「御名方様、洩矢の長老が話に応じると言ってきました」
「そうか、わかった」
タケミナカタらが諏訪にたどり着いた時、先住の洩矢一族の激しい抵抗を受けた。
「彼らの抵抗を受け流すのだ。決して殺しても、殺されてもならぬ。遺恨を残さぬよう留意し、彼らの敵意が収まる時を待つのだ」
タケミナカタは洩矢一族を力で制圧しようとは考えていなかった。
彼は出雲王家の先代に倣って、言葉で統治することを望んだ。
そしてタケミナカタに武力制圧の意思がないことがわかった洩矢の長は、夕刻の頃、頭を下げにやってきた。
「儂らはこの辺境の地で、平穏に暮らしとったので、あなたらの軍勢が武力で攻めてきたと思い、血が昇りました。
しかしあなたなら、儂らなどあっという間に倒せたでしょうに、そうなさらなかった。
あなたはこの洩矢の土地と民を、どう為さりたいのじゃ」
「これを」
そう言ってタケミナカタが差し出したのは、鉄で出来た筒のようなものだった。
「これはサナギという、我らが祭祀の際に使う神器です。
本来は銅で作りますが、これはこの先の山から採れた砂鉄で作りました。
あなた方も鉄を採るようだが、量は僅かばかり。
我らのやり方で鉄を採るなら、この土地はますます栄えましょう。」
長老はサナギと呼ばれた鉄鐸を手に取り、まじまじと眺め見た。
「これほど良質な鉄が、この山から作れると申されるか」
「さらに、あなた方は狩で食を得ているが、我らは稲作の知識・技術も心得ている。
ここで稲作を営めば、飢えることもなくなります。
今、西の地では大和という国が出来つつあるが、私はここに、大和に負けない強大な国を造りたい。
その手助けを洩矢の民に手伝って欲しいのです。
共に、王国を築いてはもらえまいか」
長は平伏した。
「確かに儂らはいつ飢えるともしれぬ生活をしてきた。
民が潤うなら、これほどありがたい申し出はございませぬ。
しかし儂らは先祖から受け継いだ土地と信仰を失うわけには参らぬのです」
「洩矢殿、顔を上げられよ。
もちろんあなた方の聖地を、我らが穢すことは致しませぬ。
あなた方の聖地はあなた方で守っていけば良い。
しかし祭事は統一せねばなりません。
洩矢の神と我らの神を等しく奉る、新たな祭事を始めていけばよい」
「ありがたき…」
そう口にしながら、長は手にした鉄鐸を頭上にあげた。
「祭事には両の民にもわかりやすい、神体が必要であろう。
太く、天高き神柱を、そうだな、我が両親神と洩矢の両親神、4本の柱を立てて祀ろう。
これは男どもの腕力が試される、盛大な祭りとなろうぞ。」
タケミナカタは大きく笑った。
つられて長も、付き添いの者らも顔がほころんだ。
諏訪湖の湖面には、宵の月が揺れ映っていた。
日本のへそ、「諏訪湖」へやってきました。
海抜759m、1周約16kmの諏訪湖は、信州で最も大きな湖です。
映画「君の名は。」でも、ロケーションのモデルに選ばれたそうです。
湖畔にはボート乗り場や散策コースがあり、無料の駐車場も数カ所用意されています。
そこに一体の像がありました。
僕はタケミナカタの母「沼川姫」の像かと思いましたが、違いました。
人形浄瑠璃の演目「本朝二十四孝」に登場するヒロイン「八重垣姫」のものだそうです。
上杉謙信の娘、八重垣姫が、婚約者「武田勝頼」のために兜を持ちだし、兜に宿った諏訪明神の力によって、狐(火)に導かれて諏訪湖を渡ってゆくシーンを表しているのだそうです。
この話は、冬の神秘、諏訪湖の自然現象「御神渡り」(おみわたり)をモチーフにしたと思われます。
近年の温暖化で、その姿を見るのは稀となってきていますが、凍てつく冬の日に湖面が凍り、押し上げられた氷の亀裂が湖面を走るというもの。
伝説では、この御神渡りは上社の男神が下社の女神のもとへ逢いに出かけた跡だと云われ、神事も執り行われています。
いつか僕も、その姿を見てみたいと思っています。
「諏訪大社 上社 本宮」へやってきました。
父・事代主を殺され、支那秦国の渡来人との共生を嫌ったタケミナカタは、母・沼川姫とともに母の故郷、越の糸魚川へ移住しました。
その後、タケミナカタは自分の王国を作るため南下します。
途中、「生島足島神社」の地に出雲の幸神(サイノカミ)を祀り、その後、和田峠を通って諏訪湖へ至りました。
そこに第二の出雲王国「諏訪王国」を築いたと云います。
本宮の参道を歩いていると、「すわひめ」に出逢いました。
いわゆるご当地キャラです。
