布制神社:八雲ニ散ル花 蝦夷ノ王篇02

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出雲を愛し、出雲に焦がれた男が、大和にいた。
紀元180年の頃、大和の実質的な指導者だった彼は「富ノ中曽大根彦」(トミノナカソオネヒコ)といった。

「大彦様、諏訪国まであと一息でございます、どうか。」

その男は大彦とも呼ばれた。
第8代大王「クニクル」(国牽)と登美家のクニアレ姫の間に生まれた大彦は、東出雲の事代主を敬愛し、その子孫の名をもって「富彦」と名乗ったこともある。
大彦は大の物部嫌いであった。
ウマシマジら物部の一党は、登美家に世話になっておきながら、出雲の祭りの象徴、銅鐸を壊して回った。
そこで大彦は銅鐸祭祀を振興させようと戦を起こし、大彦側と物部勢力との激しい宗教戦争になった。

記紀の神武東征神話で、大彦は神武らを攻撃する賊として記された。
彼は「長髄彦」の名で、大和の豪族「饒速日」によって殺されたと、嘘の話を残した。
しかし彼は、物部や大和の一党に殺されてはいない。

当初、大彦軍は優勢であったが、数年の戦で物部軍が優勢になった。
大彦が敗走したのは事実である。
その際、出雲の富家に助力を願ったが、出雲は吉備家の激しい攻撃を受けた直後であり、物部軍も攻めてくるとの噂があったので、彼に手を貸すことはできなかった。
その代わりに富家は、大彦に出雲王家の北陸の豪族を紹介した。

大彦らは一路北陸を目指したが、途中大彦の子「ヌナカワワケ」は道を別れ、伊豆に逃れた。

「もう、ここらでよい。」

大彦が腰を下ろしたのは、今は長野の篠ノ井と呼ばれるところだった。
その場所は、遠く離れた山あいのわずかな平地だったが、美しい千曲川が流れ、どこか懐かしく思えた。
奇しくもそこは、彼の敬愛する事代主の息子、タケミナカタが諏訪進出の折に滞在した場所であった。
現地の村人も、大彦を手厚くもてなした。

「ここから、ここからだ。私の一戦は破れはしたが、ここから私の子供らが、この国を統べる力となろう。物部を倒し、出雲の誇りを取り戻すのだ。」

「阿倍」を名乗った大彦の子孫には、若狭国造(福井県)になった「膳臣」(高橋家)や、高志国造(越後北部)になった「道公家」がある。
ここ北信濃から北陸にかけては大彦を祖とする布勢氏が栄えた。
大彦はしばらく篠ノ井の山里で暮らし、そこで生涯を終えた。

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第一次物部東征によって大和に押し入った物部族と熾烈な戦いを繰り広げ、そして破れた大和・磯城の大彦王は北陸へ向かいました。
冒頭からの写真は、松本空港へ着陸する飛行機の中から撮影したものであり、篠ノ井の写真ではありませんが、流れる川や田園の雰囲気が、出雲に似ていると思わず感じたものです。

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長野市篠ノ井布施五明に「布制神社」(ふせいじんじゃ)があります。

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山間の平地、のどかな町中に、石垣で囲まれた境内。

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すぐ隣にはビニールハウスが建っています。

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当社伝によると、布勢氏が祖神「大彦命」を祀った古社であるとされています。

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布勢氏は阿倍氏とともに大彦命を祖とし、北信濃を含む北陸道に領地を広げたと云われます。

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社殿は平成15年再建ですが、

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内部を覗くと、文化6年造営と伝わる本殿が垣間見えています。

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伝承では、大彦は布施五明海道北山の長者窪を本拠に、北陸道や北信濃を鎮撫し、当地で薨じたと記されています。
長者窪は、当地から西へ少し進んだ場所にある瀬原田あたりだといいます。

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大彦は古事記では「長髄彦」と記され、日向から東征してきた神武天皇の敵対勢力として描かれていますが、神武に恭順した饒速日によって殺されたことになっています。

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ところが日本書記によると、崇神(イニエ)天皇が地方平定のため四道将軍を派遣、そのうち北陸道に派遣されたのが大彦命だと記されています。
四道将軍は他に、大彦の息子である「武渟川別命」(タケヌナカワワケノミコト)、「吉備津彦命」(キビツヒコノミコト)、「丹波道主命」(タンバミチヌシノミコト)の4人を指しますが、彼らは皆、2度の物部東征で敗走した大王家の人たちでした。

