

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ただ、天正14年(1586年)の岩屋城攻防戦で、武蔵寺も御自作天満宮も焼けてしまったそうです。

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この時、御自作天神の顔だけは運び出されたと云うことで、現在の像は、首から下の部分が新たに作り直された物となっているようです。

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境内には飛梅よろしく、白梅の木に花が咲いていました。

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道真は右大臣にまで駆け上った直後、天皇のすげ替えを画策したという讒言により、あらぬ罪を着せられ、大宰府に左遷になりました。

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左遷とはいえ、その先は西の都「大宰府」です。
普通の下級官僚なら大喜びして私利を肥やすであろう配属であり、まして彼の役職は実質上大宰府のトップ「大宰権帥」です。
都に返り咲けば、大出世が約束されたような条件でした。

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しかし仮にも道真は国家転覆の嫌疑をかけられた身だったのです。
左遷とは名目であり、実際は咎人としての流罪でした。

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大宰府に着いた道真公にはあばら家が与えられ、そこに軟禁される暮らしが待っていたのです。

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御自作天満宮参道の入り口に、一の鳥居とは別の鳥居がありました。

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そこには高さ2mほどの「紫藤の瀧」と呼ばれる、小さな瀧があります。

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道真はここで身を清め、天拝山に登ったと伝えられます。

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横には突き出た、大きな一塊の岩。

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道真が禊の際に衣をかけた岩と云われています。

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「紫藤の瀧」からぐるりと裏に回ると、天拝山の登山口があります。

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天拝山の登山道は、緩やかな傾斜が続く、半舗装されたとても登りやすい道です。
山頂までの時間も、およそ20分もあればゆっくり登れる程度。
市民・県民たちからも、散歩気分で登れる低山として人気のスポットです。

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さて、晩年の道真がこの天拝山に登り、山頂の岩の上で爪立って七日七晩祈ると、天から彼の元へ『天満大自在天神』と書かれた尊号が届けられたと云い、それが道真をして「天神」という神になったという所以であると伝えられています。
しかしどうでしょうか?
道真は残念ながら、天拝山には登っていないと思われます。

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そもそも、もし道真が天拝山まで行き来できるような自由があり、低山とはいえ登山できるような健全体でいられたとするなら、彼は祟り神などになることはなかったのです。

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左遷とはいえ、大宰府は西の都。
異国の文化も真っ先に届く要所なのです。
寛平6年(894年)に道真自身の建議により遣唐使は停止されましたので、最盛期に比べれば寂れた感はあったかもしれません。
しかし、それでも当時、道真の知識欲・好奇心を満たすもので大宰府はあふれていたはずなのです。

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道真の場合、左遷とは表向きで、実際は罪人としての配流でした。
道真は大宰府に着くと、政庁から南に下った南館と呼ばれるあばら家に軟禁・幽閉されたのです。
当然、行動の自由はありませんでした。

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つまり道真は、天拝山はおろか大宰府政庁にさえ、足を運ぶことはなかったのです。

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天拝山は比較的容易に登れる低山ですが、最後の階段だけが、少し骨折れます。

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300数十段ある階段は、勾配もそこそこあり、なまった体には苦しい道です。

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当時の大宰府は、道真に与えられた住居のみならず、大宰府政庁全体が老朽化していたそうです。
南館は屋根が漏って、床も縁も朽ち、そこでの惨めな生活から、道真は胃を害し、脚気と皮膚病に悩まされていました。

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道真が左遷された折、道真の子や同調者らも、合わせて13人が追放されました。
その中で道真は、幼い「紅姫」と「隈麿」の二人の子を連れて行くことを許されています。
しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、その数か月後に妻も他界したとの知らせを受けます。
それはよほどのショックだったのでしょう、10日後に道真も他界するのです。

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天拝山山頂に到着しました。
そこに菅公の足型が残ると云う「おつま立ちの岩」(天拝岩)があります。

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しかし晩年の道真が、どうしてここまでやってきて、山を登ることができたでしょう。
あり得ないのです。

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菅原道真は大宰府に左遷されてから、よほど惨めな境遇であったのでしょう、悲観した歌ばかりを残しています。
そこには文人で右大臣にまで上り詰めた、栄華の人の片鱗も感じ取ることはできません。
故に彼は京を恨み呪い、怨霊となって彼を苦しめた人々を祟ったのか。

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彼の死後、都では次々異変が襲います。

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京では早魃と洪水がつづき、疫病が猛威をふるいました。
道真の左遷を撤回させようとした宇多上皇を阻止した「藤原菅根」、道真を追放した張本人である「藤原時平」、左遷を下した醍醐天皇の御子「保明親王」らが次々に亡くなります。
当然、これは道真の怨霊による崇りではあるまいかと、皆うわさしました。
そしてついに、早魃対策を協議していた宮中の清涼殿に、雷が落ちたのです。

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多くの要人の死者・負傷者を出した落雷は、道真の怨霊そのものだとされ、天神道真は「雷神」であると言われるようになっていったのです。

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しかし本当に、道真の霊は、祟り神となったのでしょうか?
彼の人生を調べれば調べるほど、僕にはどうしても、そこが腑に落ちないのです。

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太宰府天満宮の宝物館に、道真真筆の「紺紙金字法華経」(こんしきんじほけきょう)が展示されています。

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その緻密かつ、たおやかで美しい筆致は、彼の誠実な性格をこれ以上なく物語っています。

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菅原道真は大宰府の村民から大変慕われた様子が伺え、彼が死んだ時も、多くの人が悲しんだと云われています。

