兵主大社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 08

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大和で勢力を強める物部勢は、執拗に大彦軍を攻め続けた。
大彦は三島の地を離れ、琵琶湖東南岸に移住することを決意した。

そこは野洲と呼ばれていた。
彼は大型の銅鐸を作り、友好国に配って銅鐸祭祀を広めていった。
大彦は和国大乱の時代の数十年間、この野洲の地で王国を維持し、物部勢に対抗したという。
彼は磯城王家の神を敬ったので、その近辺には後に兵主神社が建てられた。

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滋賀県野洲市五条にある「兵主大社」(ひょうずたいしゃ)を訪ねました。

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整えられた松林の参道を進むと、左手に折れて本殿に向かいます。

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紅い鳥居の先にあるのは見事な楼門。

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当社の正式名称は「兵主神社」だそうですが、一般的には「兵主大社」の名前で親しまれています。
楼門も大社を冠するにふさわしいものです。

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「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社ほどあるようですが、名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみとのこと。
いわばこの三社が三大兵主といったところでしょうか。

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社伝『兵主大明神縁起』によると、「景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市穴太)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して養老2年(718年)、現在地に社殿を造営し鎮座した」と伝えています。

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楼門を潜ってすぐ右手に「稲背入彦」を祀る「乙殿神社」が鎮座していました。

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さてこの稲背入彦、景行天皇の皇子ということは、物部族の者ということになります。
景行帝にせよ、稲背入彦にせよ、彼らが穴師坐兵主神社に出雲の神を祀ったというのは俄かに信じ難く、さらに当地にまで遷座させたというのはあり得ないことです。

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大彦は笛吹村の尾張家の人間でもありました。
富家の話では穴師坐兵主神社は尾張家が建てたのだと云い、当地の兵主大社を大彦を慕う者たちが建てたのだとすると納得がいきます。

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つまりこの乙殿神社に本来祀られる人物は、景行帝の皇子などではなく、大彦の子孫であると思われます。

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乙殿神社の横には、出雲富家の当主・野見宿禰の子孫である「菅原道真」が祀られていました。

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再び参道に戻り、本殿を目指します。

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中世には、「兵主」が「つわものぬし」と読むことができるため、武士の厚い信仰を得たと云われています。

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あの立派な楼門は足利尊氏の造営であり、源頼朝も神宝を寄進した記録が残されていました。

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神紋は特殊で、亀甲に鹿の角が施されています。
主祭神は「八千矛神」(大国主神)であり、配祀神は「手名椎神」と「足名椎神」。

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八千矛神とは言わずと知れた出雲王国八代目大名持(主王)の名前です。
八代目少名彦(副王)が八重波津身(事代主)でした。

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ここで一つ疑問が起きます。
八千矛は西出雲王国・郷戸家(ごうどけ)の当主でした。
大彦は東出雲王国・富家の当主、八重波津身の子孫であることに誇りを持っていました。

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確かに八千矛は出雲全体で慕われた、偉大な王ではありましたが、大彦が当地で祀るとしたら、それは八重波津身・事代主であったろうと思うのです。

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しかし実際には、当地に兵主大社を建てたのは大彦ではなく、彼の子孫であると考えられます。
とするのなら、この八千矛神に相当する本来の神は大彦だったのでなはいでしょうか。

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兵主大社には平安時代後期の作といわれる見事な庭園がありました。

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3万4千㎡ある境内のうち、約2万2千㎡の広さを、この庭園が占めています。

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庭園には水が引き込まれており、見事な景観を作り出しています。

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この兵主大社の庭は、平安時代のものであると言われ、とても貴重な庭園です。

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庭園の裏手は深い杜になっており、樹勢も見事。

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本殿の東側には舟入水路跡がありました。

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これは寛永19年(1642年)の本殿改築の際に、資材搬入用に掘られた、人口の水路だそうです。

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舟入水路跡から少し離れたところに、ひっそりと石のようなものが祀られています。

