
福岡から佐賀にかけて点在する淀姫神社群をざっと思いつく範囲で巡ってみました。
過去に巡った関連する神社はこちらです。
武雄の淀姫神社
嬉野の豊玉姫神社
與止日女神社
與止日女神社奥宮


改めてグーグルマップで検索してみると、身近なところに淀姫神社がありました。
福岡市南区の塩原にある「淀姫稲荷社」です。

住宅街の奥まったところにポツンと鎮座。

由緒・祭神など一切不詳だとのこと。
稲荷社にも見えず、近くに那珂川が流れているあたりは、やはり豊系の神社ではなかろうかと思われますが、確信もなし。

すぐそばにあった熊野神社にも立ち寄りました。

奥に石祠が確認できます。

本殿裏にある立派な御神木が神体でしょうか。


那珂川を遡って「伏見神社」を訪ねます。
なぜなら祭神は「淀姫命」になるからです。

拝殿が新しく改築されていました。

当社に奉納されている数々の絵馬に圧巻です。

由緒では淀姫は神功皇后の姉で、干珠・満珠操って潮の干満を操り、神功皇后の戦を助けたと伝えています。
淀姫や豊姫がいたるところで、神功皇后の姉だとか妹だとか、武内宿禰の妻だとか伝えられていますが、それは些細なこと。

ここにも鯰の話が伝わっていました。
皇后が自分の馬の鞍に飛び乗ってきた魚をみて、それを「なまず」と名付けました。
戦に際しては皇后の軍船を無数の鯰の群れが取り囲み、水先案内をして戦勝したと云うことです。

これは鯰族、つまりは蒲池族がオキナガタラシ姫の作戦に参加した、ということでしょう。
かつ、淀姫は干珠満珠を操る一族、豊家の姫巫女だったのです。

ともあれ、蒲池族の勢力が那珂川にまであったことを当社は示しているものと思われます。



佐賀市富士町の上無津呂にある「淀姫神社」です。

すぐそばを清流が流れます。

境内入り口に、狛犬のように鎮座する二つの石。

二つとも、ちょっと爬虫類を想起させます。

祭神は「豊玉姫命」「玉依姫命」「高皇産霊神」「猿田彦命」「句句之智命」「保食神」「大山祇命」「新田義貞」「鎌倉景政」。

創建の年代は詳かではないが、文久3年(1863年)9月に1350年祭の執行があった記録があると云います。
これから推して6世紀前半「継体天皇」の御宇の勧請であろうと察せられています。

「正親町天皇の永禄4年(1561年)領主神代勝利、仝長良の父子兵を率いて川上に陣し、龍造寺氏と戦った。
戦いに敗れて此の地に走り来って救いを求めた。
社人賀村大和守舎種は神代父子を社内に匿くし、俄に村民を集めて、大祭の態をして、神楽を奏して居た。
追兵が来て、探索したけれども見付け出すことが出来ず、怒って火を放ったので社務所並に文書等はその時焼失したけれども社殿には及ぼないで、神代父子は無事にのがれることができた。
追兵が退いて後、神恩の大であることを謝して、即座に佩刀2振を奉った。
後神埼郡三瀬に帰城するや、田7町5反余を奉納して神代家鎮護の神と仰いだ。」
と由緒にあります。

