
諏訪大社 上社本宮から北へ約500m、田んぼと側溝の間に、小さな神社があります。
写真に少し見える田は神田で、諏訪上社の御田植祭が行われています。

この社は、諏訪大社 上社摂社の「藤島神社」で、タケミナカタが諏訪入する時に、国津神の洩矢神と相争ったと伝える神社です。
この時、タケミナカタは藤を手にし、鉄器を持った洩矢神を降伏させたと云います。
のちにタケミナカタが手にしていた藤を植えた(あるいは投げ捨てた)ところ、たちまち繁茂して藤の木となったというのが社の由来です。
中世では田植祭の前の3日間に御作田御狩が行われ、狩猟された生贄が藤島社前に奉納されました。



諏訪の「藤島神社」はもう一社あり、こちらは天竜川沿いに鎮座しています。

この町角にある小さな社は、石室を備えた円墳(荒神塚古墳)の跡で、出土品もあります。

古墳の方は、もはや原型はなく、三角地の塚と成り果てていました。

タケミナカタと洩矢神は、川を挟んで戦ったと聞いていましたが、最初に訪れた藤島社の側溝がそれか?と首を傾げていたところです。
なるほど天竜川なら、伝承にもぴったり。

それでは洩矢神社も挨拶していこう、と天竜川を渡って訪ねてみたら、

なんじゃこら。

あまりに立派で、ふんぞりこけてしまいました。

言わば、洩矢神は負けた側です。勝った側があんなしょぼい(失礼)社で、負けた側が堂々と立派に祀られているということに、驚愕です。

そして社紋ですが、これは「丸に一つ柏」となります。

長野伊那市高遠町の「物部守屋神社」社紋が「丸に三つ柏」。これは、narisawaさんも指摘されていましたが、

これに似ているよねー。
徳島県美馬市に鎮座の、メノラーに似ているとすこぶる評判の「倭大国魂神社」(やまとおおくにたまじんじゃ)の社紋です。さらに、

ヒミコの墓があるってもっぱら評判の徳島市国府町気延山の中腹にある「八倉比売神社」(やくらひめじんじゃ)の社紋がこれですわ。

ちなみに諏訪大社の社紋は梶の葉で、柏も梶も古くから神前に供える「幣」として使われきた植物なのだそうです。
また梶の葉紋は、阿波忌部氏の家紋にも使われているのだーーー。
なんか見えてこない?

僕はタケミナカタが諏訪入りした時、抵抗を見せた原住民の洩矢族は、どちらかと言うと原始的な人たちだろうとイメージしていました。
しかし洩矢族は鉄製の輪を手にして戦い、対してタケミナカタ勢は藤の木で戦ったと云います。どちらが原始的なのだろう???

そもそも、本当に洩矢族は抵抗して、タケミナカタ勢と争いになったのだろうか。
タケミナカタはフロンティア的に諏訪入りしたのではなく、ある一族にエスコートされて諏訪入りしたのではなかったか。お后まで用意されて。
そして洩矢族は、エスコート側の一員だったのではないでしょうか。

そう、ずっと古い時代に、諏訪には四国系の越智族が天竜川を遡って定住しており、八坂刀売(やさかとめ)はその一族の姫だったのではないかと僕は考えています。
八坂は弥栄(いやさか)で、弥彦(弥栄彦)にも通じるのではないか。
そうすると、この天竜川の辺りに、洩矢神社が鎮座しているのも納得です。

言い伝えによると、洩矢社は元々は、さらに天竜川のほとりにあったといいます。境内にある藤の木が対岸の藤島神社の藤の木と絡み合い、大きい橋に見えるほど繁茂していたそうです。
寛文年間(1661年~1673年)の頃、諏訪藩主は天竜川の蛍狩り遊覧のため藤を伐り払うように命じましたが、人々は神の祟りを恐れて伐る者はいませんでした。
そこで、新屋敷の小石嘉右衛門という傲慢な人が山役の料(蔵米三升)二人分を条件に藤を伐採したところ、間もなく気がおかしくなってしまいました。
京都の吉田家に祈祷してもらい、少し収まったそうですが、ある日、祈祷の札を頭にのせて家を飛び出し、「半の木」という山腰で突然倒れて死んだといいます。
命令を下した藩主にも祟りがあり、城内で祠を作らせて奉納されたのが現在の本殿であるといわれているそうです。

それにしてもやたら絵馬が奉納されているなと思ったら、東方の聖地でしたか。
洩矢諏訪子さま、僕も幻想郷に行きたい。

narisawa110
実はですね、諏訪から小淵沢方面の諏訪神社の神紋は、立ち梶である事が多く、千鹿頭神社と常州方面に重層関係を作り、三才山神事も行われています。
お社には、天狗のお面がついている事が多く、原村から東は別の文化を感じさせます
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