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道真の出生に関しては、多くの伝説・伝承があり、謎な部分が多く残されています。
しかし、彼は間違いなく、出雲王家の直系である「野見宿禰」の子孫「土師氏」(はじし)の血統なのです。
そしておそらく、正しい伝承である出雲の菅原天満宮にある由来によると、母もまた、出雲人の血を濃く受けつぐ人なのです。
ちなみに宝物館にあったこの系図、野見宿禰の先祖が「天穂日」となっているのは真っ赤な嘘。
彼は出雲王国を乗っ取ろうとした渡来人であることは、「八雲ニ散ル花」シリーズで散々紹介したことです。

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兎にも角にも、生粋の出雲人というのは、途方もなくお人好しなのです。
まさに日本人の原型たる所以です。
その源流たる菅原道真は、境遇に嘆きこそすれ、呪い祟るなどという遺伝子は持ち合わせていないと思うのです。

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しかし彼の境遇は、出雲人ならば、ある事件を彷彿とさせたはずです。
先の天穂日らによって孤島の洞窟に幽閉させられ、枯死した偉大なる王と副王の事件です。
今回も、古事記と日本書紀の編纂によって出雲王国の歴史を抹消させた、藤原不比等の子孫が、王家直系の子孫を讒言によって大宰府に幽閉、死に至らせたのです。

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そこで道真に変わり、恨みを晴らした一団が居たのではないでしょうか。
旧東出雲王家「富家」には「散自出雲」という秘密結社集団がありました。
彼らが道真に変わって天誅を下し、折り合いよろしく清涼殿に雷が落ち、彼は雷神「天満大自在天神」となった。

時折、当ブログにコメントを下さる事情通の「たぬき」さんによると、『天満天神こと菅原道真公が有名に成る以前には、単に「天神さま」と言うとき、それは手間天神、少彦名神(=八重波津身命=事代主神/大物主神)を指していた』と云うことです。
また、『北野などの京都市北部は出雲人らがしこたま居た』とも付け加えられており、京都の出雲人が悲劇の事代主と道真を重ね合わせた可能性は高いように思われます。

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天拝山の山頂からは水城から太宰府までの平野が一望できます。

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左手には歴史的遺構である「水城」、

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正面には、麓に太宰府天満宮が鎮座する霊峰「宝満山」、

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右手奥には大名持が変化したと思える「大根地山」(おおねちやま)が見えます。

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道真を天神化するにあたり、また雷神としての属性を付与するにあたり、もっともらしい理由づけが必要になった、それが天拝山頂で天に祈った道真の話となったのでしょう。

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天拝山の登山ルートには、隠しルートの「天神さまの径(みち)」というものがあります。
それは山頂と御自作天満宮をつなぐ、わりと険しい登山道です。

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道真はこの道を登り、天に声を届けたと言わんばかりではありますが、僕も晩年の道真公が健康に当地に至る自由を得て、神に見守られつつ、ささやかなひと時を過ごしたという可能性を、夢見ないわけでもないのです。

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2件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    天拝山。七。、、、これらは道教(徐福さま)に由来するモノかと思います。

    小高い山に登り、天(星晨)を拝む、
    七は北斗七星に由来する道教(物部、天皇家)の聖なる数。

    片や、菅原道真公らの血筋、出雲や出雲族らの聖なる数は三と八。

    多分、後世の呪詛?の一環でしょう。

    ところで、菅原道真公は野見宿禰=旧出雲王家 富王当主。富彦(先代は物部ほか連合軍による出雲戦争~出雲王国滅亡で戦死なさった)の直系子孫?

    菅原道真公の子孫はあるいは勝山(岡山県)に移住して菅七家と謂れる土豪、名主/土地の名士となり幕末迄、、、

    かの菅直人元首相や現、菅 官房長官 さまは彼らの子孫かと存じ上げます。

    また、現在の安倍宰相殿下に置かれましては古の大彦さまの末裔(安倍氏)と言われます。
    現在の政権は出雲王国政権と言えそうです?

    、、、日本は未だ神代に坐ませば。
    東京は高天ヶ原。
    神々(の末裔ら(実際にそうなっているから不思議))が集う国会は古代出雲王国神(首長)会議の再来のタヌキ(出雲神)とキツネ(秦族)と魑魅魍魎らによる奉納神楽(芝居)の大劇場
    天皇は出雲オオナモチの末裔。
    、、、

    いいね

    1. CHIRICO より:

      おっしゃる通り、形の良い低山であることからも、天拝山は物部の星読みの山であると推察しています。

      安倍首相はそうだろうと推察していましたが、菅氏が菅原氏から来ているとは思い及びませんでした、なるほど。
      おおらかさ、人の良さは出雲族のDNAの特徴かと思います。
      そこに最近は、在日系と称して随分半島の血が入ってきていることが気になります。
      日本には八百万の神々を受け入れる、器の大きさがありますが、さすがに昨今の隣国のやり方にはうんざりしているところです。
      かの人の「天皇謝罪」発言には、本当に気分悪くなりました。
      出雲族の威信にかけて、他国の良いようにされないよう、しっかり大和の舵取りをしてほしいものです。

      ところで僕の先祖をたどってみると、どうやら「五条氏」という一族に至るようです。
      さらに五条氏を遡ると、なんと、天武帝の嫡男「舎人親王」に行き着くのだそうで、僕にも多少なり、出雲の血が流れているかもしれない可能性に驚いています。
      ありがたい。
      生きる勇気が湧いてきます。

      いいね

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