
新潟県西蒲原郡の弥彦村にある越後国一宮「彌彦神社」(いやひこじんじゃ)を訪ねました。
ミステリアスな当社の秘密を探ってみたいと思います。

矢作駅近くに一際目立つ、朱色の大鳥居が立っています。
昭和57年(1982年)の建立で高さ30m、建立当時は日本一でした。

その背後にはなだらかな傾斜が美しい、彌彦神社の神体山「弥彦山」(やひこやま)が聳えます。

弥彦山麓の彌彦神社表参道にやってきました。

こちらの鳥居が、一の鳥居になります。

高さ約8.4m、稚児柱支え建てのこの鳥居をよく見てみると、

真ん中の親柱が地に着かず、6cmほどの浮いて見えます。

これは雪による浸食を防ぐためのものであり、豪雪地帯ならではの工夫です。

一の鳥居から少し参道を歩き進めると、御手洗川(みたらしがわ)が横切るように流れています。
参道に流れる小川は禊場の役割を果たしていますが、実際に川に降りられるよう階段が設けられていました。

御手洗川の川上を見ると、赤い橋が架かっています。

これは「玉の橋」(たまのはし)と呼ばれる御神橋(ごしんきょう)で、“神様の渡る神聖な橋”として造られ、人は決して渡ることはできません。

参道は鬱蒼とした社叢が取り囲み、

マイナスイオンに満ちています。

心地よい道をのんびり歩いていきます。

境内には様々な種類の鶏を飼育する鶏舎や、

広々とした鹿苑もありました。


札所前の広場に出ました。

少し奥まったところに「火の玉石」があります。
石を持ち上げて、軽く感じれば「成就」、重ければ「むずかしい」というやつです。

井戸のようなものの奥には、

石油蒸留釜が展示されています。
この釜は明治17年(1884年)頃、新潟出身の田代虎次郎により考案された「二十石蒸留釜」と呼ばれるわが国最初の石油精製装置だそうです。
当社は石油産業の守護神であるとも伝えられています。

天に逆立てたフォークのような「御神木」は、社伝によれば祭神が携えた杖を地にさし「この地方が私の永住するにふさわしい所なら、根を生じ芽を出し繁茂するであろう」と言い、その言葉どおり見事に生育されたものと伝えられます。

これより先は、さらに神気が濃くなっています。

ここで忘れず、手口を清めておきたいもの。



小高い杜の木が林立し、ぐっと霊圧を感じます。

神馬舎の裏手には、謎の祠が。

さらに進むと厳かな雰囲気の摂社・末社群があります。

摂社は彌彦神社の神様の子孫を祀った神社、末社はそれ以外の神様を祀った神社です。

「武呉神社」(たけくれじんじゃ)祭神:第1嗣 天五田根命(あめのいつたねのみこと)
「草薙神社」(くさなぎじんじゃ)祭神:第3嗣 天戸国命(あめのとくにのみこと)
「今山神社」(いまやまじんじゃ)祭神:第4嗣 建筒草命(たけつつくさのみこと)

「勝神社」(すぐるじんじゃ)祭神:第5嗣 建田背命(たけたせのみこと)

「乙子神社」(おとごじんじゃ)祭神:第6嗣 建諸隅命(たけもろずみのみこと)
以上の摂社と、

「二十二所社」(にじゅうにしょしゃ):近畿周辺の著名二十二ヶ所の大神を祀る
「八所神社」(はっしょじんじゃ):京都以東の著名八ヶ所の大神を祀る

「十柱神社」(とはしらじんじゃ):大己貴神(おおなむちのかみ)と大地・水・山・海・土など国土の安全を守護する十柱の大神を祀る(国重要文化財)

の末社からなります。

拝殿に続く最後の門「随神門」(ずいじんもん)の手前には、

名工、酒井八右衛門作の狛犬が鎮座しますが、これらは平成10年9月に国の登録有形文化財に登録された名品です。



神域に足を踏み込みます。
深い杜から解放された、スカッとした空間が広がります。

越後平野西部、標高634mの「弥彦山」を神体山として祀る神社。
『万葉集』にも歌われる古社であり、武人からも崇敬され、「志田大太刀」(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などの所縁と伝えられる武具などが社宝として奉納されています。

宮中同様に鎮魂祭を行う神社として、石上神宮・物部神社と共に有名であり、二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に多くの人で賑わいます。

