
三毛入野命、宮崎より御引き戻し、鬼八退治のため同勢33人引き連れ、団子宮に御入りになった。堂社祭神は事代主神、天児屋命である。
三毛入野命その神元へ御入りになった際、空腹だったため、「何か食べ物はないか?」と聞くと「食べものは一つもないが、天児屋の染め物用に使う糊があるので、これでも宜しければ差し上げますよ」と答えた。三毛入野命、同勢一同空腹だったので、皆これを食べた。よって、【団子の宮】と云い伝えられる。
三毛入野命は、鬼八の行方を聞いたが、「私には分かりません、神呂木方へ行って聞いてみるとわかるかもしれませんよ」と伝えた。この質問の前に三毛入野命は「神呂木とはだれであろうか?」とお尋ねしていたので、先ほどのように答えたという。
これより同勢神呂岐に一位一氏鬼八のことを聞いてみた。
神呂岐が言うには、「鬼八の行方は分らないが、ひょいとすればもしかすると居住地に帰ってくるかもしれないので、あばら家ですが、しばらく御泊りになってはいかがでしょうか?」と申し上げた。よって、神呂岐方へ滞在することとなり、ここより南の方において、五色の的を張り、弓矢を射って御遊ばれされていた。このところを【筒井戸の森】という。
その筒井戸の森に住む筒井戸何某に「子は見当たらないがどうしたことか?」とお尋ねになった。「筒井戸の子は大鷹に取られてしまい、子供が減ってしまったのだ」と答えた。
三毛入野命は、「それは大変だ。その鷹はどこからくるのだ?」と聞くと、「その鷹は藤岡山に住んでおります」と答えた。三毛入野命は高陰をとり、その鷹を撃ち留められた。
その際、その鷹は白い血を流した。その場所を熊白川という。その血は飛び、宮尾野に落ちた。よって白水というところあり。【白水水神】また、鷹は手負いながらも浅ヶ部に飛び、高杉というところにて死んでしまった。
それより、鬼八の行方が分かり、早合戦が神殿(こうどの)より始まった。
味方の家来30人その場にて鬼八より切り伏せられ討ち死にしてしまった。主従3人は生き残り、1人は力いっぱいに切りかかると、鬼八もこれまでかと逃げていった。それを、追いかけ、追いかけ、追いゆくと、鬼八は逃げながら、ベロを出して逃げた。そのことから、【ベロの松】というところがある。
これより川向うの根引きヶ原に逃げている間をすかさず追いかけ切り伏せた。その時、三毛入野命の刀が鬼八の眉を一寸切り込んだ。これより鬼八、後手にて根引き松を引き抜き、神土橋のごとく逃げ降った。そのことから【根引きヶ原】と名付けられた。
主従3人にて、急がねばと追いかけて行くと、鬼八は竹の迫の滝の上に昇っており、散り剱を返し、打ちに打ち付けた。これより、押方小谷内、乳ヶ岩屋へ逃げ込んだ。徳別当というところに女の人が1人いた。
三毛入野命は鬼八の行方を見失ってしまい、その女に「鬼八がどこへ行ったか見なかったか?」と尋ねるも、その女は口では答えずも、目でその行った方向を教えた。
これより追いかけると、鬼八は三ケ所、内の口(五ヶ瀬町)へ逃げ込んだ。
ところで、その合戦退治の際、神呂岐の家に若い女が1人来た。「三毛入野命様はおられます?」と聞いてきたので、「鬼八退治に行ったので、どこに行ったか分かりません」と答えた。「もしご心配であれば、御退治になられた後に、御帰りになると思うので、しばらくこの家に滞在なされてはいかがですか?」と神呂岐は足を御停めさせ、家の後にある、穴に御入りになり、形を御隠しになられた。その穴より、時々お出でになり、三毛入野命が御帰りになられたかお聞きになると、再び姿を御隠しになられた。
鬼八は、追い回され、奈須山を通り、主従3人追い打ちになった。鬼八は豊前の英彦山に逃げ、それより四国の金毘羅山に渡り、伊豫の国立川山に籠もった。それでもなお、三毛入野命は追いかけ、鬼八は八幡浜より佐賀関へ逃げ込み、姥ヶ岳(祖母岳)に逃げ込んだ。3人は追いかけるも、姥ヶ岳に逃げ込んでいるときは行方が分からなくなってしまった。3人は鬼八の行方が分からなかったが、「高千穂へ戻っているに違いない」と意気を上げ、三田井を目指し、再び神殿へ追い詰めた。
お互い、大合戦となる。鬼八は、最早これまでと最後の力を振り絞り、三毛入野命目掛けて大手を広げ、組み合ってきた。それにて、お互いの太刀は組打ちになり、他の2人は三毛入野命に誤って当ててしまっては一大事と、鬼八の片手だけでも打ち落としてくれと、応援するもなかなか決着がつかずしばしば戦いが続くと、この先どうなってしまうのか。三毛入野命危うし。
そこへ、一の堀、朝日丹部大臣が駆けつけ、鬼八を取りつかんで引き伏せ、体を堀へ投げ飛ばした。その体、地上に這い上がってくるため、足、手を切り、胴を6つにした。
墓を築き分けて埋め、今鬼八の塚とあるのは、胴の片割れである。首は天に舞って、6月土用に大霜を降らせた。その災いにより、健磐龍命が祈徳をもって、首は肥後の阿蘇谷に落ちた。今【霜宮】と称する宮はこの場所のことである。詳しいことは、肥後にあるという。これにて鬼八退治の話は終わりとする。
さて、神呂岐家に御滞在の女神、豊玉姫が御出でになり、三毛入野命をお尋ねになるや否や、穴神森に御姿をそのまま御静まりになる。その姿、形は蛇のごとく御変わりになった。三毛入野命は今十社宮御鎮座しておられる。
畏れ多くも、神呂岐の姓、彦穂々出見の命の後裔であるという伝えがある。
『興梠古文書』