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つまり、記紀は史実を偽り、でたらめの伝承を伝えているのです。

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さて、大彦終焉の地を探して、グーグルマップで布制神社を検索していたら、困ったことに複数社、ヒットしました。
その一つを訪ねたら、住宅街の公園に来てしまいました。

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なぜだろうと思って見てみると、隅に小さな布制神社が鎮座していました。
が、さすがにここが終焉の地ではなかろうと思い至ります。

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長野市篠ノ井山布施、蛇行する山道86号線を上ったところにも、「布制神社」がありました。

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社名を刻んだ石碑が立ちます。

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短い参道ながら、両脇にそびえる木々が、威厳を示しています。

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威風堂々たる拝殿。
往年の隆盛を物語ります。

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が、裏に回れば、本殿は小ぶりで質素でした。

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拝殿の横には折れて、倒れかけた巨木の姿。

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周りには巨木の残骸が散らばっていますので、最近折れたものと思われます。
中がウロになっているので、限界だったのでしょう。

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しかし折れてなお、威容を放っています。

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巨木の隣には、謎の社殿。

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何が祀られているのか、不明です。

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社伝によると、神護景二年(768年)高橋朝臣国是之が、下総国結城布制郷の人民を従えて当地に移住し、宝亀八年(777年)布施氏の祖「大彦命」を勧請したと記されています。
また『信州宝鑑』に、光仁天皇の御宇(708-782)伊勢神宮の分霊を勧請とあり、当社は「神明宮」とも呼ばれていたそうです。

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どうやらここも、大彦終焉の地ではなさそうです。

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86号線を下ったところにも「布施神社」がありました。

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ここは「布制」ではなく、「布施」となっています。
本来はいずれの神社も「布施神社」と記されていたそうですが、神仏分離令により、「布施」の字が仏教に通じるとのことで、「布制」に改められたのだとか。

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しかし当社はタケミナカタは祀ってあるものの、祭神に大彦の名は見受けられませんでした。

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最後に訪れた「布制神社」は、長野市篠ノ井石川にありました。

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この神社は、グーグルマップのナビで確認していたにも関わらず、その所在がつかめず、参拝を諦めかけた神社です。
しかしなんとか根性で、見つけました。
背後に見える小高い山は、古墳でした。

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この「川柳将軍塚古墳」は国の史跡となっており、善光寺平では珍しい前方後円墳になっていると云います。
伝承では、この古墳が大彦の古墳なのだと伝わっているそうです。

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僕的には、前方後円墳というのが、少々引っかかります。
大彦は相当な出雲好きでしたので、彼が古墳を造らせるなら、四方突出型か、少なくとも方墳にしたと思うからです。

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ともあれ、神社を参拝してみます。

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創祀年代は不詳。
口伝によれば、布勢朝臣某が当地に下向し、布施郷の地の開拓に際し、祖神として正殿に三神を勧請したのに始まると云います。

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参道の階段を上ると、要塞のような、立派な石垣の上に社殿がありました。
正殿の御祭神は、大倭根子彦國玖琉尊(孝元天皇)・大毘古命・彦太忍信命。
孝元天皇は大彦(大毘古)の父であり、彦太忍信(ヒコフツオシノマコト)は大彦の異母兄弟で、のちに物部イニエ王の重鎮になった男です。

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古墳は埋蔵品から、4世紀の築造とされています。
大彦の時代とは年代が合わず、後世に築かれた古墳だということになります。

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しかしこの気品はどうでしょう。
ここが大彦の聖地と言われれば、そうかと納得するだけの、威厳があります。

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北陸方面へ追われた大彦勢力は、そこで王国再建を試みます。
その王国は、出雲族の大祖神クナト王の名を借り、「クナト王国」と名乗りました。
やがてクナトの文字が省略され、「クナ王国」と呼ばれるようになります。
そう、魏書に出てくる「狗奴国」のことです。

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阿部一族には久努臣もおり、その中に「久々智彦」(狗古智卑狗)がいました。

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『旧唐書』には、
「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
(日本国は倭国の別種なり。その国は朝日の辺にある故に日本を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は古くは小国で、倭国と並立していた。)
と記されています。

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大和国(倭國)は東方のクナ国の人々を、侵攻する上で「蝦夷」と蔑称で呼びました。
日本書紀の景行期27に「東の夷の中に、日高見あり」と書かれているように、信濃から北の安部王国は、国名を「日高見国」と称しました。
やがてその名は「日本之(ひのもとの)国」となり、『日本国』と呼ばれるようになります。

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青森の東北町に「日本中央の碑」(にほんちゅうおうのいしぶみ)という石碑が発掘され、謎を呼んでいます。
なぜこんな本州の外れが日本中央なのか?

