八倉比賣神社:八雲ニ散ル花 忌部番外篇06

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古の天地の初めの時、高天原に現れた神の名を天之御中主神(アメノミナカヌシ)という。

次に国が浮いた脂のように漂っているときに、葦の芽が生えるように生まれた神を國常立尊(クニノトコタチ)という。

その後 生まれた神に伊邪那岐神(イザナギ)次に妹の伊邪那美神(イザナミ)がおり、この二柱の神によって国土や海原、および山川や諸々の神が産み出された後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神(ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)という。

最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『羽々矢』(はばや)と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『天羽々矢』(あめのはばや)と『天麻迦胡弓』(あめのまかこゆみ)を納めるのに相応しい場所である」と申された。

よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。

そして二柱の神は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野」(やのの)と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉」(やのみくら)と呼んだ。また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉」(ゆみのみくら)という。

そして、二柱の神(松熊二神:手力男命と天宇受女命)はその後も此処に留り、御矢倉を御弓を守り続けた。

その後、比賣大神(八倉乃日靈大神)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天降った。最初は杉の小川の清き流れを見て「この川は深くて流れが早い」と申された。そのため、此処を「早渕の村」という。

このとき、大地主神(土宮)と木股神(御井神)が参上し、この河の魚を漁って献上した。すると、太神(八倉乃日靈大神)は「鰭(はた)の狭物と言うべき食物である」と申されたので、その河を「鮎喰川」という。

また、このとき(八倉乃日靈大神は)大地主(おおくにぬし)と木股神(きまたがみ)に「吾(われ)が住むのに相応しい場所に、汝らが案内せよ」と勅命を下すと、大地主神が答えて「ここより西方に朝日の真っ直ぐに刺し、夕日の日が照る気延の嶺があります。その地に先導しましょう」と申した。

すると、伊魔離神(いまりのかみ)という神が現れて、昼間に野で採れた五百の野薦(敷物?)や八十玉籖(玉串)など様々なものを献上した。それから、西方の杉の小山の麓に辿り着くと、天石門別が出迎えをした。

そこで、大神(八倉乃日靈大神)が「汝らは吾の言う通りにして待っていたのか?」と問うと、「はい、ここが神宣の通り御矢を納めた所でございます」と答えた。それを聞いた大神は褒辞を与えて、そこで一晩過ごした(このため「矢倉の郷」または「屋度利の社」という)。

なお、山坂を登って杉の小山を通って気延山に到ると、広浜神(ひろはまのかみ)が現れて時節の御衣を献上した。そのため、此処を「御衣足」(みぞたり)という。

ただちに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と廣敷を立て、高天原を装って天上のように鎮座した(なお、「天石門」(あまのいわと)を押し開くため「天石門別」(あまのいわとわけ)という。八倉の郷に居る姫御神であるために「八倉比売」(やくらひめ)という)。

この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(天エラキ楽?)を行った。その神々の集った所を「喜多志嶺」(きたしみね)という。また、その宴(嘘楽)に使った色々な物を納めた所を「加久志の谷」(かくしのたに)という。

そこで大神は「雲の居る 八倉の郷の 喜延山 下津岩根に 宮井そめとも」と歌を詠んだ。

その後、大泉神(おおいずみのかみ)が「天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また、小泉神田口の御田を献上して『御饌の御田(みけのみた)』とする。気延山は大日靈貴神の坐す所であるため『神山』とする」と勅命を発した。

これより後、二千百五年(2105)を経た小治田御宇元年龝八月(推古元年秋8月)に、大神(八倉乃日靈大神)は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して曰く「吾(われ)の宮のある場所は遥か高く急峻である。このため、神主や祝部、巫(みこ)などが参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山(杉尾山)は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない、正に良い場所である。そのため、この嶺に遷座することにしよう。吾(われ)は以前、天より持ってきた瑞の赤珠(みずのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あめのあかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は、諸々の邪鬼、妖怪および諸々の者に『これは病も厭う奇妙なる験(しるし)である』と教え諭してある。」と申された。

赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇め奉ったのはこれである。その印璽(みしるし)を埋めた所を「印璽の嶺」(しるしのみね)という(また「御石ノ峯」ともいう)。

このとき、神主や祝部らは大神の託した通りに遷座して奉ったという。しかし、神主らが「諸々の人々は、これを信じないだろう」と言うと、大神も「そうであろう」と申された。そして大神(八倉乃日靈大神)は「吾(われ)が御前の谷の水を逆に山の頂きから漑いで御田を作ろう、それを以って宮の食糧とせよ」と勅命を下した。

すると、一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至った。そして田の穂はすぐに成熟し、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を「左迦志麿谷」(さかしまだに)といい、その田を「志留志田」(しるしだ)という)。そのため、神主や祝部、および多くの若者は、その神宣が事実であったことに畏怖・畏敬を念を抱いたという。