宮崎県西臼杵郡日之影町に鎮座する「宮水神社」(みやみずじんじゃ)を訪ねました。
狭い住宅街の奥に、ひっそりと佇む神社です。

創建年代は不詳。
別称「親武(ちかたけ)大明神」とも呼び、安政3年(1856年)に袴谷に鎮座していた北山大明神を合祀して郷社となり、明治初年に「宮水神社」と改称されました。

祭神は、「大山祗神」(おおやまつみのかみ)と、「三田井越前守親武公」(みたいえちぜんのかみちかたけこう)、
他、
「八幡大明神」「菅原道真公」「月読命」「愛宕将軍」「稲荷大明神」「逆巻大明神」
になります。

宮水神社といえば、平成28年(2016年)のアニメーション映画『君の名は。』の舞台となる神社がその名前でした。
そのモデルとされる神社は飛騨高山にいくつかありましたが、

ここが本命なんじゃないの?
神社本庁によると「宮水神社」という名前で登記されている神社は他にないとされるそうです。

当社建立の由来としては、祭神の一柱「三田井親武」(みたいちかたけ)公に深い関わりがあります。
三田井氏は日向国高千穂の豪族で、高千穂氏の血筋が途絶え、親武はその養子となっていました。
親武は、高千穂氏の伝承では、三毛入野命から続く高知尾太郎政次の子孫とされています。

高知尾太郎政次は、「大神惟基」(おおがこれもと)の長子とも伝えられますが、大神惟基といえば祖母岳明神の化身である大蛇と里の娘との間に生まれた「いとおそろしきもの」であると『平家物語』巻第八・緒環に紹介されている人物です。
大神惟基については、「穴森神社」と「宇田姫神社」に記しています。

さて、これらの話を信じるなら、三田井親武はもまた、「いとおそろしきもの」の末裔であると考えられます。
「三毛入野命から続く高知尾太郎政次の子孫」ということなので、鬼八から奪った祖母山の女「鵜の目媛」と三毛入野の間に生まれた子孫なのかもしれません。
天正18年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定で、高千穂郷は縣城主(延岡城主)となった高橋元種の所領となりましたが、三田井氏はこれに従いませんでした。
何としても西臼杵地方を手に入れたかった元種は、三田井氏の家老「甲斐宗摂」をそそのかして謀反を起させ、文禄元年(1591年)9月27日の真夜中、仲山城にて三田井親武を討ちとらせました。

親武の首級は、舟の尾代官所で首実検される予定でしたが、宮水に差し掛かったところでその首が重くなり、歩くこともできなくなりました。
このことを本陣へ注進したところ、不思議なことであるとして、そのまま宮水で首実検が行われることになりました。
そうして首実検が終り、放置された親武の首を、哀れに思った村民が近くの森に葬ったと云います。

