葛木坐火雷神社:八雲ニ散ル花 30

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磯城に設けられた仮の舞台の上で、巫女が舞っていた。
空を見上げれば、暗闇を押しのけるようにオレンジの光の帯が見えいる。
夜通し続けられた祭りはクライマックスを迎えていた。

「村雲様、大王のご就任おめでとうございます。」
「うむ、出雲王家の其方らが我が王国に順うてくれるはありがたい。
其方の妹御を妻に迎え、彼の山に出雲の女神を祀らわせるは、我の気持ちと受け取ってほしい。」

舞を踊っているのはクシヒカタの妹、五十鈴蹈鞴姫である。
彼女は大王となった天村雲の名の下に、三輪山に出雲の太陽の女神を祀る巫女となり、最初の祭りが執り行われていた。
その場所はクシヒカタが屋敷を移した磯城である。
そこへ海家の天村雲と高鴨家の多岐津彦らとその重鎮達が集まっていた。
この祭りは、村雲の大王就任の舞台でもあった。

「知っての通り私の祖母は出雲王の姫君である。海家と出雲家、わだかまりを捨て、この王国を共に繁栄へと導いてはくれまいか。」

クシヒカタと多岐津彦は、大挙して押し寄せて来た海家の王を、葛城の大王として認めないわけにはいかなかった。

「我々から恭順の証に、大王に捧げる貢物がございます。」

村雲大王の前に細長い木箱が運び込まれた。
従者がその蓋をあけると、中には磨かれ、炎の光にまばゆく反射する一振りの剣が収められていた。
おお、と感嘆の声をあげ、大王はその剣を手にする。

「出雲の砂鉄を鍛え上げました、最上の剣にございます。大王の世の繁栄を願い剣の名を『天ノ村雲の剣』と命名させていただきました。」
「うむ、素晴らしい。これほどの剣は見たことがない。」

大王はさらに立ち上がり、剣を振りかざした。

「海家と出雲家の皆よ、よく聞くがよい。我はこれより、両王家が為すこの国の王となる。
我らが王国の新たな名は、大いなる両王家の和合を示す『大和』とする。大和の国民たちよ、我らが王国に永遠の繁栄をもたらそうではないか。」

ごう、と歓声が鳴り響く中、背後の三輪山に昇る太陽の光が差し込む。
それはまさしく、大和のあけぼのであった。

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紀元前2世紀の初めの頃、クシヒカタ、多岐津彦が葛城に移住して出雲勢力を広げ始めた時、海家出身で丹波国主となつた「海ノ村雲」(アメノムラクモ)王も、大和地方が「敷き島の国」(和国列島)の都にふさわしいと考え、移住を決意しました。
彼らの集団が移住した先は、葛城の笛吹村付近であると伝わり、そこに火雷神社を建てたと云います。

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「葛木坐火雷神社」(かつらきいますほのいかづちじんじゃ)は、葛城市笛吹にある神社です。
葛木坐火雷神社の元々の祭神は「火雷大神」(ヒノイカヅチノオオカミ)で、後に笛吹神社の祭神である天香山命に合祀されたと社伝は伝えています。

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案内図に、境内を入ってすぐ左手に「波々迦木」(ははかのき)があると記されています。
天皇が御即位された年の新嘗祭は大嘗祭といいますが、その時の斎田の土地は占い(=卜定)で決められます。
その卜定には、当社の神域に生える波々迦木が用いられましたと云います。
近年、自然環境の悪化により数が激減していたそうですが、日本製紙の協力によって増殖に成功し、現在は苗木を育成しているということです。

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村雲の父「香語山」は数千人の秦族を引き連れ、出雲から丹波地方に移住しましたが、丹波から葛城への移住の時も秦族の人々が武装して移動しました。
彼らは船で琵琶湖を進み、宇治川から木津川を通って葛城山麓に達します。
その後3,4年かけて、一万人前後の丹波国の人々が、葛城とその周辺に移住したと云います。

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その結果、先住の出雲勢よりも、丹波勢が数の上で優勢となりました。
その時点で、登美家や高鳴家も、村雲王を葛城の大王(おおきみ)として認め、ここに葛城王国が成立します。
いわゆる大和王朝が誕生したのです。

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記紀には、筑紫の神武が東征をし、大和の橿原宮で大和王朝を立ち上げたことになっていますが、これにより村雲王の名は歴史から隠されてしまうことになります。
神武という人物は、「天村雲」と一次物部東征軍の「宇摩志麻遅」、二次物部東征軍の「イクメ王」を合わせて創り上げた架空の人物でした。

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「宋史・外国伝」に、「天村雲尊」の名が記されています。
天村雲命の宮所は、鴨都波神社の北西「笛吹」の地でした。
その周辺は「高尾張邑」と呼ばれていたので、海家は尾張家と呼ばれるようになります。
この尾張氏は、後に笛吹連と呼ばれる一族と同族であると云います。

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石灯籠が並んだ大きな階段を上ると、

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神社には不釣り合いな物がありました。

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日露戦争で政府から与えられたロシア製大砲だそうです。

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日本書紀(神武即位前戊年九月)に「高尾張邑に、赤銅の八十臭帥あり」と書かれたのは、この尾張家の人々であり、赤銅とは銅鐸を祭るので言われたというとらしいです。

