島大國魂神社 / 阿麻氐留神社:筑秦ノ饒速日 01

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荒ぶる玄界灘の上にその男はいた。
彼はこの先の行く末を占うかのように、星空を眺めていた。

(此度の渡海は失敗だった。)
彼は心中でそうつぶやいた。
男は大義を背負って旅に出たが、それを果たすことはできなかった。
「海の上には三神山、すなわち蓬莱、方丈、瀛州 (えいしゅう)があり、仙人が住んでいて、もし仙丹を手に入れることができれば長生不老になれます。 」
彼は彼の主王に告げ、その命令で、大和に不老長寿の妙薬を得ようと渡来した。
彼の主王とは中華秦国の始皇帝「嬴政」(エイセイ)であった。
彼の名を「徐福」(ジョフク)という。
徐福は朝鮮半島を経て、出雲にたどり着いた。
その航海は、命がけのものであった。

目を瞑ると、彼の脳裏に映るのは、平和でおおらかな、出雲王国の人々の面影であった。
出雲で暮らした穏やかで幸せな日々こそ、長生不老の源ではないだろうか、徐福はそんな思いに駆られていた。
皇帝に殺されるかもしれないとの思いを抱いた徐福は、彼の故郷の子供達2000人を理由をつけて連れ出した。
彼らを出雲へ連れてこられたのは幸いだった。

と、徐福は一度秦国へ戻ることを決意する。
出雲王の娘を妻に貰い受け、男児をもうけた頃のことである。
妻と子を出雲に残していくことが気にはなったが、再び始皇帝の前に立つことは、死をも覚悟することだった。
それならば、あの平和な出雲王国に残して行くほうが安心だ。

ただ一つ気になることがあった。
妻子を任せるために置いて来た穂日の親子のことだ。
穂日らは忠実な部下ではあったが、野心も強かった。
世話になった出雲の王家に、仇なすようなことがなければ良いが。
その不安が形を為すように、玄界灘は激しく荒れている。
今となっては彼らを置いて来たことに、徐福は少し後悔の念を抱いていた。

海洋に浮かぶ道教の方士「徐福」とは、出雲では「火明」(ホアカリ)と呼ばれ、
後に筑紫にあって「饒速日」(ニギハヤヒ)を名乗り、記紀ではアマテラスの弟、出雲の英雄神として語り継がれることになる「スサノオ」、その人だった。

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【阿麻氐留神社】
上対馬と下対馬のちょうど中間あたりに「阿麻氐留神社」(あまてるじんじゃ)があります。

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382号線沿いに参道があり、つい通り過ぎてしまいそうになります。

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ここは対馬下県主たる「天日神命」(アマノヒノカミ/アメノヒミタマノミコト)が住まわれた土地であると伝わります。

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天日神命は「天照魂命」(アマテルミタマノミコト)とも呼ばれ、高御魂尊の末裔で、皇孫降臨の時にお供奉った神とあります。
高御魂尊とは「高皇産霊」(タカミムスビ)のことと思われ、徐福の母親であると考えられます。

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つまり天日神命とは「天照国照彦天火明尊」(ホアカリ)であり、徐福のことである可能性が濃厚となります。

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徐福は最初の来日で出雲西岸に上陸し、「火明」(ホアカリ)と名乗りました。
この時徐福は2000人の童男童女を連れて来たとありますが、その先行部隊に出雲国造の祖「天穂日」(アメノホヒ)とその息子「武夷鳥」(タケヒナドリ)がいました。

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徐福は8代出雲王「大国主・八千戈王」の娘「高照姫」(タカテルヒメ)を妻にもらい受けます。

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高照姫は徐福の子、「五十猛」を儲け、徐福はしばし穏やかな日々を過ごしますが、唐突に秦国へ帰国してしまいます。
始皇帝は容赦なき暴君として語り継がれています。
不老不死の霊薬を見つけることなく帰国すれば、徐福は死罪になるかもしれないのにです。

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【那須加美乃金子神社(小鹿/志多賀)】
上対馬に「神山」と呼ばれる不入の禁足地「霊山」があります。
スサノオが子の「五十猛命」(イタケル・イソタケル)と共に、この山に八十木種を植え、人が入ることを深く禁じた神霊の地であると云います。
この神山を挟むように、小鹿と志多賀に同名の「那須加美乃金子神社」(なすかみのかなこじんじゃ)があります。

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小鹿の那須加美乃金子神社は民家の中にありました。

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日本書紀は「一書に曰く」として、スサノオは高天原を追放された時、子のイタケルを連れて新羅の国のソシモリに渡ったと伝えています。
スサノオは、「この土地(新羅)にはいたくない」と言って、土で船を造り、それに乗って、再び海を渡ります。
そして着いた所は出雲の国の鳥上山であると云い、そこは、人を呑み込む大蛇が棲まうところでした。