祭神は「天香山命」 (アメノカゴヤマノミコト)。
「天香語山命」「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称されます。
参拝は「2礼4拍手1礼」で行う特殊な形式であり、当社の他には出雲大社・宇佐神宮と、同じく謎多き神社で用いられています。

当社は弥彦山頂にある奥の宮が「御神廟」にあたるとされており、山頂付近までロープウェイで登ることができます。
ではさっそく登拝してみたいと思います。

本殿を左手に出ると、ロープウェイ乗り場までの無料シャトルバスが運行しています。

ロープウェイは「うみひこ」「やまひこ」の2台で、15分間隔で運行しています。

ネーミングは神話の「海幸彦」「山幸彦」がモチーフでしょう。

ロープウェイにはガイドのお姉さんが1人付き、見下ろす景色を指しながら解説をしてくれます。

駅を降りて、山頂にあるという彌彦神社奥宮「御神廟」を目指します。

目指す先には無骨なNHKの電波塔多数。
もうちょっと場所を考えればいいのに、風情の分からぬ輩です。

弥彦山ロープウェイ山頂駅から徒歩10分とは言いますが、なかなかの道のりです。
ひたすら登り道を歩いて行かなくてはなりません。

御神廟に鎮まられるのは、彌彦神社の祭神と同じ「天香山命」、それと妃神「熟穂屋姫命」(ウマシホヤヒメノミコト)と云われています。
古代出雲王家の末裔「富家」の伝承によると、天香山は、渡来人「徐福」と出雲王「大国主」の娘「高照姫」の間に生まれたと伝えられます。
そして穂屋姫は「徐福」と「市杵島姫」の間に生まれた娘であり、九州物部族の祖「彦火火出見」(彦穂屋出見)を兄に持ちます。
つまり天香山は異母同父の妹と結婚したのでした。
そして二人の間に生まれるのが初代大和大王「天村雲」となります。

また彌彦神社の祭神「天香山」は「高倉下」(タカクラジ)であるとする説があります。
これは祭神を「大屋彦命」であると主張する説と同じものだと思われます。
高倉下とは天香山と最初の后、出雲王家アジスキタカヒコの娘「大屋姫」の間に生まれた息子でした。
大屋姫の息子だから彼は「大屋彦」と呼ばれたのだと思われます。
そして大屋姫は、夫・天香山が穂屋姫を寵愛するので、大和を捨て息子の高倉下とともに紀伊国(和歌山)へ移住するのです。
つまり天香山=高倉下ではあり得ず、それどころか高倉下は父・天香山に恨みを抱いていた可能性さえあります。

天香山は出雲の西部で生まれました。
彼の最初の名は「五十猛」(イソタケ)です。
やがて五十猛は、徐福とともに渡来した一族を引き連れて丹波(現丹後)の宮津に一大王国を築きます。
そこで彼は名を香語山と改めるのです。

天香山らの一族は、宮津にあっては「海家」「海部家」と呼ばれ、大和に移っては「尾張家」と呼ばれました。
そこで疑問が湧くのですが、海部家や尾張家の祖神である天香山命が、何ゆえ越後に祀られるのか。
これはあまりに不自然なことなのです。

身体中から汗を噴き出させ、最後の階段を登りきると、

ようやくたどり着きました。
この先の丘に登ると、

そこに御神廟があります。

まるで小さな墳丘を祀ったかのような佇まい。
しかし後ろにはやはり、不恰好な電波塔が突き出ています。

眼下の景色は最高です。

新潟は本当に日本の穀倉地帯だということが分かります。

当社の真の祭神が天香山ではないとしたら、一体誰なのか。

それを、北陸の国造家高橋氏の祖神「大彦命」ではないかとする説があると云います。

大彦は又の名を「中曽大根彦」と言い、記紀に神武天皇の東征に最後まで抗った「長髄彦」(ナガスネヒコ)として描かれています。

彼は出雲王家の血を引いていることに誇りを感じ、当時大和に勢力を伸ばしつつあった物部族を毛嫌いしていました。
大彦勢と物部勢は大和で、熾烈な争いを繰り広げましたが、結果大彦勢の方が劣勢となり、彼らは越国(新潟)へ退避することを余儀なくされました。

大彦は長野市篠ノ井布施で亡くなり、そこで葬られていますので、当地が彼の御陵であることはあり得ません。
が、彼の子孫は新潟中に勢力を伸ばしていましたので、ここに祖神を祀ったということは、十分に考え得ることなのです。

