大和神社:八雲ニ散ル花 40

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「大和の民よ、これ以上、物部どもの暴挙を許して良いものか。我と共に立ち上がれ。我が名は富ノ中曽大根彦なり。」

紀元180年の頃、大和磯城王朝に「大彦」がいた。
彼は第8代クニクル大王の御子で、実質的な大和の指導者だった。
中国の史書「梁書」に、「漢の霊帝の光和年間(178~83)に、和国が乱れた」と書かれている。
時は正しく、その時代にあった。

7代大王「フトニ」が吉備へ移った後、大和を治めたのは第8代大王「クニクル」(国牽)だった。
クニクルは登美家のクニアレ姫を后に迎え、「大彦」と、「モモソ(百襲)姫」を儲けた。
更にクニクルは、大和入りした物部勢力と妥協するため、物部の娘「ウツシヨメ」を妃として迎え、「オオヒビ」(大日日)も儲けた。

大彦は葛城笛吹村の東北にある曽大根(大和高田市)で育った。
このことから、別名で「ナカソオネヒコ」(中曽大根彦)とも呼ばれた。
大彦はクニクルの長男であり、次の大王の候補と見なされ、支持する者も多かった。

大彦は大の物部嫌いであった。
ウマシマジら物部の一党は大和に入ると、登美家とともに大和に平和をもたらす約束を反故し、銅鐸を壊して回った。
物部は大和の銅鐸の祀りをやめさせ、銅矛と鏡による自分たちの祀りを行うよう、強要した。
それが大彦には許せなかった。
大彦は銅鐸祭祀を振興させようと戦を起こし、大彦側と物部勢力との激しい宗教戦争になった。
王家と尾張家は、銅鐸祭祀を中心とする農耕神を崇拝する信仰だったが、それに対し物部勢力は、依り代を鉄刀とした「布都御魂」を神とする武神信仰だった。
これは大乱になった。

大彦は、後の大王となるオオヒビより勝る大きな勢力を持っていた。
彼の育った初代大和大王「天村雲」の出身家「尾張一族」が彼を加勢したからだ。
母・クニアレ姫の妹「ハエイロド」(蝿伊呂杼)の息子たちもこれに加わった。
一時は優勢だった大彦軍も、数年の戦ののち弱体化し、物部氏の勢力が優位になった。
そんな折、物部勢に「タケハニヤスヒコ」が加わり、大彦勢を襲った。
大彦は大軍に囲まれて危なかったが、「ヒコクニブク」が率いる軍勢に助けられて、なんとか命拾いをした。

「くっ、無念ではあるが、ひとまず退散だ。出雲に助力を願おう。」

大彦は東出雲王家の富家の親戚であることを誇りとし、「富彦」と名乗ったこともある。
大彦の母「クニアレ姫」は富家の親戚「登美家」の姫であり、両家の祖は「八重波津身」つまり「事代主」だった。
大彦は自分の息子を、事代主の妃の一人「沼川姫」にちなみ、「ヌナカワワケ」(沼河別)と名付けた。

大彦は軍勢を琵琶湖湖畔に待機させ、出雲国の富王家までやって来た。

「自分の母は登美家出身のオオヤマト・クニアレ姫で、父は磯城王朝8代のクニクルである。いずれも出雲富王家の親戚である。今、物部どもとの戦に劣勢を強いられている。どうか兵を貸していただき、助力願いたい。」

残念なことに、この時、富家が彼に手を貸すことはなかった。
この頃の出雲王家は吉備戦の後で、とても疲弊していた。
更に出雲にも都万国の物部政権が攻めてくる、との噂があった。
富家に、とても軍勢を分散させる余裕はなかった。
代わりに富家は、大彦に出雲王家の北陸の豪族を紹介した。
こうして止む無く、大彦軍は越の国に退却していくことになる。

大彦の子「ヌナカワワケ」は伊豆に逃れた。

大彦に協力した尾張家は、一部は紀伊国へ逃れ、高倉下の子孫と合流した。
残りの尾張氏は、摂津国の三島に逃れ、そこからさらに一部は先祖の地である丹波に去って「海部家」となった。
尾張家で最後に残った者は、伊勢湾北部に移住した。
その結果、その地は尾張国の名が付く。

物部氏の血を半分持つオオヒビは、大和第9代大王となって、物部勢力と協調することにした。

出雲王家は大彦に、以後は富家を名のらないように通告した。
そこで大彦は「阿倍」を名乗ることにした。
それは大彦が始め、伊賀の敢国(あえくに)を地盤にしていたことが由来であるとか、摂津国三島郷の阿武山にちなんでのことであると云われている。
北陸に退去した大彦の子孫には、後で若狭国造(福井県)になった「膳臣」(高橋氏)や、高志国造(越後北部)になった「道公家」がある。

神武東征神話では、大彦は神武らを攻撃する賊として記されている。
記紀は彼が、大和の豪族「饒速日」によって殺されたと嘘の話を残した。
神話で語られた彼の名こそ、悪名高き「富ノ長髄彦」であった。

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奈良県天理市にある「大和神社」(おおやまとじんじゃ)を訪れました。
今から約2000年前に創建された、大和一国の国御霊(クニミタマ)を祀る神社だと云います。