遷座したのは九月十三日である、よって、この日を以って御霊の現れし日として奉るのである。云々

『天石門別八倉比賣大神御本記』(訳:人文研究見聞録 様)

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徳島市の西部「国府町」そこの気延山の中腹にある「八倉比売神社」(やくらひめじんじゃ)を訪ねました。
当社は、式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」の論社の1つとされています。

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山の麓は「阿波史跡公園」となっており、縄文期から古墳期までの遺跡が発掘され、古代の集落が復元されています。

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山深い中に忽然と現れる参道。
当社は鎮座する「杉尾山」自体を御神体とする神社であると伝えられます。

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江戸時代に神陵の一部を削って社殿が築かれており、その先の奥ノ院の神陵を拝する形になっています。

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祭神は「大日孁女命」(おおひるめのみこと)、一般に「天照大神」の別名であるとされています。

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天石門別八倉比賣神社略記によると、当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記』(やくらひめおおかみごほんき)には、天照大神の葬儀執行の詳細な記録があり、先導は伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長は大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)と記載され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは「嘘楽」と表記し、葬儀であることを示している、と云うことです。

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古代学者の折口信夫は天照大神を三種に分けて論じ、「阿波における天照大神は、水の女神に属する」として「最も威力ある神霊」を示唆し、当地に鎮座するものとしています。
訪ね損ないましたが、本殿より西北五丁余に五角の「天乃真名井」(あめのまない)があるそうで、元文年間(1736~1741年)まで十二段の「神饌田」(しんせんでん)の泉であった、と云うことです。

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また「八倉比賣」とは天照大神の別称と推察されており、一説によると、この先にある奥ノ院は「卑弥呼の墓」で、この阿波一帯こそが邪馬台国であると主張する向きもあります。
この一帯には数多くの古墳があり、そこから京都府八幡市から出土したものと同じ鋳型から作られた「三角縁神獣鏡」が完全な形で発見されているのもその根拠となっているようです。

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本殿の左側に回ると、なるほど古墳の一部を削って築かれたという感じが見て取れます。

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そして右側には例の奥ノ院へ続く道が設けられていました。

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先に言いますと、ここは天照大神の墓でもなければ、卑弥呼の墓でもありません。
阿波国は当然、邪馬台国でもないのです。

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和国駐在武官「ティシュン」から直接国印「親魏倭王印」を受け取った卑弥呼(比賣巫女)とは、宇佐王国の「豊玉姫」であり、彼女は安芸の宮島で死去し、大分の御許山に葬られました。

また、大日霊女は磯城大和王朝最後の大王「彦道主」の娘「サホ姫」のことです。
彼女は豊玉姫の葬儀を終えて大和入りした豊彦らに追われて、兄のサホ彦とともに近江から尾張へと逃亡しています。

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ではこの深い杜の奥にある奥ノ院、そこに眠るとされる人物は誰なのか?

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「奥ノ院」、それは社殿裏手へ約100mほど進んだ、標高116mにある丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳であり、後円部の頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれた場所のことです。

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上の青石の祠の中に祀られるのは、砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」と呼ばれるもの。

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社名にある「天石門別神」とは櫛石窓神の別称とされ、太玉命の子に当たると云います。
『安房斎部系図』には、「天背男命の后神が八倉比売神で、その子が天日鷲翔矢命」とあるそうで、天日鷲翔矢命は天日鷲命のことで「阿波忌部」の祖とされる神とされます。

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「八倉比賣」の「八」は出雲族の聖数でもあり、多くの倉を有する姫とも見て取れます。

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『天石門別八倉比賣大神御本記』の内容についてここで触れると、記紀に一部添いながらも阿波国独自の神話が綴られています。
この古文書は一般的に偽書とされていますが、記紀の編纂後に地元の伝承を踏まえて創作されたものでなかろうかと思います。
また、当社本殿には「出雲宿祢千家某」の謹書なる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵されているそうですが、まああの千家家のことですから、当地と関係があるとも思えません。

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あまり具体的な解決には至らないのですが、場所的に見ても、当地は出雲系阿波忌部の有力な比賣巫女がここに眠っているのではなかろうか、と思う次第です。
どう見ても「つるぎ石」は、出雲サイノカミの男女の石にしか見えないのですから。

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2件のコメント 追加

  1. Yopioid より:

    こんにちは。八がラッキーナンバーなんですね。広島県東部の備後の新市という場所で蘇民将来の護符を配っている神社の近くで働いていました。茅の輪くぐりの蘇民将来説話くらいまでしか知りませんが、蘇民将来と出雲の神々とは関係あるのでしょうか。ホームタウンの厳島神社の他に、神社にあまり興味を持たなかった事が悔やまれます。参考になる記事があったら教えてください。いつも面白い記事をありがとうございます。

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    1. CHIRICO より:

      おはようございます。
      以前製薬会社に勤めていた時、新市の素盞嗚神社には僕も度々参拝させていただきました。
      とても清々しい神社だったのを覚えています。

      蘇民将来の「蘇」の字は、イスラエルの「ス」を意味するそうです。
      つまり蘇民とは、ユダヤ人の子孫である秦族を示すものです。
      古代日本において、秦氏と呼ばれる民族が度々移住していますが、初期の秦氏は「海氏」(海部氏)と「物部氏」の2氏族がいます。
      彼らは支那国の「徐福」が連れてきたのですが、最初に2000人の童男童女を連れて出雲へ、次に3000人の童男童女を連れて佐賀へやってきました。
      前者が海部氏となり、後者が物部氏となりました。
      徐福は秦の始皇帝に不老不死の妙薬を探す命を受けて日本にやってくるわけですが、秦から来た民なので秦氏と呼ばれます。
      では徐福らは秦人なのかというと、実は秦に滅ぼされた「斉」という国の人で、斉人はイスラエルの失われた10支族の末裔なのだそうです。
      この辺が日ユ同祖論に繋がってきます。
      日本の古い神社で時折ユダヤの六芒星が刻まれているのは偶然ではないようです。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      『備後国風土記逸文』
      「備後国の風土記に曰く。
      疫隈の国社。
      昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。
      彼の所に将来二人ありき。
      兄の蘇民将来は甚だ貧窮。
      弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。
      ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。
      兄の蘇民将来は借したてまつる。
      すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。
      ここにおえて出で坐す。
      のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。
      汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。
      蘇民将来、答えて申ししく。
      己が女子、この婦と侍りと申す。
      すなわち詔りたまひしく。
      茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。
      詔にしたがひて着けさしむ。
      すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。
      すなわち、詔りたまひしく。
      吾は速須佐雄能神なり。
      後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      蘇民将来とはユダヤから来た民という意味が隠されていることになります。
      この徐福は出雲で「ホアカリ」と呼ばれ、佐賀で「ニギハヤヒ」と呼ばれ、また各地で「スサノオ」と呼ばれる神の正体です。
      彼が出雲に渡来する際、出雲王国の大国主に許可を求めたのが徐福の臣下である「天穂日」(あめのほひ)と「武夷鳥」(たけひなどり)の親子です。
      彼らは大国主の許可を得て土地を分けてもらい、様々な恩を受けておきならが、出雲王国を乗っ取るべく主王の大国主と副王の事代主を騙し、海の孤島の洞窟に幽閉し、枯死させてしまいます。
      その後も彼らの子孫「穂日家」は度々出雲を欺き、ついには王国滅亡に手を貸すことになります。
      穂日家はやがて出雲臣家を名乗り、今では堂々と出雲大社の社家として名を連ねています。
      古事記・日本書紀が制作されるにあたり、先祖の悪行を歴史から隠すため、時の右大臣「藤原不比等」に取り入り、出雲王国の史実を神話に変えて曖昧にし、自分らの祖神スサノオを出雲の神であるように仕組んだのです。

      出雲王国の滅亡、そしてヤマトへの神武東征に関わる事象として、筑紫平野に勢力を拡大させた「物部族の東征」の史実があります。
      物部氏は2度にわたってヤマト侵攻を行っていますが、第一次東征では四国沖を、第二次東征では瀬戸内海を進んでいます。
      この第二次東征の際に、備後国に攻め込んだ時の話が、蘇民将来の話に置き換えられたものであろうと思われます。
      またこの二次東征軍に宇佐王国の豊玉姫も加わっており、厳島の話につながっていきます。

      ユダヤの「過越し祭」というものがありますが、それは、『旧約聖書』の「出エジプト記」に由来するそうです。
      彼らがエジプトで奴隷になっていたとき、彼らの家の戸に羊の血で印をつけていたら、ヤハウェの神の災いが「過越し」たと云うものです。
      少数民族であったユダヤ人は大国に減ばされることを恐れたので、他の民族との混血を防ぎ、自分たちの民族が永久に存続するように印をつける習慣ができたそうで、自分たちの子孫を大切にするという考えが強かったのです。
      これが蘇民将来の元ネタです。

      稲荷社も秦氏が創祀したもので、赤く塗られた鳥居や社殿は、過越し祭に塗る羊の血の色にちなんだものだそうです。
      捕鯨技術も徐福らが集団が持ち込んだものと伝えられているようです。

      インドのドラヴィダ族由来の出雲族、そして海族・物部族、宇佐族、新羅系の日槍族あたりの血が複雑に入り混じって、僕ら大和民族が構成されていますが、近辺の諸国と違って実直かつおおらかで、感受性の豊かな僕らの血は、強く出雲族の血を今尚受け継いでいることの証拠であり、自然豊かな島国が育んできた類まれなる「人類の良心」たる所以だと思われます。

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