もう一度、御神廟をなんとがゴミが写らないように、アングルに苦心したものがこれです。
やはり聖地に、無骨な現代の人工物は野暮というものです。



当社は元は「伊夜日子神社」と表記されたものが「彌彦神社」となりましたが、今では「弥彦神社」と表記されることも多いです。
読みも「いやひこ」が正しいのですが、弥彦山など関連する地名が全て「やひこ」と読む関係で、「やひこじんじゃ」とも呼ばれるようになっています。

伊夜日子大神は越国開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築いたと云います。
また「弥彦の神」が片目で「海を渡って野積の海岸に上陸し、越後を開拓した」との伝承があるそうです。
片目の神は蹈鞴(たたら)などによる製鉄に深く関連する神とされていて、製鉄と関連付けられる「酒呑童子」の生まれが弥彦山というのも意味深です。
支那秦国の血を引く物部族は、まつろわぬ敵を蔑称で「鬼」や「土蜘蛛」と呼んでいました。
物部・大和王朝にとって、越国に住まう輩は鬼だとレッテルを貼られ、酒呑童子の物語が生まれたのかもしれません。

古代の蹈鞴の神となれば、それは出雲族の神であると説明づけることは可能かもしれません。
しかしその神が大彦であるか、といえば、それだけでは根拠に薄いように思います。
そもそも当地は天香山、大彦以前から、越国(こしのくに)として出雲と親交の深い国でした。
元来、弥彦山には出雲のクナトの神、もしくは製鉄の神が祀られていたのではないでしょうか。
それを後に祭神を変えるとなった時、大和の権勢に圧されて海家の天香山を祀ったのか、出雲好きな大彦を祀ったのかは定かではありません。