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まっすぐに伸びた、やや長めの参道を歩いていきます。
この長い参道には、ちょっとした秘密が隠されていました。

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参道脇に「増御子神社」(ますみこじんじゃ)という摂社がありました。

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小ぶりですが立派な社殿には「猿田彦」と「天鈿女」が祀られます。

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主祭神は「日本大国魂大神」(ヤマトオオクニタマノオオカミ)、国土の守護神として、天照大神と共に宮中に祀られていた神だと云います。

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崇神天皇5年、国中に疫病が流行り、人民が死に絶える事態がおきました。
崇神は「神様を人間と一緒に宮中に祀っている」のが原因だと言って、「天照大神」を皇女「豊鍬入姫」(トヨスキイリビメ)に命じて倭の笠縫の邑に、「大和大国魂神」を皇女「渟名城入姫」(ヌナキイリヒメ)に命じて大市の長岡岬に移させましたが、この後者が大和神社の創祀と伝えられています。

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つまり「大和大国魂神」とは、古くは「天照大神」と同じ宮中に祀られていた同格の神だということです。
渟名城入姫はその後、髪が抜け落ち痩せ衰えて、祭祀不能にまでなったと、日本書紀に記されています。
それほど大和大国魂神とは、畏れ多い神だったと云うことのようです。

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ところが、富家の伝承を紐解いてみると、これは全くのデタラメな伝承であるということになるようです。

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まず、大和の10代大王と記される崇神天皇、「イニエ王」は、実は物部王国の王で第二次物部東征を計画しますが、志半ばに九州日向の地で亡くなってしまいます。
彼は九州を出ることなく、大和に足一本踏み入れてはいないと云うことです。

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天照大神を笠縫の邑に奉じたと云う「豊鍬入姫」は、九州宇佐の豊王国のヒミコ「豊玉姫」の娘で、ヒミコ後継者の「台与」と伝えられる「豊姫」のことです。
豊王国が信奉する神はアマテラスではなく、月神「月読の神」でした。
なので、彼女がアマテラスを奉じることはありませんでした。

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身をボロボロにしながら、大和大国魂神を奉じた「渟名城入姫」については、その事実を記す伝承は不明ですが、先の崇神天皇の伝承が嘘であると云うのなら、そもそも「大和大国魂神」自体を怪しむ必要が出てきます。
僕は大和神社の本来の祭神は、そこに祀られる配神に答えがあるように思えます。

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大和神社は中殿に「大和大国魂神」を祀りますが、左殿に「八千戈大神」、右殿に「御年大神」を祀ります。
「八千戈」(ヤチホコ)とは出雲王国8代主王の「大国主」のことです。
八千戈も御年神も、西出雲「神門臣家」の分家たる「高鴨家」が信奉した祖神です。

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つまり大和神社は、元は高鴨家が祭祀した聖地であったと思われるのですが、ただ、この土地は登美家の領地に近すぎるような気がします。
東出雲王家の分家たる登美家にとっても、八千戈王は特別な存在でしたから、当地を高鴨家に譲り、八千戈王を祀らせたのかもしれません。

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実は当社は、男子なら誰もが熱くなる、あの戦艦「大和」ゆかりの神社でもあります。

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大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦「大和」は、国土の守護神である「大和大国魂大神」の神威を受けるべく、艦上には当社の御分霊が祀られていたそうです。
戦艦大和の長さは大和神社の、あの長い参道と同じ270mで、幅は参道の約4倍の40mに造られていたと云います。

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戦艦大和の乗組員や仕官たちは出撃前にこの神社へお参りして出征したと云いますが、本来の祭神ではない主神を祀って出航したかの船は、再び港に戻ることはなかったのです。

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本殿の横には、ひときわ目立つ境内摂社「高龗神社」(たかおかみじんじゃ)があります。
高龗神を祀る神社は奈良の吉野にある丹生川上神社の上社、中社、下社や京都の貴船神社が知られていますが、ここ大和神社の高龗神社が総本社と云われているそうです。

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高龗神は天候を司り、多雨やひでりの害、暴風などの災害から護る「龍神」とされていますが、これもまた出雲の古い神に由来するものかもしれません。

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冒頭のストーリーと大和神社は、実は何の関係もないのですが、大和での大彦の活躍を、何となくここに記させていただきました。
大彦は大和の大王の正当な御子であり、英雄でした。
熊野で苦しい思いをしていた物部勢を大和に導き入れたのは、登美家の賀茂建津乃身でした。
その登美家に恩を仇で返す物部を、大彦は心底嫌ったと云います。

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記紀は大彦を大和の賊「長髄彦」(ナガスネヒコ)として書き、大和の豪族で神武に帰順した「饒速日」(ニギハヤヒ)に殺されたと記しましたが、大彦の子孫からすれば、これほど屈辱的な記述はないことでしょう。
饒速日とは物部の祖神です。
当時の大和にとって、大彦こそが英雄であり、賊とは饒速日の子孫、物部の一党だったのです。

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しかし時代は無情にも、武に長けた物部勢に軍配をあげました。
大彦を支持した一族は散り散りに大和を追われ、大彦自身も北陸へ退却を余儀なくされていったのです。

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