明治6年(1873年)郷社に列せられ、祭神高皇産霊神外六柱の神は無格社合祀によって追加したとのこと。

つまり当社祭神は紛うことなき「豊玉姫命」と「玉依姫命」ということ。

社殿の右奥に、樹齢約280年のムクの木が見えます。

その根本には

馬の石像と、

ありました、鯰の像。

淀姫と豊玉姫、そして鯰の蒲池姫がここで微妙に交差しています。

随分内陸にありますが、単に龍宮の姫を祀ったにしては不自然です。

ここに祀られていたのは、親魏和王の豊玉女王だったのでしょう。

当社のすぐそばに吉村家住宅なるものがありました。

足を向けてみれば、なるほど趣のある古民家です。

年代が明らかな住宅としては県内で最古とのこと。

築年数は200年が経過しているようです。



さて今度は頑張って伊万里まで移動します。

伊万里の田園の中に建つ「淀姫神社」。

こちらも川沿いに鎮座しています。

鳥居の前には狛犬ではなく、なぜか狛鯱。

伊万里だけあって、さすがの陶器製ですが、盗難よけの金網が残念極まりなし。

当社は「河上社」または「河上宮」とも呼ばれています。

昔は「河上三社大明神」と呼ばれていましたが、明治5年の社格制定時に與止日女命を主神とすることから淀姫神社と改称されたとのことです。

祭神は「與止日女命」(よどひめのみこと)を主祭神とし、後代に「建御名方神」「菅原道真公」を合祀しています。

建御名方神は、今から千年以上前に合祀され、

当社は第29代欽明天皇の御代24年(563年)に鎮座したと伝えられています。

古くは「末羅県鎮守の霊場」と謳われ、松浦川の鎮守の神であったので「河上社」と呼ばれたようです。

『淀姫神社(河上大明神)由緒記』を見ると、「淀姫大明神は豊姫命と云い又の名を豊玉姫命とも云います。」とあります。
あとは「海神大綿津見の神の娘云々」と記紀にあるような紹介が続きます。

重要なことは、やはり淀姫は豊玉姫のことだと伝えられていたことでした。

佐賀の伊万里あたりは完全に物部の支配地でありましたが、そこに彼らの星神ではなく、いかに豊玉姫を祀った聖地が多いことか。

それはひとえに、邪馬台国の女王たる豊玉姫の人気ぶりを感じさせるものです。

本殿の方を覗いてみると、

いかにも女性的な、素敵な装飾が施されていました。

ところで当社には、面白い伝説がありました。

それは、化け物退治の物語です。

後朱雀天皇の御代・長久2年(1041年)、大川村・眉山に大きな岩があり、その下の何十丈あるか知れない深い穴の中に「獅鬼」という身の丈2丈余り(約6m)もある猛獣が棲んでいました。
獅鬼は里に出ては作物を荒らしたり、馬や牛を獲ったり、さらには人を喰い殺したりしたので、村人は夜も眠れない有り様でした。

村人はこの事を地頭へ訴えました。
この頃の地頭「渡辺源太夫久」(わたなべげんだゆうひさし)は武勇に優れた人で、その子「竈江三郎糺」(かまえさぶろうただす)らと共に獅鬼退治に出かけることになりました。

源太夫は大木の生い茂った中を真っ先に立ち陣太鼓を打ち鳴らして獅鬼を狩り立てましたが、二丈にあまる獅鬼の暴れ回る凄まじさはたとえ様もありません。
しだいに大風が起こり、空一面に霧がかかりはじめました。

木の根・岩を踏み荒らし、赤い眼を怒らせ、炎のような真っ赤な口から血のしたたりそうな舌を吐きながら人々に向かって来る姿は、身の毛もよだつ凄まじい猛牛でした。
村人もただ騒ぐばかりでそばへ近寄ろうとするものさえいません。
それでも源太夫は声をあらげて人々を励まし、懸命に狩り立てました。

そのとき、不思議にも社の扉が開き、白羽の矢が飛んで来て獅鬼の頭に命中しました。
獅鬼は山谷に轟く大声をあげてのた打ち回ってなんとも云えぬもの凄さです。
源太夫はこの時とばかりに村人と一斉に討ちかかり、とうとう獅鬼をたおしました。

これはまさしく神が矢を放ち、災いを退けなさったのだと考えた村人らは獅鬼の頭を社の近くに埋め、後代にこの事を伝え残しました。

この獅鬼の頭を矢で射ぬいたのは、当社祭神の一柱である諏訪大明神「建御名方」であると云われています。

さて、参道の中ほどにある石碑群に、とても興味深いものを見つけました。

この月形の石はもしやっ!