諏訪大社は「上社」(かみしゃ)と「下社」(しもしゃ)に分かれ、更に上社は「本宮」(ほんみや)と「前宮」(まえみや)、下社は「春宮」(はるみや)と「秋宮」(あきみや)に分かれます。
つまり諏訪大社は「二社四宮」でひとつとなります。
いずれの社も、諏訪湖畔から、ずいぶん内陸に入った場所にあるように思われますが、上古には湖面は今より上昇しており、平地部がほぼ水没していたようです。
つまり、元は上社と下社は諏訪湖岸に対峙するように鎮座していたということになります。
また上社・下社の両社は、当社の一大イベント「御柱祭」においても別かれて行われるので、諏訪人には、両社は実質的に二つ別の神社として認識しているのだそうです。
歴史的にも両社が対立していた時期もあったそうで、諏訪大社を四宮一つと考えると、正しく理解できない可能性があります。
また上・下というのは序列を表すものではなく、地形の高低による区別として用いられているということですが、知らぬ人はやはり社格の「上下関係」をイメージしてしまいますので、下社氏子としては面白くないところではないのでしょうか。
境内に入ると、さっそく大きな1本の柱が目に入ります。
御柱祭(おんばしらさい/みはしらまつり)は、諏訪大社における最大の行事で、正式には「式年造営御柱大祭」と言います。
寅と申の年に行なわれる式年祭で、日本三大奇祭のひとつとされます。
上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮ともに、山中から樅(もみ)の大木を各4本、御柱として切り出し、それぞれの宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする、勇壮な大祭です。
その祭りは「世界で最も危険な祭り」とも称され、死亡事故も後を絶ちません。
祭り序盤のクライマックスは、段差30mの崖の上から御柱を曳き落とす、豪快な「木落とし」です。
御柱に大勢の男たちがまたがりしがみつき、最大傾斜35°という崖を滑り落ちていくのです。
当然御柱から離れ落ちる男が続出で、場合によっては死亡につながる大怪我を負うことになります。
木落としを終えた御柱は宮川の川越しの中、清流に清められ、1ヶ月ほど休息をした後、境内に曳かれていきます。
到着した御柱は先端を三角の錘状に削りあげ、冠落としの儀を受けた後、垂直に立てられ御柱祭は終了します。
建御柱の前後に本来の式年祭といえる宝殿の造営がされますが、こちらは意外に知られていません。
原初の自然崇拝の形をとる諏訪大社には、本殿というものがありませんが、その代わりとなるのが宝殿です。
古代の神の祭祀には巨岩に神を出現させる磐座信仰と、巨木に神を降ろす神籬信仰がありますが、御柱祭りは神籬信仰の最たるものと言えるかもしれません。
では拝殿のある神域へ足を運びます。
と、ここで本宮の境内案内図を確認してみます。
4本の御柱に囲まれるように、社殿が立ち並んでいますが、斎庭を挟んで幣殿のある拝殿があり、その先には「神居」と記された杜があります。
ところが御神体を思わせる「神体山」というのは、拝殿の向かって右側にあり、また磐座と思われる「硯石」もそちらの方向にあるのです。
ネットで諏訪大社・上社本宮を検索すると、この神体山は地祇系古代氏族の一つ「守矢家」の聖地「守屋山」のことであるとする説が圧倒的に多く、地元でも常識とされています。
僕は本宮に至って、奈良の三輪山と同じく守屋山を先祖の神奈備とし、磐座としての硯石、神籬としての4本の柱、そして出雲大社や神魂神社のように御神体を横に拝するという形式をみて、なるほどな、としたり顔で納得したものです。
ところがあるサイトを見つけて、この僕のしたり顔は一蹴されてしまいました。
守屋山は諏訪大社の神奈備などではなく、神体山とされるのは「宮山」とされる山であり、それも後に失われた御神体の代用とされたもののようなのです。
「諏訪大社と諏訪神社」-八ヶ岳原人氏-
では諏訪大社の真の御神体とは何だったのか?
古来、諏訪大社・上社で祀られる御神体とは「大祝」(おおほうり)と呼ばれる現人神(生き神)であったと云います。
諏訪大社上社の大祝を務めてきた一族は「諏訪氏」と呼ばれました。
また、その血筋は古来「神氏」(みわし)といい、太祖を「建御名方」(タケミナカタ)であると言い伝えられてきました。
ついに来ました、タケミナカタ。
諏訪大社は英雄タケミナカタの末裔を代々祀ってきた、由緒ある古社だったのです!
