「大和の民よ、これ以上、物部どもの暴挙を許して良いものか。我と共に立ち上がれ。我が名は富ノ中曽大根彦なり。」
紀元180年の頃、大和磯城王朝に「大彦」がいた。
彼は第8代クニクル大王の御子で、実質的な大和の指導者だった。
中国の史書「梁書」に、「漢の霊帝の光和年間(178~83)に、和国が乱れた」と書かれている。
時は正しく、その時代にあった。
7代大王「フトニ」が吉備へ移った後、大和を治めたのは第8代大王「クニクル」(国牽)だった。
クニクルは登美家のクニアレ姫を后に迎え、「大彦」と、「モモソ(百襲)姫」を儲けた。
更にクニクルは、大和入りした物部勢力と妥協するため、物部の娘「ウツシヨメ」を妃として迎え、「オオヒビ」(大日日)も儲けた。
大彦は葛城笛吹村の東北にある曽大根(大和高田市)で育った。
このことから、別名で「ナカソオネヒコ」(中曽大根彦)とも呼ばれた。
大彦はクニクルの長男であり、次の大王の候補と見なされ、支持する者も多かった。
大彦は大の物部嫌いであった。
ウマシマジら物部の一党は大和に入ると、登美家とともに大和に平和をもたらす約束を反故し、銅鐸を壊して回った。
物部は大和の銅鐸の祀りをやめさせ、銅矛と鏡による自分たちの祀りを行うよう、強要した。
それが大彦には許せなかった。
大彦は銅鐸祭祀を振興させようと戦を起こし、大彦側と物部勢力との激しい宗教戦争になった。
王家と尾張家は、銅鐸祭祀を中心とする農耕神を崇拝する信仰だったが、それに対し物部勢力は、依り代を鉄刀とした「布都御魂」を神とする武神信仰だった。
これは大乱になった。
大彦は、後の大王となるオオヒビより勝る大きな勢力を持っていた。
彼の育った初代大和大王「天村雲」の出身家「尾張一族」が彼を加勢したからだ。
母・クニアレ姫の妹「ハエイロド」(蝿伊呂杼)の息子たちもこれに加わった。
一時は優勢だった大彦軍も、数年の戦ののち弱体化し、物部氏の勢力が優位になった。
そんな折、物部勢に「タケハニヤスヒコ」が加わり、大彦勢を襲った。
大彦は大軍に囲まれて危なかったが、「ヒコクニブク」が率いる軍勢に助けられて、なんとか命拾いをした。
「くっ、無念ではあるが、ひとまず退散だ。出雲に助力を願おう。」
大彦は東出雲王家の富家の親戚であることを誇りとし、「富彦」と名乗ったこともある。
大彦の母「クニアレ姫」は富家の親戚「登美家」の姫であり、両家の祖は「八重波津身」つまり「事代主」だった。
大彦は自分の息子を、事代主の妃の一人「沼川姫」にちなみ、「ヌナカワワケ」(沼河別)と名付けた。
大彦は軍勢を琵琶湖湖畔に待機させ、出雲国の富王家までやって来た。
「自分の母は登美家出身のオオヤマト・クニアレ姫で、父は磯城王朝8代のクニクルである。いずれも出雲富王家の親戚である。今、物部どもとの戦に劣勢を強いられている。どうか兵を貸していただき、助力願いたい。」
残念なことに、この時、富家が彼に手を貸すことはなかった。
この頃の出雲王家は吉備戦の後で、とても疲弊していた。
更に出雲にも都万国の物部政権が攻めてくる、との噂があった。
富家に、とても軍勢を分散させる余裕はなかった。
代わりに富家は、大彦に出雲王家の北陸の豪族を紹介した。
こうして止む無く、大彦軍は越の国に退却していくことになる。
大彦の子「ヌナカワワケ」は伊豆に逃れた。
大彦に協力した尾張家は、一部は紀伊国へ逃れ、高倉下の子孫と合流した。
残りの尾張氏は、摂津国の三島に逃れ、そこからさらに一部は先祖の地である丹波に去って「海部家」となった。
尾張家で最後に残った者は、伊勢湾北部に移住した。
その結果、その地は尾張国の名が付く。
物部氏の血を半分持つオオヒビは、大和第9代大王となって、物部勢力と協調することにした。
出雲王家は大彦に、以後は富家を名のらないように通告した。
そこで大彦は「阿倍」を名乗ることにした。
それは大彦が始め、伊賀の敢国(あえくに)を地盤にしていたことが由来であるとか、摂津国三島郷の阿武山にちなんでのことであると云われている。
北陸に退去した大彦の子孫には、後で若狭国造(福井県)になった「膳臣」(高橋氏)や、高志国造(越後北部)になった「道公家」がある。