山頂を下ってきて、ロープウェイ乗り場までやってきました。
そこは山頂公園になっています。

ここへは弥彦山スカイラインからもアクセスできるようになっており、大展望のパノラマタワーや展望レストランなどが設営されています。

遠く海原を見渡せば、金山(銀山)として有名な佐渡島がぽっかり浮かんでいました。



再び笑
どうしても弥彦神社が気になっちゃうのです。大彦繋がりで。
大彦の御子である武沼河別が、沼河から別れた、と名前にあるのも、建御名方の5世孫だとしたら。。納得です。色んな系図を鵜呑みにするのも何ですが本軸の富家伝承と一致しつつも、この可能性もないか、と探ってみたら、私の中で武沼河別は東海王、大彦は越〜諏訪王というイメージになりました。
しかし、なぜ大彦勢は物部勢にどこへ逃げても追われていたのでしょうか。口伝にある、大彦は「物部の鏡祭祀を嫌い、銅鐸祭祀を守るため」というVS物部勢になったこの理由は大彦サイドや出雲王家視点の話であって、物部サイドが大彦を攻め続けた理由は、大彦が滋賀の野洲や守山あたり伊勢遺跡に王として君臨(伊勢遺跡は行ってみてやはりここは物部勢が来る前に大彦が統べていた年代と合うのではと思いました。富士林先生の書かれてる可能性に真実味を感じました。物部勢は制圧したあとに、「勝」という名のつく神社があることが多く、伊勢遺跡周辺にもあります。それはその前に別の勢力が統べていたという証?)大彦と武沼河別は、伊勢遺跡のあたりで、各豪族と祭祀や政治の話し合いをし、丹後丹波の海部(後の尾張氏)と手を組んで朝鮮半島の伽耶から独自に鉄交易ルートを確保していたと思えるのです。(都怒我阿羅斯等や天之日矛の子孫のことが絡みますけど、それはより長くなるのでここでは割愛)
そしてその鉄は新潟の弥彦山近く、長岡市周辺の合清水製鉄跡、谷地製鉄跡、金谷河内製鉄跡、この辺りで製鉄をしていた可能性はないですかね。。現在、弥彦神社の主祭神は天香久山となっていますが、五十猛の子孫、海部氏後の尾張氏(大和の高尾張邑の笛吹連の子孫たちから派生?)と手を組み、彼らの製鉄技術を守るために軍事力でバックアップし近江、北陸一帯を統べていた大彦が真の祭神なのを隠す必要が、不比等にはあったのだとしたら。日本書紀で物部氏がよくわからなくなってる理由の一つに、尾張氏や宿敵蘇我氏を徹底的にぼやかしたいからとか。。。違うかなあ。
あくまで仮設ですが、もし大彦がこのような独自ルートを確保して率いていたのならば、一番困るのは北九州→吉備ルートかもしれません。大彦は出雲王家寄りだったので。鉄確保が急に北九州&吉備に流れなくなったら困る。ですが出雲自体はその頃は一枚岩ではなかったので、大彦の出方次第では困ったのではないかと。北九州筑紫との関係性、吉備とも友好関係に元はあったので。そしてその時のヤマトの立ち位置は様子見だったのかもしれません。大彦が味方要請のために出雲や倉吉に立ち寄った際に、冨家から北陸の豪族を紹介してもらった、今後は冨と名乗らないようにと念を押された。。この意味はなんだろうと考えました。もしかすると大彦が今後の鉄資源交易の構想を冨家に話したからこそ、そこで北陸の豪族を紹介したが、出雲が攻められてもいけないからというニュアンスになったのならばなんとなくわかります。大彦と手をくんでいないことを表向きにしとかないといけないので。アメリカや中国、ロシア、いまも昔も石油資源や天然ガス資源の確保のために戦争は終わらない。古代もそうで、もちろん祭祀方法の違いも大きかったでしょうが、物部は特にモノ、工具や武器にも精霊や魂が宿るとした一族なのでその材料である鉄や製鉄技術は物部にとっては死守すべき十神の宝なのでしょう。特に北九州はいち早く新羅から鉄を確保して出雲や吉備に流していた、となるとヤマトに出雲族寄りの大彦が君臨して、海部&大彦のルートから鉄資源を確保されたら困る、そこに彼等が出雲両王家にも鉄を流しヤマトを拠点に集結し、東海や関東、北へとどんどん勢力が広がっていく。当然、魏国もそちらを重んじていく。
となると一番困るのは、吉備勢と北九州筑紫勢。両勢は手を組まざるを得なかったのではないかと。始めは吉備や北九州も友好感にあった出雲王家は播磨も田道間守や裏切り親戚フトニから奪われ越国とも分断されてる状態で、どちらにつけばいいのか、両王家ともに一枚岩でいられるほど軍事力も厳しい。南部町や日野江府での激戦。本当に辛かっただろうなと想像してしまいます。
隠岐の島を望む島根半島と、佐渡島を望む新潟〜福井までの海岸通りはとても似ている。宗像〜島根半島〜越前越後能登半島 翡翠や鉄の古来からの交易ルート。それはオミツヌの頃からでしょう。天香語山命を祖とする海部尾張氏の先祖は、丹波丹後が独自に伽耶から得た鉄を加工し琵琶湖を活用して近江→東海へ。大彦は北陸→諏訪ルートに流通させ、そこからだんだんと大彦は北へ武沼河別は東へ勢力を伸ばし、阿伊奴ことアイヌの協力を得て日高見国=狗奴国となっていく。。そりや東日本にこのような独自ネットワークがあれば、ヤマトに朝貢しなくなるでしょう。朝貢するメリットがあまりない。そのうちまつろわぬ民、蝦夷と呼ばれて征伐しようにも強くて強くて。。
尾張氏って面白いです。 コレまた一枚岩ではなかったはずで。。高倉下との関係性もどうなんでしょう。
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出芽のUETSGUです。。が、最近WordPressでブログ準備してるせいか、名前出てこなくなりました(TOT)