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これは「鹿塚」と呼ばれ、明治31年に建立されました。
兵主大明神縁起によると、祭神の大己貴命は養老2年(718年)に不動明王の姿をかりて琵琶湖の対岸、穴太より八崎浦に上陸されたと記されています。
この時、祭神は白蛇に化身し、大亀が白蛇を背に乗せて湖上を進み、鹿が八崎浦より五条の鎮座地まで白蛇を護り運んだと伝えられ、この伝承を顕彰する為に鹿塚として建立されたのだそうです。

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この鹿塚は平成7年に字小森立の田地の中にあったものを移築したそうで、「亀塚」は野田の西側、字西浦の地に木村定八家の人々により守り継承されているそうです。
この神使の亀と鹿は、当社の社紋にも反映されています。

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この広大な庭園からは、古代の祭祀用の土器も出土しています。

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琵琶湖東南岸に遷都した大彦は、当地でも出雲式の銅鐸の祭祀を広めました。
彼はそれまでの小型でつり下げて鳴らすことを前提とした「聞く銅鐸」に対して、大型の「見る銅鐸」を作りました。
物部式の銅鏡の祭祀が広がりを見せる中、より銅鐸を強調させる目的があったのかもしれません。

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この大型の銅鐸は、「突線鈕式銅鐸」(とっせんちゅうしきどうたく)と呼ばれ、製作は土の鋳型が使われました。

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突線鈕式銅鐸とは「吊手」(鈕)の部分が薄く作られ、細い突線でかぎ形の区画線が表されるのが特徴であり、視覚的な効果を意識したものでした。

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突線鈕式銅鐸には「近畿式」と「三遠式」と呼ばれる型式があり、近畿式は近江地方で作られ、三遠式は東海地方で作られたものと考えられています。
富家では近畿式は大彦勢がつくり、三遠式はヌナカワワケ勢がつくったものと伝えられていました。

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近畿式には、鉦の部分に双頭渦文の飾り耳がついていることが多く、渦の文様はサイノカミ信仰を表すものでした。
このとてもわかりやすい図柄は、「古代屋おもち」さんからお借りしました。
古代屋おもちさんでは、他にも古代祭祀具などのわかりやすい解説がなされていて、とてもおすすめです。

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近畿式銅鐸は、旧領地の伊賀国からも見つかっています。
さらに大彦は、東海地方に進出したヌナカワワケ勢とも連絡を取り合っていたようで、お互いの銅鐸を交換した痕跡も見受けられます。
大彦は野洲の王国で、この見事な銅鐸を作り、友好国に配って和国大乱の時代の十数年間勢力を維持しました。
記紀に長髄彦の名を刻ませたように、彼は王家の意地を、物部勢に見せつけたのです。

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8件のコメント 追加

  1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    はじめまして。

    日野が砂鉄用語と貴重な情報ありがとうございます。うちの近所を流れる一級河川、日野川。日野郡にある金持神社。

    「金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた「玉鋼」の産地で、原料の真砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されているように、鉄(てつ)のことを金(かね)と読んでいた事から、金の採れる谷を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。」との記事を見つけました。奥日野は奥出雲に繋がりたたら製鉄が有名なところ。

    なるほど、全国に散らばる日野は火野、納得致しましたm(__)m

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  2. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

    ささが製鉄用語なのは知っていましたが、日野は知りませんでした。僕も知らない事だらけです。

    いいね: 1人

  3. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    再び失礼致しますm(__)m

    ニギハヤヒ=徐福という富家口伝のベースと記紀でいうところのニギハヤヒは全くの別物で、そこを切り離して考えないと、何か口伝と違う流れで矛盾点が出てくると、各地の伝承や記紀のストーリーの方は全てデタラメと切り捨ててしまっていた自分に気づきました。

    そこで、紀でいうところの、長年慕って仕えていたニギハヤヒに裏切られ、バッサリ切って捨てられてしまう大和の長髄彦のストーリー。ここでいうニギハヤヒとは、どの勢力のことを指すのだろうと、浅い知識のピースを手繰り寄せて考えてみました。

    そしたら、鉄の鉱脈を求めて出雲勢を滅ぼした考霊ことフトニとその息子たちが頭に浮かびました。

    フトニと近江はあまり結びつかないと思われるかもしれません。また、出雲口伝での、大彦とフトニの移動時期、移動ルートが多少前後するのですが、このように考えてみました。