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志多賀の那須加美乃金子神社は山の麓にあります。
ここは木の神にふさわしく、木々に覆われた場所でした。

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イタケルが天降るとき、たくさんの木の種を持ち出したそうですが、これを新羅では播かずに、すべて日本に持ち帰って日本の国中に播いて、国土を全部青山にしてしまったと云います。
イタケルは植林の功により、有功(いさおし)の神とされ、木の国(紀伊国)に鎮座する大神となったと日本書紀は伝えています。

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神山は、スサノオらが植樹した山であり、伐採してもかまわないが、根を掘って樹種を絶やすようなことをすると、おそろしい神罰が下ると伝わっているようです。

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【那祖師神社】
対馬北端の豊には、ソシモリに縁あるという「那祖師神社」(なそしじんじゃ)があります。

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ソシモリとは一般には朝鮮半島の新羅の地名だと解釈されています。
故にスサノオは朝鮮からやってきた渡来人だという説を多くの研究者が唱えています。
しかし実はスサノオは、中華秦国から渡来した徐福のことでした。

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これは時の右大臣「藤原不比等」が記紀を編纂することになった時、穂日家の子孫、出雲国造果安は右大臣を新羅の渡来人の末裔だと勘違いし、媚びを売るため、自分たちの祖神を新羅由来の神であると日本書紀に記させた事によります。
つまり果安の浅はかな野心が、現代までの古代史研究家を欺いてきたことになります。

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那祖師とはソシモリを表しているという話があります。
そこにスサノオを祀る「島大國魂神社」とイタケルを祀る「若宮神社」が合祀されていました。
この二社は対馬の北端にある禁足地に祀られています。

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日本書紀は更に「一書に曰く」として、次のように続けています。
スサノオは、「韓郷の島には金銀がある。わが子が治める国に船がなかったら困るだろう」と言ってひげを抜き放ちました。
するとそのひげが杉の木になり、胸毛を抜いて放つと檜に、尻毛は槙に、眉毛は樟になりました。
「杉と樟は、船を造るのによい。檜は宮を造るのに、槙は現世の国民の棺を造るのによい。たくさんの木の種を播こう」
そしてスサノオの子ら、イタケル、オオヤツヒメノミコト、ツマツヒメノミコが木種を播きました。

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徐福と渡来人の一行は、日本に様々な植物の種を持ち込みました。
そのためスサノオが植林の神と呼ばれるようになります。
しかしその子である五十猛は出雲で生まれており、まだ幼く、ソシモリに渡ったとは考えられません。
五十猛は日本に残り、後に大屋姫との間に紀伊国国造となる「高倉下」(たかくらじ)を儲けます。
また穂屋姫との間には、大和王朝初代「天村雲」王を儲けることになるのです。

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【島大國魂神社】
対馬の北端に地元の人は絶対に立ち入らないという聖地があります。
その聖地は「島大國魂神社」と言われていますが、社殿などはありません。
豊漁港から、磯沿いに歩いていきます。
それはこのように、岩場と海に足を取られかねない、かなり危険な行程です。

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やがてその聖地が見えてきました。

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そこには白水山という丘があります。
シレイとも呼ばれる小島が「島大國魂神社」です。

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砂州で一応繋がっていますが、そこへ辿り着くのはかなり困難です。

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島大國魂神社は石碑があるのみで、何もありません。

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その白水山からは、白い水が流れると云います。

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石碑の先には「不通浜」(とおらずがはま)という砂浜があります。
ここはスサノオが通った場所として強力な禁足地・絶対タブーの地となっています。
その浜を通ると、「シケになる」とか「腹痛になる」という伝説があり、地元の人は絶対に通らないそうです。
昔、禁を破った兵隊が戦地へ向う船の中で腹を壊して死んだと伝わります。

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スサノオはソシモリへ向かう途中に対馬を通ったとありますが、実際は秦国へ帰国する途上で立ち寄ったものと思われます。
始皇帝に謁見した徐福は、一度は嬴政の機嫌を損ねるも、言葉巧みに説得し、再び多くの童男童女や工人らを引き連れて日本へやってきます。
二度目の上陸地は九州の佐賀平野でした。
彼はそこに集落を拓き、そして二度と秦国へ帰ることなく、吉野ヶ里の里で寿命を全うしたと云います。

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富家伝承の話の中で、徐福は日本の王になろうとして二度渡来したとありますが、彼自身の伝承地に争いの形跡はなく、また王になろうという男が命がけで帰国する理由が見当たりません。
おそらく徐福は王になろうとしたのではなく、純粋に道士としての探究心のみで渡来したのではないでしょうか。
そして二度目の渡来地は、秦に滅ぼされた徐福の故郷によく似ていたと云います。
野心を抱いていたのは、彼が連れてきた者たちの中にあり、当の本人はただ安らぎが欲しかっただけなのかもしれません。

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「不通浜」へ至る岩浜の手前には、緑の美しい、楽園のような湿地帯が広がっていました。

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