神武東征神話では、大彦は神武らを攻撃する賊として記されている。
記紀は彼が、大和の豪族「饒速日」によって殺されたと嘘の話を残した。
神話で語られた彼の名こそ、悪名高き「富ノ長髄彦」であった。
奈良県天理市にある「大和神社」(おおやまとじんじゃ)を訪れました。
今から約2000年前に創建された、大和一国の国御霊(クニミタマ)を祀る神社だと云います。
まっすぐに伸びた、やや長めの参道を歩いていきます。
この長い参道には、ちょっとした秘密が隠されていました。
参道脇に「増御子神社」(ますみこじんじゃ)という摂社がありました。
小ぶりですが立派な社殿には「猿田彦」と「天鈿女」が祀られます。
主祭神は「日本大国魂大神」(ヤマトオオクニタマノオオカミ)、国土の守護神として、天照大神と共に宮中に祀られていた神だと云います。
崇神天皇5年、国中に疫病が流行り、人民が死に絶える事態がおきました。
崇神は「神様を人間と一緒に宮中に祀っている」のが原因だと言って、「天照大神」を皇女「豊鍬入姫」(トヨスキイリビメ)に命じて倭の笠縫の邑に、「大和大国魂神」を皇女「渟名城入姫」(ヌナキイリヒメ)に命じて大市の長岡岬に移させましたが、この後者が大和神社の創祀と伝えられています。
つまり「大和大国魂神」とは、古くは「天照大神」と同じ宮中に祀られていた同格の神だということです。
渟名城入姫はその後、髪が抜け落ち痩せ衰えて、祭祀不能にまでなったと、日本書紀に記されています。
それほど大和大国魂神とは、畏れ多い神だったと云うことのようです。
ところが、富家の伝承を紐解いてみると、これは全くのデタラメな伝承であるということになるようです。
まず、大和の10代大王と記される崇神天皇、「イニエ王」は、実は物部王国の王で第二次物部東征を計画しますが、志半ばに九州日向の地で亡くなってしまいます。
彼は九州を出ることなく、大和に足一本踏み入れてはいないと云うことです。
天照大神を笠縫の邑に奉じたと云う「豊鍬入姫」は、九州宇佐の豊王国のヒミコ「豊玉姫」の娘で、ヒミコ後継者の「台与」と伝えられる「豊姫」のことです。
豊王国が信奉する神はアマテラスではなく、月神「月読の神」でした。
なので、彼女がアマテラスを奉じることはありませんでした。
身をボロボロにしながら、大和大国魂神を奉じた「渟名城入姫」については、その事実を記す伝承は不明ですが、先の崇神天皇の伝承が嘘であると云うのなら、そもそも「大和大国魂神」自体を怪しむ必要が出てきます。
僕は大和神社の本来の祭神は、そこに祀られる配神に答えがあるように思えます。
大和神社は中殿に「大和大国魂神」を祀りますが、左殿に「八千戈大神」、右殿に「御年大神」を祀ります。
「八千戈」(ヤチホコ)とは出雲王国8代主王の「大国主」のことです。
八千戈も御年神も、西出雲「神門臣家」の分家たる「高鴨家」が信奉した祖神です。
つまり大和神社は、元は高鴨家が祭祀した聖地であったと思われるのですが、ただ、この土地は登美家の領地に近すぎるような気がします。
東出雲王家の分家たる登美家にとっても、八千戈王は特別な存在でしたから、当地を高鴨家に譲り、八千戈王を祀らせたのかもしれません。
実は当社は、男子なら誰もが熱くなる、あの戦艦「大和」ゆかりの神社でもあります。
大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦「大和」は、国土の守護神である「大和大国魂大神」の神威を受けるべく、艦上には当社の御分霊が祀られていたそうです。
戦艦大和の長さは大和神社の、あの長い参道と同じ270mで、幅は参道の約4倍の40mに造られていたと云います。
戦艦大和の乗組員や仕官たちは出撃前にこの神社へお参りして出征したと云いますが、本来の祭神ではない主神を祀って出航したかの船は、再び港に戻ることはなかったのです。
本殿の横には、ひときわ目立つ境内摂社「高龗神社」(たかおかみじんじゃ)があります。