気を取り直して。。。
福井県の舟津神社足羽神社等も、大彦の足取りがよく残っていますよね。これまた三九郎さまでしたか、足羽=阿蘇+諏訪、そして阿須波神とは面白いですね。新潟には鉄加工、保管場所があったのでぼやかされ上書きされてる神社が多いのかと。古代史本の受け売りですが、大巳貴命が佐渡島にわたるとき、海亀や魚が佐(たすけ)て渡った島から佐渡島となったらしいです。
去年愛知県を廻って、尾張氏って不思議な存在だなあと改めて思いました。豊田市にある猿投山麓の猿投神社といえば、富家伝承によると富士林先生の本にもありましたが、建沼河別命と猿田彦が関係しており、この辺りは武沼河別が大彦と分かれた後に遠江式銅鐸祭祀を行っていたであろう場所。コメント欄で三九郎さまもコメントされておられましたが、私も兼ねてから、建沼河別=会知速男命?の線はアリなのかなあと。会知→愛知→東海王→尾張氏的な考察がしばらく脳内グルグルしていました。恐らく建御名方の5世孫?建御名方神ー伊豆早雄命ー八縣宿祢ー建志名乃命ー武美名別命ー八重隈根命ー弟足男命ー加禰足彦命ー武沼河命ー会知速雄命ー真曽我男命ー…。伊豆早雄命は建御名方と同一神ではないかと思っています。会知=愛知。
そもそも、建御名方の母である沼河姫の実母は宗像三神である神屋楯比女=刺国若比売(五条先生も恐らく。。と以前考察されてました)そして沼河姫の母である黒姫(諏訪)それって実は田心姫(能登半島の伝承からは多岐都比売命ではないと思う)の可能性があるとしたら。。事代主と沼河姫は異父兄妹?ん?結婚できる??
実母の沼河姫の母が宗像三神の1人ならば、建御名方は建宗像と呼ばれてもいいでしょう。私は建御名方が武宗像であること。そして櫛御名方(クシヒカタ)と武御名方。櫛がつくのは呪術祭祀的要素、武がつくのは軍事力的要素として対になっていると今でも思っています。クシ=古志ととることもできないでしょうか。出雲郷の揖夜神社に建御名方がひっそりと祀られているのも納得ですし、何かあってもおかしくないですね。あ、恐れ多くも例のやつね😏 前職場で出土されたスゴイ神器と絡めて小説にでもなりそうな展開てすけど、そおっと蓋をしておきましょうかね。
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WordPressへようこそ😊
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こんにちは。職場が境港に変わってから地震があるとビクビクします。弓ヶ浜半島はここのブログを読まれてる方はみなさんよくご存知のように、元々は海でしたから砂地で地盤が弱く、学校グラウンド等も掘ると水が出てきます。液状化も怖い。。結構今日は揺れましたね。水道も茶色いの出たし(TOT)上道神社大丈夫かな。。
ところで、最近気になりブログを始めようかと年末年始に一気に書きまくってるのが、島根半島発→北陸の出雲系神社や伝承(ストック写真が揃ったのに公開ボタン押せずにウジウジ、ここ地元だし身バレも嫌だしちゃんと北陸行かねばとかって笑)
そうこうしてるうちに
目にとまったのが
奈鹿曾彦神社
石川県鹿島郡中能登町曽祢ヌ75
近くに
鎌宮諏訪神社⛩️ 鎌宮!!
長曾川が流れています。
そして羽咋には
奈鹿曾姫神社
どうにもこうにも。。。
中曽大根彦
私的には
中曽尾根彦(尾張っぽいし)
また、新潟佐渡島は昔から金銀取れていて要所。その対岸には石井神社があり本宮の十二株山には神屋敷と呼ばれる大巳貴命の伝承がありました。弥彦神社へ行く際にここを失念していたのは悔やまれます。熊が怖くて怖くて。。
新潟の出雲崎、ここら辺りにも実は大彦?を感じます。「雲を原郷とする人たち」岡本先生の本をよくよく読んでいくと、気になる出雲系神社がてんこ盛りでフィールドワークに助かります☺
上記の神社、ナカソオネヒコとも読み取れるこの神社、五条先生は行かれてましたでしょうか。
確かコメント欄でもまだ見つけてません。(全部読めてないのであったらスミマセン、探してみます)
これ、なんか名前、それっぽくないですか?
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まずはご無事で何よりでした。
余震もありますので、ご注意ください。
奈鹿曾彦神社は未訪問ですが、能登と出雲崎は、いずれ行きたいと考えていましたので、良い情報でした。
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narisawa110
弓削部稚彦命さんはwikiにも出ている通り、日本書紀には後年に部民姓を貰っており、遡って書かれているそうでこの辺の扱いも物部氏と同じなんですね。
整理すると守屋さんのお父さんのあたりで部民化して物部氏の分家かの様に書かれたけれど、稚彦命が弓削氏の遠祖という考え方の様です。
天冬衣と一緒で、天稚彦命と同じなのかなーと思いました。古い家柄だったからこそ、守屋が尊敬して自分の名前、物部弓削守屋にしたんじゃないでしょうか?
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narisawa110
続き
今度は稚彦命で検索をします。ミカに近いかの前にそのまま検索します。ここで大事なのは素直さです。物部神社の由緒を素直に解釈したのと同じで稚彦命で検索をします。
