竈山神社:八雲ニ散ル花 木ノ国篇 05

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九州、物部族の王「彦渚武」の御子に「五瀬」がいた。
五瀬は紀元1世紀頃に、物部族の指導者にまで成長した。

「兄じゃ、ついに好機がきました。今こそ大和に向かうべきです。」

弟「三毛野」と「稲飯」は、兄「五瀬」の元に駆け寄り、息を荒げた。
彼らは物部王国が西の筑紫島にあることを不満に思い、かねてより大和への遷都計画を立てていたのだった。

その少し前、出雲は但馬のヒボコ勢から攻撃を受けた。
ヒボコ族の祖先「アメノヒボコ」は、辰韓から追い出されるように日本へやってきたのだが、その時、出雲王の「大国主」から上陸を断られている。
この恨みを晴らす機会を、彼の子孫らは虎視眈々と狙っていた。
このヒボコ勢の進撃を阻んだのは大和の「フトニ」大王と息子の「吉備津彦」兄弟だった。
強大な軍力を持つ大和軍に、ヒボコ勢は散り散りに退散する羽目となる。
出雲王家にとって磯城・大和王家は親戚どうしの間柄である。
フトニ軍の攻勢に安堵したのは、出雲王家の油断であった。
なぜならフトニ軍を引き連れた吉備津彦兄弟は、播磨を制圧し、そのまま出雲へ侵攻をし始めたからだ。
出雲から採れる銅や鉄に色気を出したフトニ大王は、自ら播磨まで出陣していた。

これはつまり、大和に王が不在である、ということである。
大王のいない大和では、力ある小国同士が覇権を争う事態へと発展していく。
この事件は、その後80年に渡る「和国大乱」の始まりであった。

この騒乱を好機と捉えたのが九州の物部族だ。
五瀬は大和地方へ進軍することを決めた。
165年、有明海を出航した五瀬・物部軍の船団は、肥後国の球磨川の河口に停泊し、多数の若い兵士を募った。
そこで集まった兵士らは「久米ノ子」と呼ばれ、身体能力に長け、白兵戦を得意とした。
船団はさらに南に進み、薩摩半島の笠沙の岬、佐多岬へと進み、そこから東に向かって四国西南端の足摺岬を通り過ぎ、土佐国の南岸を進んだ。

彼らは四国の太平洋側を進み、瀬戸内海を通過することはなかった。
なぜなら物部軍の大軍船が瀬戸内海を通るならば、播磨に陣を構えるフトニ王・吉備軍の攻撃を受ける危険性が大きかったからだ。

五瀬らは四国を無事越え、ついに紀伊国上陸作戦の日を迎えた。
船団は淡路島を南岸沿いに進み、紀ノ川河口へ上陸する。
あとは川にそって遡れば、大和の南端にたどり着く。

「ようやく着きましたな、兄じゃ」
「うむ、まずはあの小高い山に陣を敷き、整い次第進軍しよう」

そう言って号令をかけようとした時、木の陰、岩の陰から敵の軍勢が現れた。
それはこの名草山一帯を統治する戸畔「名草姫」の軍勢であった。
五瀬らは待ち伏せを受けたのである。

「放て」

名草姫の号令とともに、雨のような矢が物部軍に降り注ぐ。
それはまさに、木ノ神の洗礼であった。
不意をつかれた物部軍は矢を受けつつ、船のある方へ逃げた。

「兄じゃっ」

弟らが振り向けば、肘と脛に矢を受けた五瀬の姿があった。

(これはまずい)

急いで五瀬をかばい、陣まで引いたが五瀬の顔色は赤黒く腫れ上がっていた。
彼は毒矢を身に受けていた。
五瀬は一晩と持たず絶命した。
彼らはしばらく船のそばの陣で様子を伺うが、その後、名草軍が襲ってくることはなかった。
三毛野と稲飯は、五瀬の遺体をそのままにしておけず、近くの小高い山に埋葬することにした。
簡単な葬儀を行い、今後のことを話し合うため彼らは陣へと戻っていく。
そこで彼らが目にしたのは、紀ノ川対岸に現れた、おびただしい数の磯城・大和王国の軍勢であった。

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紀ノ川河口、和歌山市和田に鎮座する「竈山神社」(かまやまじんじゃ)を訪ねました。