    大和を追われた大彦勢が三重→摂津から近江へたどり着き野洲で王国を築いていた前後。三上山に降臨したとされる天一箇目神(天之御影?)は鉄に関係する神名なので、これは考霊ことフトニ大王のことを指してたら面白いなあと思いました。近江の伊勢遺跡、再び攻めてきた物部。戦う大彦勢、埋められた銅鐸、大彦に味方せずに但馬→吉備→出雲へ向かい攻めるフトニ。これは口伝にはありませんがひょっとしたら物部と示し合わせて大彦を裏切った?そして琵琶湖周辺に味方軍を待機させて摂津経由で富家に援軍を求めて出雲へ向かった大彦。富家の援軍の余裕がない事情から北陸の豪族を紹介されてそっちへ向かう、という流れ。。若しくは、三重から摂津→近江という大彦移動ルートを考えると、その間大和にずっとフトニがいたのではなくて、物部来そうだから先にフトニは近江に移動していた線もあるかもで。。

    要するに。。三上山の大百足とは、大彦軍の出雲族を指している可能性もあるのではないでしょうか。(もともとそこにあった古い伝承をもとに作られた後世の物語的な)

    フトニが但馬で田道間守を追い出してからの→吉備から出雲を攻めた時期は、近江の後。大和〜近江で大彦を裏切った。。物部の東征直前、大和にいたときから既に両者は別の道を歩もうとしていて、互いに戦ったわけではないけれど、

    吉備系海部=フトニ VS 出雲系海部=大彦 

    血脈的には磯城王朝も薄くなり海部もこの頃には尾張とに複雑に分かれているのでしょうが、近江を舞台に、このように身内で敵味方に分かれていったことの暗示が、三上山の伝承と記紀のニギハヤヒと長髄彦との関係性に隠されてるのではないかと思うようになりました。

    この線でいくと、大彦はおじいちゃんに裏切られたことになる🤔 ツッコミどころとしては、書紀のストーリーに沿うと、自分の妹を自分のおじいちゃんに嫁がせたことになるから🤔無理がありますけど(^_^;)

    ニギハヤヒ=徐福なので、これは絶対にたどり着かないトンデモ構図ですが、記紀に描かれてるニギハヤヒと富家口伝のニギハヤヒの正体が同じでなくても、もともとフェイク&ダミー的要素だらけの記紀にとっては一向に構わないわけですから。そもそもこの頃には徐福はすでに他界しており大和入りはしてないはずですし。

    逆に、こうも考えられないでしょうか。書紀は、大和にいるはずのないニギハヤヒを存在させてチグハグだけど、そこに暗喩として視点をフォーカスさせようとしてるんじゃないかととってもいいわけで。。。。つまりは、記紀のこの部分は、物部と海部の祖が実は同じだよーということと、身内であるフトニは出雲を裏切ったんだよーということを伝えてるのかなあと思ったりもします。

    近江がその記紀でいうところの舞台だとしてもおかしくないのかなあと思いましたが、年代的にはどうなのでしょうか。私は年代考証がかなりヤバいくらい疎いです。

    考霊の治世だとしてもおかしくない年代だと思うのですが。。色んな方向から辻褄を合わせようとしてるだけかもそれません。五条先生的には恐らくこれは、かな〜り素っ頓狂な感じなのでしょうね(^_^;) いつかご意見を伺ってみたいところです。今、とりかかっておられるテーマとフィールドワークが落ち着かれてからで全然、一向に構いません。というか、こんな与太話に付き合わせてしまい恐縮です。

    とりあえず、伊勢遺跡見学してみます。。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      スサノオや饒速日は、彼の子孫にその名を被せて伝えているところがありますね。

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      1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

        確かに、フトニが天目一箇神は飛躍しすぎですかね。大彦は笛吹村の尾張の血を引きますし。野洲で物部と戦った大彦勢。伊勢遺跡が元々は大彦たちが祭祀をしていた場所なのではないかなあと思うあまりです。