そうすると
弓削部稚彦命が綏靖天皇の時代に出てきて弓削部連の租と出てきます。タギシ耳の乱の時の人物で、尾張氏(海部氏)か、近衛の物部氏になろうかと思われます。
この子孫が神門臣家の子孫とも捉えられた事で、後年の弓削氏のあり方が、忌部氏の様にも出雲族の様にも、はたまた物部氏の様にも捉えられた可能性があると思われます。
本日のポテンヒット。どや。
これなら弓削氏も清水峠や碓氷峠を通って関東に行けますね
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なるほど、確かに。
玉﨑神社の弓削宮司にはまだお会いできていませんが、あそこに豊玉姫と琴平神がいらっしゃることで、単に物部だけの括りでは説明できないと思っています。
やはり鍵は、神門家にあるのではないでしょうか。
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すっきり腑に落ちた感があります。弓削と言っても様々、当家伝承で触れられてないのもむべなるかなと。
名乗る氏族と濃い血縁は必ずしも一致しないことは多々あるように感じます。
関東にいらしている弓削氏、そういえば初めて玉崎神社の弓削宮司にお会いした2010年以前でも
「弓削は物部系ですが」と仰られましたが物部をことさらに強調されませんでした。😅
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narisawa110
さて、三周目です
岩見国=星見のイメージを抱えつつ、一方では彦サワケに繋がるミカツ姫が出てきて、香香背男の話が出てきましてので、ようやく流れが忌部氏に近づいた気がしてきました。(逆に富家から少し離れた様な。もしかしたら養子関係?を整理する必要ありかも)
一方で神門臣家ルートの海部とも言われるアメノワカヒコがもしかしたらスセリヒメに近いのではという妄想をしたしましたが、実はこの弥彦神社にはアメノワカヒコが亡くなってない伝承があるんです。それが十宝山鏡探索のお話です
ttps://cultural-experience.blogspot.com/2016/07/blog-post_13.html?m=1#hotsuma
抜粋
神武天皇即位4年、彌彦大神は天皇より越後開拓の大任を任せられた。これにより、彌彦大神は大和から多数の部下を率いて天の鳥船に乗り、若狭湾より出て日本海を北上し、遂に越後の米水ヶ浦(寺泊町野積浜)に上陸した。
この時、彌彦大神は大和朝廷より天璽瑞宝(てんじずいほう 十種神宝)を預けられ、これを持参して上陸したという。
彌彦大神による越後開拓が一段落ついた時、天璽瑞宝を十宝山(とだからやま)の頂上に埋納しようと考え、この仕事を重臣の稚彦命(ワカヒコ)に命じた。(色々続く)
話はそれますが、物部二田連の系統の名前に、高波さんという名前があります。タケハヅチに近くてドキドキします。
金子先生のお宅には出雲伝承で情報の少ないタケハヅチ(ワカヒコ)の伝承があるのではと妄想
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何周目か回ってきました。彌彦神社からの情報はどれも核心に至っていなく、謎のままです。タケハヅチに関しても神門側からの証拠が出てくればビンゴトリプルリーチとなる所が抜けています。これだけネットに神門神門と書いていれば、誰か出てくること期待してもいい時代が来たと思いたいです。ここ1-2年のパズルの埋まり具合からすると😆
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narisawa110
さて、ここにも一周回って帰ってきました。物部神社と高橋的に考えますと。
物部神社由緒抜粋
その後、「御祭神は天香具山命と共に」物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。
九州に高橋、新潟に高橋。
九州の物部か、近衛の物部かは不明ですが、やっぱりここにも物部を受け入れた人たちがいる気がします。
二田物部神社の社家が三島(越智)。それとその辺で古い神社がタキツヒメ系のタキ神社。
県境の村上市まで海沿いはタキ系の神社が点在しますので、神戸家も居て、三島か神戸家が大彦を保護。
物部系と大彦系の合わせ鏡の様な構図がここでもある様な気がしてきました。
高橋はいつから居たんでしょうね。
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二田物部神社もずっと気になっていて、いつか訪ねたいと思っています。
なるほど、弥彦神社のイヤは祖谷にも、揖屋・揖夜、熊野にも通じます。
物部もそこに居そうですね。
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一周回られてドキドキです。「バレたかぁ😉」 長い事親族は彌彦神社にもお参りしています。
しかも本殿ではなく奥宮メインです。
https://photos.app.goo.gl/Rd2jWdfuyayq4UZH8
何度行っても、この2箇所同じ気持ちになれるのです。
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narisawa110
そうしますと、信濃国三宮、小野神社と弥彦神社は、正に神戸家と物部家なわけでございますか