その後、享和3年(1803年)、三田井の支族「興梠権兵衛重綱」、庄屋「甲斐又兵衛」、「中村忠兵衛」らが協議し、宮水の首塚に石碑を建立し、安政2年4月、中村忠兵衛の曾孫「中村寅五郎」が主催して高千穂十八ヶ村の庄屋に働きかけて寄附を集め、三田井親武を祀る社を建立したと伝えられています。

宮水神社の境内には、もう一つの創建由来である「雨社天満宮」と呼ばれる社が鎮座しています。
三毛入野(十社大明神)が「鬼八」退治の途中、俄雨(にわかあめ)に遭いました。
この時、路傍にあった楠の木の洞にて休息し、雨が止んで再び出発する時に記念として、自然石二個を安置されたといいます。
里人はこの石を神体として三毛入野命を尊崇し、楠木の傍に小社を建て「雨社水神」として祭祀しました。

この時の自然石は今も存在しているそうで、社の中に御神体として安置されているものと思われます。
また、当地から1kmほど北西の袴谷という場所は、三毛入野が俄雨で袴の裾に付いた泥を洗った所といい、里人はそこに楠を植え「大山祗神」を祭祀し、安政2年に「宮水神社」に合祀されました。

冒頭に挙げた三毛入野の鬼八退治の伝承は、興梠氏が宮司を務める「荒立神社」に伝わる『興梠古文書』と呼ばれるものです。
実際は古伝記は焼失してしまい、興呂木氏第23代興梠九郎重家80歳の時の記憶のみ記すものである、とのこと。
この『興梠古文書』のことは、僕は “X”のBruchollerieさんから教えていただきましたが、検索すると『平井俊徳』さんという方が原文をネットに上げておられました。
本来は荒立神社で紹介する内容ではありますが、三毛入野と鬼八の話を伝えるものとして、ここに引用させていただきました。

この古文書の内容によれば、三毛入野と鬼八(きはち)の他に、「神呂岐」(神呂木/かむろぎ)という人物が登場します。
また、「筒井戸の大鷹」の話や、「健磐龍と阿蘇谷の霜宮」の話なども盛り込まれており、いくつかの伝承が掛け合わされている印象を受けます。
さらに三毛入野に会うため、神呂岐の家にやってきた豊玉姫は、穴森の蛇神として語られています。
この神呂岐家が、今の興梠家であると考えられており、古文書は「畏れ多くも、神呂岐の姓、彦穂々出見の命の後裔であるという伝えがある」と締めくくっています。

一般には興梠氏はアララギ王「鬼八」の子孫であると考えられていましたが、こうして見てみると、違っているのではないか、と思わざるを得ません。
僕が佐織さんとお会いするようになって、彼女の家「橋本家」と密接な姻戚関係にあるのが「興梠家」だと言う話を聞いた時から、ずっと違和感を感じていたことでもあります。
narisawaさんに指摘された、紀州の竈山神社社家であった五瀬家は、分家の嫌がらせに嫌気がさし、嫁の実家の姓である「橋本」を名乗ったという話、これは媛さんの話を裏付ける重要な話となります。
橋本の姻戚先が興梠氏、五瀬の妻の家が橋本家。そして五ヶ瀬で古くから祭司を続けてきた橋本家、それらを鑑みると、興梠とは五瀬命の末裔であるということにならないでしょうか。

そこで僕は、心のモヤモヤを佐織さんに尋ねてみると、なんと、橋本家と姻戚関係を持つ興梠家と、高千穂の興梠家は別物だと言うことを知りました。
なるほど、これでスッキリします。
「荒立神社」に伝わる『興梠古文書』が正しいならば、高千穂の興梠家は彦穂々出見(物部)の後裔と伝えられ、三毛入野(物部)が鬼八を退治する様子を傍観していた文書の内容に、違和感がなくなります。
これに対し、出雲の気配を有する鬼八の末裔は、五ヶ瀬(五瀬)の興梠であり、鬼八の妻・鵜の目媛は橋本の出身であったと、自然な解釈が成り立ちます。
五瀬や鬼八は、彼らは物部の王であったのではなく、出雲系の、たとえば多氏系の王であったのではないかと、思われるのです。

【 媛さんのブログ『ヒルコ』】