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竈山神社は明治初期までは小さな社だったそうですが、戦前の国家神道の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、今では勇壮な神社となっています。

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和歌山市民にも親しまれ、当社と「日前神宮・國懸神宮」、「伊太祁曽神社」に参詣することを「三社参り」としています。

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祭神は「彦五瀬命」(ひこいつせのみこと)。
記紀では「ウガヤフキアエズ」と「タマヨリビメ」の間に生まれた長男で、「神武天皇」の長兄とされています。

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古代出雲王家の子孫に伝わるところによると、記紀に記されている初代「神武天皇」の話は、大和王国に関連した三人の人物の話を、一人の人物に見せかけたものだと云います。
一人は初代大王「天村雲」、一人は第一次物部東征の「ウマシマジ」、もう一人は第二次物部東征の「イクメ」です。

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「ウマシマジ」とは五瀬(イツセ)の弟「三毛野」(ミケイリノ)と「稲飯」(イナイイ)のどちらかを指します。
五瀬の死後、弟二人のうちどちらがリーダーとなったか、記紀の編纂者たちには分からなかったので「ウマシマジ」という仮名で呼びました。
ウマシマジの名は、3世紀に第一次物部東征とよく似たルートを通った武内宿禰の弟「甘美内宿禰」(うましうちのすくね)から採られたようです。

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筑紫の物部王国「彦渚武」(ヒコナギサタケ)の子らは、フトニ王による和国大乱(倭国大乱)の機に乗じて、大和へ東征をすることにしました。
有明海へ出航した五瀬らは九州の南岸を兵を募りつつ迂回し、四国の南岸を進み、紀ノ川河口の左岸へ上陸。
そこから紀ノ川を遡って南から大和へ入る計画でした。

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それまで物部王国のシンボルは大型の「銅矛」でしたが、船での移動に不向きであったためシンボルを「鋼鏡」に変えることにしたと云います。

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紀ノ川河口に上陸した五瀬らは守備に有利な名草山に登ることにしました。
ところがそこで、名草軍の待ち伏せを受けることになります。

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名草軍を率いていたのは女首長・戸畔の「名草姫」でした。
旧事本紀の尾張家の系図によると、6世の建田背が紀伊国の和歌山から、名草姫を奥方に迎えたことが記されています。
名草姫は嫁に行く前に、戸畔として村の軍隊を組織し、侵入軍と戦う役目を担っていました。

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物部軍に対し名草軍は毒矢を射かけました。
その矢は五瀬の肘と脛に当たり、その毒が体にまわって五瀬は戦死したと云います。
残った物部の者らは名草軍が退いたのを確認し、近くの竈山に五瀬を葬りました。

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竃山神社の境内を一旦外に出て本殿の裏側に回ったところに、「竈山墓」(かまやまのはか)という陵墓があります。

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鬱蒼としたその陵墓は円墳であると思われます。

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ここが五瀬を葬った墓と伝えられ、明治9年(1876年)に宮内省(現宮内庁)によって、神武天皇の兄「彦五瀬命」の陵墓に治定されました。

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五瀬を当地に葬った後、墓を守るため、彼の息子たちがこの地に残りました。
残ったのは少人数であったため、敵は攻撃しなかったと云うことです。

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息子の子孫は本来は当社の社家だったのでしょうが、やがて苗字が橋本に変わり、今はただの氏子になったそうです。
大元出版の「出雲と大和のあけぼの」の中に橋下氏が語る部分がありますが、それによると、五瀬の敵とは「高倉下」の子孫「珍彦」(ウズヒコ)だったと伝えています。
名草姫らを統括する紀伊国の王は、当時は珍彦だったということでしょう。
高倉下は物部に恨みを抱いていたものと思われます。
その物部に、珍彦と名草姫はまさに一矢報いたのです。

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五瀬の死の数日後、紀ノ川の対岸には、おびただしい数の磯城・大和王国軍が現れました。
五瀬に代わって指揮官となったウマシマジは、勢力を強化する必要があると考え、一旦船にもどり、南の潮岬をまわって紀伊半島の南岸、熊野浦の付近から上陸することにしました。
しかし彼らは、その道行においても厳しい攻撃にさらされるのです。

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