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一説にこの石文は東国の王「安倍致東」が建立したと伝えられていますが、当時の安倍政権には、アイヌ代表も加わっていたと云うことです。
つまり安倍・日本国はアイヌが住む北海道や樺太も領土にしていたことになり、青森の当地が日本国の中央であったことは、あながち誇張でないということになります。
また東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定め、出雲と同じ竜神木信仰の「アラハバキ信仰」を広めました。
アラハバキの祭りには、王国各地より代表が参列し、祭壇に目を閉じた女神像を立てて拝んだと云うことです。

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日本という国名は大彦の子孫である安倍王国が最初に使っており、この日本国は大和国とは別の国名で、独自の貿易を行っていました。
すなわち、日本列島には二つの独立国があったことは、当時、外国に広く知られていた事実だったのです。
大和国はその名を嫌い、安倍王国から「日本」の名を奪って名乗ったと、旧唐書は記しているのです。

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蝦夷として制圧され続けた安倍家は、安東氏と名を変え、鎌倉時代後期には北条執権政府の支配下に入りました。
その頃、日本存亡の大危機である「文永」と「弘安」の二回の蒙古襲来があります。
私たちは、二回とも神風が吹いて、蒙古軍船を撃退したという奇妙な話を教わりました。
しかし、実際は執権政府の要求に応えて、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払ったと、土地の古老は伝えているそうです。
また、前九年合戦で敗れた安倍宗任は肥前松浦に移って、「松浦党」という水軍になりました。
彼らも蒙古軍船撃退に活躍したと云います。
しかし、当の鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東・松浦水軍の活躍を無視し、神風の奇跡として歴史を捏造したのです。

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本殿背後の山から、勢いある風が一陣吹き抜けました。
身勝手な物部政権を嫌い、大和に頑なにまつろわなかった蝦夷の祖王「富ノ中曽大根彦」、彼のDNAが私たちの反骨精神に少しなりと受け継がれていると、願って止まないのです。

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2件のコメント 追加

  1. さいとう よしみ より:

    毎回毎回楽しみに拝見しております。伝承をベースにした紀行文のようで、いつか行きたいな・・・と写真を見ては『ほっ』と心しずめています。
    『幸福論』拝読しました。もう手に届かないありふれた日常こそ、本当に価値あるものだと感じました。また仕事でも趣味でも苦しめることを楽しめると、やはり人生は変わるようです。『世界は、本当は美しかった。気づかなかっただけだった』と。すいません。幸福論を読んで投稿してしまいました。

    追伸
    冒頭の会話(?)は、毎回、伝承を学ぶ上でも、やはり『ほっと』して良く学ぶが進みます。また根性で探しあてたとのこと。なにか親しみも感じて微笑んでしまいました。僕は柿本人麿公の最期の地を探してましたが分かりませんでした。根性が足らないようですね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんばんは、さいとう様。
      コメントありがとうございます。
      冒頭の部分は、つたないストーリーではございますが、実際に旅してグッと当時の情景が思い浮かんだ時、それを描き書いてます。
      当ブログは、旅した後で僕自身がもう一度同じ旅を味わうために書いているのですが、
      読んでくださる他の方には、ただただ観光スポットやパワスポを巡るだけでなく、ちょっと深いところまで足を踏み込んでもらう参考になれば嬉しいなと思っています。

      旅先で絶景に出逢うことも多い僕は、「神に愛されてるじゃんっ!」って思ってたこともありましたが、
      よくよく思い返してみると、深夜から出かけてみたり、山登ってみたり、遭難しかけたり、、、何度もトライしてそれらの景色に出逢えていました。
      偶然、絶景に出逢えることもありますが、下調べして、準備して、タイミングを見計らってと、努力をした先に、女神は微笑んでくれるようですね。
      あと、時間ギリギリまで「根性」で粘ることも大事です。

      柿本人麿公の終焉の地、気になりますね。
      どこかで石碑が見つかったという記事を見たような気もしますが、富家伝承本の中に書いてあったかな?!
      何か新たな発見がありましたら、どうぞ教えてください!

      いいね

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