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海家の村雲王は、のちに「海」を「天」の字に変えられました。
その「天」の字が、天孫降臨説話に利用されたと云います。

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記紀にヤマトタケルの東方遠征が書かれ、三種の神器の一つ「天叢雲剣」の剣の名前が「草薙ノ剣」と変えられます。
しかし富家の伝承では、天村雲が大和の初代大王に就任した時、祝いとして出雲王が贈った剣が、「村雲ノ剣」だと云うことです。
記紀では、初代大王を「神武」という架空の王に変えましたので、「天ノ村雲」という名前のために、「初代神武」の存在が疑われるのを制作者は恐れた、と云います。

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葛城(尾張)王朝はやがて磯城(登美)王朝に変化していきます。
しかし「村雲ノ剣」を尾張家が持っていて、磯城家には渡しませんでした。
それで磯城王朝では、曲玉の首飾りを作り、王朝の王位継承のシンボルに使ったと云います。
また、和歌山市の日前神宮の話によると、石凝姥命が鏡を造り、姫巫女に捧げましたが、それが今は伊勢内官の神宝となっている、と云います。
こうして今の天皇継承に必要な、三種の神器は生まれました。

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「村雲ノ剣」は2代目「沼川耳」大王から尾張家が受け取り、熱田神宮に移して、境内の八剣社に神宝として奉納し管理しました。
古事記の話では、ヤマトタケルが伊勢内宮の大和姫から「叢雲ノ剣」を借りたと記しています。
ヤマトタケルが「相模国」の野に入った時、そこの国造により野の草に火を付けられますが、その窮地をヤマトタケルは剣で野の草を薙ぎ捨て、焼死をまぬがれたと云います。
これが叢雲ノ剣を「草薙ノ剣」と呼ぶようなった由来としていますが、ところがその同じ本に、その場所は(駿河国の)焼津だ、と書いています。
相模と駿河、古事記の筆者は、この話が作り話であることを示すために、わざと地名を間違えた振りをしたと云うことです。

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古事記のヤマトタケルの話では、東国から帰る途中に、尾張国に来て「宮簀姫」(ミヤスヒメ)の許に泊まることになります。
そして、ヤマトタケルは姫と結婚の儀を行うと、草薙ノ剣を姫の許に置いたまま、伊吹山の神を倒すために単身出発します。
伊吹山の神を倒すことに失敗したヤマトタケルは、これがきっかけで亡くなってしまいますが、残された宮簀姫は尾張の地に草薙ノ剣を祀り、そこに後の子孫が熱田神宮を建てました。
それが、そこの八剣社に、草薙ノ剣が保持されている理由だ、と古事記は見せかけているということらしいです。

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境内の階段を登り詰めると、狭い敷地に迫るように社殿が建っていました。

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葛木坐火雷神社の祭神は「天香具山命」と「火雷」とされています。
天香具山命とは村雲大王の父「香語山王」のことです。
村雲大王が笛吹の地で父を祀ったのが当社だと云います。

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「火雷」(ヒノイカヅチ)の神は「火之輝具土(タタラ)の神」でもあり、「火野威加槌(鍛冶)の神」でもあると云います。
表現は二通りですが、両者とも金属精錬の神だと云うことです。
それが後では、雷神にもなったと伝わります。

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火雷神社の案内板には、「天香具山命は音楽と製鉄の神である」と書かれています。
尾張家は、登美家とともに大和でも製鉄を行いました。
また当社の旧記には、「笛吹連の祖・櫂子はホアカリの子孫であり、タケハニヤス彦を征伐して功績がある。大王から天磐笛を与えられ、笛吹連の姓を名を与えられた」とあるそうです。
故に香語山の子孫は「笛吹連」と呼ばれ、地名が笛吹となりました。
この頃には陶損は使わず、竹笛を使うようになったと伝わります。

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こうして出雲人集団と丹波人集団とが協力して作った政治的共同体が、大和王国でした。
しかしこの頃の大王の支配地は、まだ大和地方とその近辺のみであったそうです。
「後漢書」は記しています。
「当時は和国には、漢と通じる国だけでも30あまりの国があった。その各国に王がいた。その中で大王は大和国にいた」と。

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本殿の裏手に行くと、古墳がありました。
「笛吹神社古墳群」と呼ばれるものの一つであり、その盟主と考えられる古墳だそうです。
それらの多くは、破壊されたり、未調査だったりしたそうですが、笛吹遊塚古墳からはミニチュア炊飯具が出ていると云います。

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笛吹神社の石室の実測図によれば、玄室の長さは6.41m、奥壁での幅は2.41mで高さは土砂に埋もれているため不明。
玄室のほぼ真ん中には、刳抜式の家型石棺が置かれているが、奥壁からの土砂により身の部分と蓋の三分の一が埋まっていると云います。
神社が保護しているため、現在この石棺を見ることはできないようです。
笛吹神社古墳の被葬者は、鉄器生産の工人集団の首長か、もしくはそれに匹敵する身分の人物と考えられているそうです。

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当社旧記によれば、「尾張家の血を引く御子の大彦命は、笛吹連とともに侵入軍と戦った」と記されているそうです。
笛吹の東北「曽大根」(大和高田市)で育った大彦は、「中曽大根彦」(ナカソオネヒコ)と呼ばれますが、彼が記紀に悪名高き「長髄彦」(ナガスネヒコ)その人でした。

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