頭の中のいろいろな地図が大彦単体や、安曇から、神戸家と物部家に塗り替えられてく気がします。
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戯れ言として流してください…
13歳から大学・社会人なって若い頃は欧州暮らしで学生時代は欧州史の方が身近でありました。
物部って、完全塗り替え支配ではなく、フランスの植民地支配に近い、
「現地人の元信仰を尊重しつつ名前は変える」手法でうまくやってるかな、なんて😂
しかし、アドルフ・ヒトラーのような臆病者かもしれませんね。
得体の知れない被支配国の神の怒りや民の蜂起をも恐れているのか。
うちも金子の名をもらっていても、あくまで旧国の祭祀法を踏襲するなど✨️
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narisawa110
はい、私の中ではバッチリ☆物部氏2000年の歴史の中で世界をまたにかける「ぶるじょわじ~」の様にイメージしておりますw
諏方においては五官の祝職次席が、途中から当初の小出家から江戸中期までは神長官家の分家の物部氏になっておりますが、秋田物部氏と同じで、そのまま物部を名乗るケースは少ないと仮定するのであれば、「もっとたくさんの(本当は)物部さんが」いるのでしょうね。
大彦の子孫も多いですから、女系によって名前を変えたともとれると考えております。
さて、尾張・美濃の方面は岐阜大垣とか、守屋とトオチネを祀る神社が点在しておりましたね。
勉強♪勉強♪
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narisawa110
枚岡社からじゃーんプ
そして、矢追一族は、「矢作神社」を立てたそうです。
矢作駅の地名は、登美家を名乗った尾張家に由来すると考えられます。
そして、諏方においては弓削を標榜した守屋の神社に、弓矢が奉納されている訳です。
つまり、出雲と大彦の和解を示している気がするわけです。
どうでしょうか今日のストーリーww
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なるほど!
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大彦、阿部系のまとめを検討されているとか。ぜひぜひお願いしたいところです。
私のヤマレコにも、信濃国二ノ宮弥彦神社があります。
信濃にカゴヤマを連れてきたのはやはり大彦、阿部かと思われます
弘法山古墳は、確か天竜川水系の流れとも目されていたかと
大元本の、事代主の伊豆建国を見ると、諏訪大社の社家には阿部と、物部が入っていることがわかります
諏訪大社の案内人の人のお話でも、晴明の子孫が、桓武記に大社入りしたとあります
かつては幸神の社であった諏訪大社にミナカタが来たのは東海、引いては随伴した忌部氏がいたのかもしれませんね
あと、藤島社
確か島根の剣神社の摂社であり、守屋神長官記念館にもあったかと
ミナカタが洩矢神と対峙した、ミナカタ側の陣地が藤島社となっていますが、洲原社と同じで、中身を見たら出雲なのか天孫なのか解釈が別れる現象が起きる気がしています
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信濃国にも弥彦神社があったんですね。弥彦はイヤ彦なので、祖谷彦・揖屋彦、そして熊野彦なのかもしれませんね。
藤島社は何度か行こうとしたのに、なぜか辿り着けないでいます😅
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弥彦神社の大彦説は私も大いに支持する所です。
そのきっかけになりそうなのが、柏崎市の物部神社
そう、よりにもよって物部神社w
大元本には北陸の豪族を紹介されたと書かれていて、どの豪族かは書かれていません。
三島郡鎮座、二田物部神社 社家は三島氏ですww
今度行ってみようかと思います。
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柏崎市の物部神社!それは気になる!
また新潟に行く理由ができてしまいました😁
秋葉神社の奥の院ってやつも気になっています。
そう、大彦の紹介先が気になりますね。それにしても、ほんとよりによって物部とは😅
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もともと二田社って名前であって、物部は後付けなのではないかと考えられます。
関東の出雲国造が、タケヒナドリを家系図に入れたように何かの偽装の方式として考えられなくもないです。
式内社編纂の際には物部が付いていたようですが、元々その前の神領が三島郡との事なんですよね。
物部氏がカゴヤマを奉じる点でもう怪しさ満載ですw
天物部(あまつもののべ)っていうのも怪しい。
新潟は地盤が悪く、浅い地層では鉄分が多く、赤谷の様な鉱山もありました。
三島氏や、ヤマト系の人達なら、沼っぽいところの開拓は得意でしょう。好んで入植した可能性はあります。
徳川治世が神社の普請に熱心だった時期に手が入ったらしく、葵の御紋があります。
これは千鹿頭神の、ツツコワケ神社にも同じような御紋のある神社があります。何か関連があるのかもしれません。
PS予備知識:文書など