高龗神を祀る神社は奈良の吉野にある丹生川上神社の上社、中社、下社や京都の貴船神社が知られていますが、ここ大和神社の高龗神社が総本社と云われているそうです。
高龗神は天候を司り、多雨やひでりの害、暴風などの災害から護る「龍神」とされていますが、これもまた出雲の古い神に由来するものかもしれません。
冒頭のストーリーと大和神社は、実は何の関係もないのですが、大和での大彦の活躍を、何となくここに記させていただきました。
大彦は大和の大王の正当な御子であり、英雄でした。
熊野で苦しい思いをしていた物部勢を大和に導き入れたのは、登美家の賀茂建津乃身でした。
その登美家に恩を仇で返す物部を、大彦は心底嫌ったと云います。
記紀は大彦を大和の賊「長髄彦」(ナガスネヒコ)として書き、大和の豪族で神武に帰順した「饒速日」(ニギハヤヒ)に殺されたと記しましたが、大彦の子孫からすれば、これほど屈辱的な記述はないことでしょう。
饒速日とは物部の祖神です。
当時の大和にとって、大彦こそが英雄であり、賊とは饒速日の子孫、物部の一党だったのです。
しかし時代は無情にも、武に長けた物部勢に軍配をあげました。
大彦を支持した一族は散り散りに大和を追われ、大彦自身も北陸へ退却を余儀なくされていったのです。
天照大神(女神)と同格の神。
答えはそのまま。
出雲の幸の神信仰。による
一対の男神、
最高神、
クナト大神(イザナギ)
に他なりません。
三輪山に奉迎鎮祭されたのは
出雲王国の国教、
幸の神信仰の
クナト大神。
幸媛の命、サビメ大神(女神)
(後の天照大神(女神)はその神格の一部)
御子神、鼻高彦。サルタ彦大神。
眷属、龍蛇神。
ですから。
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なるほど、クナト大神ですか、納得です!
ところで森のたぬきさんは、以前コメントをいただいておりました、淡路島のたぬきさんでしょうか?だとしたらお久しぶりです!またいろいろと教えてください♪
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大彦と、長髄彦が同一人物であると言う、出雲伝承では最上級クラスの肝になる伝承。
各地に残る旧家の伝承が記紀に服属するか否かのベンチマークが長髄彦がどの時代に書かれているかでわかる重要な点ですが、中々ヒットしません。
で、調べ方を変えてみました。
安日彦と同一視されていますよね。
読み方はヤスビヒコではなくアビヒコが正しいと思います。
これで同一視をしてる伝承がないか検索したらwwwあったwww
大彦系と言われる阿部氏ですが、蝦夷にされた事によりうまく隠されていると思われますが、安日彦がキーワード。
大彦と安日彦なら同一人物説がちゃんとあります
抜粋コピペ
鎌倉〜室町期成立の『曽我物語』に蝦夷の祖を流罪にされた鬼王安日とする伝承が記載されている。長髄彦の兄とされ、彼と共に青森県の弘前に逃れたとも、単独で津軽地方に流されたとも伝わる。ただし古事記や日本書紀に安日彦の名は乗っていない。
ちなみに文献学的には、長髄彦の兄とする記録よりも、「安日長髄彦」という名で同一人物であるとする記録のほうが古く、後者が原形であると推測される。
抜粋終わり
安日彦は、アビ彦と読むのが正しいらしいです。
後に阿東氏の一部が昔の阿部姓に戻して鳥取の淡島神社近くに住み着きましたが、大彦=中曽根彦伝承を今に伝えていますので、同一説は出雲以外の第三者によっても補完されていることが分かります。
稲荷山鉄剣の被葬者が、アビの系列であることがわかり、埋葬時点で日本海側の高橋家とも通じていたことが説得力を増します。
さらに、三島の地籍が残る阿武山からはフル式の土器が出ていますが、あの土器の最古の編年が何と180年代
183年の大彦退却の伝承と、土器の編年が恐ろしい確度で一致し始めています
中曽根大根彦
これが二つに分けられて、長髄彦と大彦になったのでしょうね。
本名が、一番の爆弾www
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おお〜安日彦ですか、なるほどなるほど!