となるはずでした。
しかし調べていくと、これはそう簡単な話ではないようなのです。
参拝所から拝殿を望みます。
手前に斎庭が広がり、静謐な空気に満ちています。
右手上部に磐座「硯石」が見えています。
祭神は神社明細帳によると、上社本宮と前宮は「建御名方神」とその妃神「八坂刀売神」(やさかとめのかみ)、下社春宮と秋宮は「建御名方神」「八坂刀売神」「八重事代主神」とされています。
しかし地元民の方たちは祭神を「諏訪明神」・「明神様」と言い、諏訪大社の公式HPを見ても、祭神の明確な記載はなく、タケミナカタの存在は極めて希薄なのだといいます。
これは一体どういうことなのでしょうか。
参拝所右手、宝物殿の横からは、四之御柱が見えていました。
斎庭の手前側に侘びた長い回廊があります。
そこを少し進むと「宝殿」があり、
「四脚門」(よつあしもん)と呼ばれる門があります。
この門は、徳川家康が大久保長安に命じて造らせたとあり、大祝だけがこの門をくぐり、先の最上段にある「硯石」に登ることができたと云います。
この硯石は諏訪明神が天降る磐座であり、大祝が神降ろしを行う場所だったと云われています。
四脚門から下った場所には「天流水舎」という諏訪の七不思議が伝わる建物があります。
どんな晴天の日でも屋根から雫が垂れるのだそうで、雨乞いのご利益があると云います。
タケミナカタの人物(神)像をもう一度確認します。
東出雲王国富王家が伝えるところでは、8代少名彦(副王)「八重波津身」(事代主)と越国の「沼川姫」との間に生まれたのがタケミナカタだったと云います。
彼は父八重波津身の暗殺をきっかけに、里帰りする沼川姫に付き添って、越国へ移住し、さらにそこから南下、そして第二の出雲王国とも呼べる「諏訪王国」を築いたのだと伝えられます。
しかし奈良時代に編纂された『古事記』には、タケミナカタはオオクニヌシの息子として登場し、国譲りを迫るタケミカヅチに喧嘩を売るもあえなく敗北、諏訪まで逃げて「ここから外へ一歩も出ないので命は助けてくれ」と命乞いする、情けない姿で記されています。
諏訪国は大和王朝時代から独立意識が強い国であり、大彦勢が移住してからも反抗勢力のるつぼとなったことから、信濃から東北にかけては「蝦夷」と呼ばせて、その勢力を貶める向きがありました。
古事記を製作するにあたっても、信濃に勢力を持ち、朝廷になびかない諏訪一族の地位を貶めるため、タケミナカタの敗走する姿を記したものと思われます。
この古事記によるタケミナカタの印象操作は功を奏し、諏訪人の意識から貴神の存在と尊厳を薄まらせることに繋がったのだと思います。
しかしながら古来より「関より東の軍神(いくさがみ)、鹿島・香取・諏訪の宮」と讃えられるほど、諏訪の神は武士の守護神・日本第一大軍神として武田氏、徳川氏ら戦国武将に信仰され、古事記の表記にそぐわない高い評価を得ていました。
開拓神タケミナカタのDNAは、時の朝廷の思惑に負けず、諏訪の地に流れ続けたのでした。
本宮の回廊は続きます。
神寂びた社殿を一つ一つ見て回るのは楽しいです。
古事記に父親と誤って記されている大国主を祀る社殿もあります。
摂末社遥拝所とされる建物の奥に、「神居」と呼ばれる杜が広がっています。
この奥にはかつて、大祝とともに御神体とされた「鉄塔」が建っていたそうですが、今は失われています。
本宮で行われる代表的な神事に「蛙狩」というものがあります。
これは諏訪明神が先住神を征服した姿を「ヘビがカエルを射る」という形で残した神事と思われます。
また本宮社務所で購入したものに、「薙鎌守」(なぎかままもり)というものがあります。
一見、奈良の大神神社などで発掘された、子持ちの勾玉に似ていますが、これは信濃に伝わる「薙鎌打ち神事」で使われる薙鎌を模しているそうです。
「薙鎌」とは鉄板でできた龍神に似せた諏訪明神の神器のひとつで、神事は諏訪大社式年造営御柱大祭の前年にあたる丑年に小倉明神で、未年に境の宮諏訪社にて行われます。
それは神域の大樹にこの薙鎌を打ち付けるというもので、信濃の国境を示し、諏訪明神の神威の直接及ぶ範囲を示す神事であったと云います。
古来出雲族には龍神(蛇神)信仰があり、さらに製鉄の技術に長けていました。
この二つの文化を諏訪にもたらしたのは、他ならぬタケミナカタであったと思われます。
この本宮にゆかりある二つの神事はタケミナカタの威光を示すものであり、そこにかろうじて、彼の痕跡を見ることができました。
開拓神としての地位を築き上げたタケミナカタ。
彼が諏訪の地にたどり着いたとき、彼らに立ちはだかった存在があったことを、諏訪の様々な伝承、そして上社の縁起が物語っていました。
その立ちはだかった神とは蛙狩神事に伝わる先住神「洩矢神」(もれやのかみ)、
又の名を「ミシャグジ神」といい、今尚諏訪人の心に信仰深く残る神なのでした。
回廊を抜けた先には
二之御柱と、
三之御柱遥拝所があります。
三之御柱は高い塀に囲まれ、神居の杜の外れにわずかに望み見ることができます。
参道の帰り道、美味しそうなところてんがありました。
一口すすると、瑞々しい甘ずっぱさが、心地よい食感とともに広がりました。