        勝部神社とか、後から戦利品ならぬ、戦利社のように祀られたお社からもわかるように、大彦勢力が消し去られ、大百足の伝承は、その戦いのことを比喩してるのではないかとどうしても思ってしまいます。

        いずれにせよ、琵琶湖東南部は、大彦勢が数十年と長いスパンで居を構え王国を築いていた可能性があるのならば、御神体である三上山や御上神社、兵主大社に大彦の痕跡が少しでも残っていて欲しいものです。こちらに祀られている八千矛さまを、大彦の子孫が祀ったから大彦のことかもしれないという気持ちで、もうすぐお参りに行ってきます。また、雨予報です(T_T)

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  4. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    五条先生が、数ある近江のお社の中で、恐らく藤ヶ崎龍神社が気になっておられるような気が私もなぜかしていました。

    三上山に神が天下った頃より三上山に大百足が棲むようになった

    藤ヶ崎龍神社にある俵藤太の大百足の伝承の大ムカデとは何をさすのかがずっと気になってました。俵藤太は藤原の系統なので、敗者にされた大百足が、三上山や大岩山に関係が深い大彦のことを、時代はかなり違えど暗示しているとしたら。。という嫌な予感がしつつも、場所が場所だけに気になるところです。

    三上山に天下った神が龍王で、それは御上神社の社記によると、孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨したとありましたよね。どうやら三上山に天下った神=天之御影神=天一箇目神=三上山の鉄の鉱脈を表し、この神と大百足の関係性が変な感じに思えます。この龍を祀る藤ヶ崎龍神社の伝承の大蛇(龍?)と三上山の龍王が同じ? ワケがわかりませんが、私には何か龍VS百足が同じルーツを持つ身内同士の争いに見えなくもないとなんだか思えてきくるのです。。

    俵藤太が藤原系なのも、どうも引っかかり、そこに大彦が絡むのか、いや絡まないのかで、個人的にはこの神社の立ち位置が悩ましいところてす。(立ち位置なんて。。。神聖なお社に対して失礼な物言いをしたいのではなくて、上手く言えないんですが。。。龍はどっちなんだ?という感覚てす(出雲口伝ファンの方にはわかって頂けるのかと(笑))

    ともあれ絶景。なんとも美しい神社ですね。湖畔に面した鳥居とは相反する龍宮、龍穴は物々しく、何か陰陽を感じます。琵琶湖の湖畔、聖域であることは間違いなく。

    近々伊勢遺跡に寄る予定ですが、大岩山に大彦が埋めたのかもしれない、見る銅鐸24個と伊勢遺跡の祭祀跡の円周に謎の24棟ある神殿?みたいなのが、ここで大彦についていた豪族たちの数なのかなとか妄想したら、ここは大彦が治めていた拠点=王国で銅鐸で祀った巨大な祭祀場に見えてくるかもです。しかし識者の一説によると、ここは物部と関係が深く、突然衰退した後に纏向に移動した形跡があるとの記述もどこかで読みました。

    野洲で物部と戦った大彦がここを拠点にしたことは間違いないので、この兵主神社、御上神社、藤ヶ崎龍神社のライン、三上山の麓の伊勢遺跡、その先にある沙沙貴神社は、大彦の軌跡を辿る上でたまりませんご。。。なにせ由緒が何もなく、架空であるかように消されているので、口伝頼りなのが、辛いところですね。。

    近江は淡海で王海。真の王と呼びたいくらいの大彦。最近よく思うのですが、近江と遠江。この国の旧名は、大彦と息子の関係をまるで表しているようですね。

    いいね: 1人

  5. 不明 のアバター 匿名 より:

    おはようございます。この近くにある藤ヶ崎龍神社。かなり気になる神社です。龍穴が2つあって白い砂利が敷かれてる方、不思議です。遠く対岸には白髭神社。何か意味がありそうです。大瀧神社のアップありがとうございます。これから行ってみようと思います。

    出芽のSUETSUGUでした。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      藤ヶ崎龍神社は僕も気になっています。
      でもなかなか行く機会が訪れなくて。

      いいね

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