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000285792
https://genbu.net/saijin/futada.htm
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そういえばふと思い出したのですが、以前斎木氏に尋ねたことがあります。大元本のどれかに、忌部氏は物部東征に従ったと記してあり、これはどういうことなのだろうかと。忌部氏は富家の分家ではないのですか、と。
斎木氏はこうお答えでした。
「忌部氏は確かに富家の分家であり、それは間違いのない事実だけど困ったところがあってね、その時の力の強いもののふりをするところがあった」
「物部族が力を増していた時は、自分たちは物部だと言って、物部族の勢力が弱まると、やっぱり俺たちは富家だという感じにね(笑)」
新潟まで物部が進出していたと考えられなくもないですが、出雲系豪族とともに新潟に来た忌部氏が物部全盛期にそれを騙った可能性のあるのかもしれませんね。
二田とは新潟の語源ではないでしょうか?
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おお、忌部氏。
確かに、忌部氏は、大陸渡来人に乗っ取られたとかいう説もあり、編集長のおっしゃり様は、じつにしっくりきますね。
物部氏神社にはさっそくいってきました。
由緒には、2千年前から稲を作ってたとありますので、どう考えても大彦が来る前から摂津の三島家が入ってたようにしか見えません。(もうフィルターが出雲w)
しかしながら、近くに近江商人ゆかりの北前舩の寄港地、出雲崎があります。怪しいw。
宮司さん自宅の電話番号が書いてあるので何度か連絡していますが、留守電でまだ一度も繋がりません。
例祭の日に行ってみようかと思います。
PS:弥彦神社の拝殿なのですが、真正面から見ると三つ鳥居にみえてしまって、私はもう殆ど出雲病なのかしらと思っています。
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ああ、ほんとだ、三つ鳥居だ!😄
はい保証します、narisawaさんも重度の出雲病です。不治の病ですから、一生上手につきあっていきましょう😁
でもこうしてみてみると、この手の神社の拝殿って、三つ鳥居が原型なのかもしれませんね。三つ鳥居の大元は大神神社だって言われますが、僕は出雲の長浜神社の鳥居が原型ではないかと思っています。その奥にはサイノカミが祀られていました。長浜神社は久奈子神社の前の、郷戸家の王宮だったと思うんですよね。
物部氏神社の宮司さんがどのようなお話をされるのか興味ありますね。でもあまり突きすぎて刺されないようにね😎
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裏話を聞くなら
長浜神社の宮司さん、色々知ってて話をしてくださいますよ。
富神社の現在の管理をしているミクガ神社関係の事も色々ご存じ。
たしか、奥様の系統が古い血筋とかおっしゃってましたね。おそらく春日家はご主人の苗字かと。
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そうでしたか、機会があれば一度伺いたいものです。
昨日は諸手船神事でしたね。出雲に行きたいな〜😌
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お久しぶりです。CHIRICOさん。私も弥彦さんの神廟まで足を延ばし、ついでに湯神社も詣でて来ました。記憶に残る良い場所ですよね。
宇佐、出雲、弥彦の二礼四拝一礼。オカルト的に謳われる四拝=支配。その地に偉大な支配者がいて称える為に朝廷に対しての隠拝の形なんだとかどっかでみました。お伊勢さんでは八拝する風習もあるのだとか。これは四拝に対して倍打つ事でここが各地の神を統べた証となすのだとか。
もちろん今では神社庁の慣例風習に則って二礼二拝一礼とされますが。あくまでオカルト話です。(笑)
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こんにちは、8まんさん。
舟津神社でしたか、参拝していると四拝を2回しているご婦人がいらっしゃいました。
話を聞いてみると、4をあわせて幸せ、とどこかのコマーシャルのようなことをおっしゃっておられましたが、なるほどあまり拘らず自由でも良いのかと思ったものです。
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Come sempre post stupendo! Questa sera dopo il lavoro lo leggerò con calma! Grazie Chirico!
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そう云えば、新潟にはいつの間に行っていたのですか〜
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このあいだの間です 笑
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しかし、タフですね〜笑
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