いや、なんと紛らわしいこれは「松尾芭蕉句碑」でした。
天保7年(1836年)丙申9月
春もやや 氣しき然と能ふ 月と梅

側面には俳人二十数名の名前が刻まれており、江戸時代の俳諧が盛んなころに、芭風を慕う人々が建立したものと思われています。
この句は、月光の艶と梅花のほころびで、春の気色が淡々としている様子を詠んだものといわれているそうです。

帰り際、つい見過ごしそうになりましたが、「牛神社」「埋牛塚」、または「うしがみさん」と呼ばれる塚があります。
これが獅鬼の頭が埋められた塚なのだそうです。
後に猛牛の災いで悪いことが続き、悪病が流行したので、5月の丑の日に「牛祭」を行うようになったとのこと。
獅鬼とは牛鬼だったのでしょうか?
そういえば鬼太郎で土蜘蛛のような姿で描かれる牛鬼ですが、水神の化身ともされます。
土蜘蛛族と豊玉姫も深いつながりがあるのですが、獅鬼とはあるいは、そうなのかもしれません。



佐賀県小城市三日月町にある「淀姫宮」です。

入口に立つ肥前鳥居は町内最古 元禄13年(1700年)建立だということです。
しかしそのほかの情報はほぼつかめていません。

どっしりと根をはる銀杏の御神木が印象的。

当地は古文書に「四方平地ニ連ナリ分寸ノ高低ナシ」とある平坦農耕地帯となっており、東西を川に挟まれた中洲のような地形となっています。

そのため、大雨による水害との苦闘を繰り返してきた歴史があるそうです。

実際に当社も流された過去があり、今の社殿は再建されたものだそうです。

ここに淀姫が祀られているのは、水神としての彼女の性質を重んじて、切実な祈りの結果であると言えるのかもしれません。



有明海をぐるり半周し、柳川の先、みやま市の江浦町にやってきました。

そこにも「淀姫神社」が鎮座します。

田園に囲まれたのどかな場所。

ノスタルジックな参道をてくてく歩きます。

石橋の先には侘びた神門。

今は水が枯れているように見えますが、かつては堀に水が満たされていたことでしょう。

祭神は、「豊玉毘賣命」と「天兒屋根命」「住吉三神」。

もはや検証するまでもありませんが、淀姫とは豊玉姫を祀ったものが、名を変えたのだと言えます。

これほど厚く信奉された、宇佐・豊王国の豊玉女王。
しかし彼らの子孫はその後、大いに栄えたものと、弾圧され続けたものに分かれることとなりました。

物部イニエ王と婚姻関係を結び、物部・宇佐連合王国となった両家は、ついに大和を目指して東征します。

しかしその途上で豊玉女王は病死。
残る子達、イクメと豊彦、豊姫らが意思を継ぐこととなります。

苦難の末、見事大和に王権を打ち立てたイクメと豊彦、しかしイクメは豊彦が疎ましく、王権を独り占めしたいと思ったのでしょう。

彼は豊彦を騙して東方討伐に向かわせ、そして大和から締め出したのです。
豊姫に至っては刺客を放ち、暗殺しています。

大和に偉大な女王の子らがいないことを知った当地の子孫たちはどう思ったか。
彼らのうちにふつふつと、物部王朝に対する怒りがこみ上げていったことは想像に難くありません。



みやま市山川町の山中にも「淀姫神社」がありました。

天空の神殿と呼ぶにふさわしい当社。

ここも祭神が「豊姫命」ということぐらいしか分かりません。

質素な社殿には、

すごく立派なシールドが装備されていました。

それにしても見事な景観。

あたり一帯はミカン畑になっていました。



さて山川町の淀姫神社のその奥に、「是善王宮」なるものがありました。

石段を登った先にある神社。

2本の木が、鳥居の代わりと言わんばかりにそびえています。

是善王宮の祭神は、言うまでもなく「菅原是善」、道真公のお父様です。

道真公とは縁深い僕、ここは素通りできませんでした。

しかし社殿といっても拝殿と本殿が一体になっており、神体を収納するスペースのあまりの薄さに驚きます。
マンション設置用の神棚みたい。

と背後を見れば、立派な磐座が。

ああ、なんと出雲的なことでしょう。

たぶんこの背後の磐座が御神体ですね。

それにしても何故このような場所に、是善が祀られているのかは不明です。
豊家と関係があった、と言うことはないと思うのですが。