大彦は阿部を名乗っていますから、アベ彦=アビ彦となったのでしょうか。
こちらの話が微妙に富家伝承とリンクしていて、でもチグハグで、ちょっと面白いです。
https://omouhana.com/2018/04/20/大倭神宮/
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アメフトの関西学院。
あの学校は面白くて、本当は「くぁんせい」学院と言わねばならないらしいですね。
昔は50音順ではなく、母音が多かったと。
いろは歌を作ったのが人麿でしたっけ?
そういった意味では凄い人を先生は題材にされましたね。
アビとアベ。その変化にいろは歌が関連していると思うと感慨深いです。
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文字の中に意味を含む日本語は、世界の中でも特殊なのだとか。
言霊の秘密は、豊富な母音にあるのでしょうね。
それにしても父音ではなく母音、古い和の心には母系社会の痕跡が残っていて嬉しいです♪
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大和神社は謎です。
そして、高龗神社と増御子神社という取り合わせが、個人的に絶妙すぎます。
私の1冊目の御朱印帳は出雲大神宮で求めたもので、亀甲の地模様にゴールドの龍と、亀甲の一部に玉虫色の花の紋が入っていますが、大和神社の近くの民宿に泊まった時、それまでの7年間で見たことのない、明るく冴えた輝きを放ってました✨ 出雲大神宮では、授与所の巫女さんがさらさらと御朱印を書いて下さって、大和神社では、境内を箒で掃いていた若い女性が、大和神社・高龗神社・増御子神社の御朱印を、じっくりと時間をかけて書いて下さいました。
関係なさそうな余談ですが、私は鹿島神宮にも香取神宮にもまだ行けておらず、この出雲大神宮で求めた御朱印帳には、側高神社と秩父神社の御朱印が並んでいる箇所があります。寒川神社の御朱印も入っています。
そして、この御朱印帳の表も裏も埋まった時に、希望すれば出雲大神宮で感謝のご祈祷をあげてくださると書いてありました。(当たりくじを引いた気分)
饒速日と大彦について、なんとなく静神社の神主さんの語りをお聞きしてみたい気がしています。
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その身をボロボロにしながら、大和大国魂神を奉じたという渟名城入姫は渟名底仲姫の事かもしれません。
彼女は大和の創始者といって差し支えない出雲系のクシヒカタの娘になります。
渟名井とは「清浄なる井」のことで、龍神信仰のある出雲族のこの姫が龗祭祀の最初なのかもしれませんね。
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だいぶ前、テレビで見たのだったか何か本で見たのだったか、「今でも生駒の人は、敵を何とか追い払おうと戦ってくれたナガスネヒコに感謝しており、慕っている」というのを見て、当時、古事記の知識しか持たなかった私は「へー、そうなんだ」と感心した覚えがあります。
富家の血を引くことを誰よりも誇りとしていた大彦が、出雲の本家から「以後、富家を名乗るな」と命じられたということを大元出版の本で読んだときは何だか気の毒に思ってしまいましたが、この時は出雲の本家でも「力をつけた親戚には気を付けよう」「目立たないようにしよう」とし出した頃だったことを思えば、「富家を名乗るな」は、ギリギリまで善戦をして目立ちまくった大彦だからこそ、目立たないようにしてうまく生き延びろ、と案じてのことだったのかもしれないですね。
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なるほど、たしかにそうなのかもしれません。
実際、大彦は逃れ生き延び、多くの子孫・氏族を残しました。
その時のことがなければ、今の日本もなかったのかもしれませんね。
そういえば、寒川神社創建は大彦の子孫が絡んでいると思われます。
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