都萬神社:常世ニ降ル花 抓津夏月篇 13

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宮崎県西都市に鎮座する「都萬神社」(つまじんじゃ)を再訪しました。

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当社は式内社で、日向国総社の論社、日向国二宮の論社とされています。

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「都萬」の社名について、「妻萬」(つま・さいまん)とする説が古くからあり、「さいまん」が訛って地元では「おせんさま」と呼び親しまれています。

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創建は不詳ですが、延喜式神名帳には日向国4座の内、児湯郡2座として「都農神社」とともに都萬神社が記載されています。

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当社祭神は「木花開耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)ですが、「都萬」は「妻」のことであり、コノハナサクヤ姫が瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻であることに由来していると社は説明します。

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また社伝によると、当地周辺は二人の新婚生活の地であるといい、今もさまざまな伝承地が残っています。

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コノハナサクヤ姫は母乳が足りなかったため甘酒を造った、という伝説もあり「日本清酒発祥の地」として謳われます。

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出雲東王家の末裔・富家の伝承によれば、魏書にある「投馬国」とは現在の妻(都萬)国であったと伝えられます。
『古事記』に、「ニニギは大山津身の娘・コノハナサクヤ姫を娶った」と書かれていますが、勝友彦氏著『魏志和国の都』によれば、大山津身とは出雲王国の祖・クナトノ大神のことで、ここでは宗像家のアタカタスを例えている、としています。

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ニニギとされるのは「御真木入彦」(みまきいりひこ)で、物部のイニエ王のことです。
一行が南九州を西から東に周回する時、彼は薩摩半島の西岸・笠沙の岬で、美しい乙女に出会いました。
彼女はアタの豪族・竹屋守の娘で、「阿多津姫」(あたつひめ)と呼ばれていました。
このことから、コノハナサクヤ=阿多津姫は宗像の血を受け継いでいる、と考えられます。

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御真木入彦王は、船でサツマ半島から大隅半島を回り、当地・都萬国の大淀川の河口に上陸しました。
都萬国とは、『三国志』「魏書」に記される「投馬国」のことで、古くから呼称されていた国の名前であったことがわかります。
当時は神託を受ける姫巫女が人々の尊敬を集めており、強い政権を作るためには、有力な巫女の存在が必要不可欠でした。
そこで御真木入彦王は、絶大な人気を誇る豊国字佐の月読みの姫巫女・豊玉女王を取り込み、月神信仰を旗印にして大和に攻め入る計画を立てていました。

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御真木入彦王はまず、日向灘から大淀川を逆上り、イクメの地にしばらく住むことにしました。
阿多津姫がそこで皇子を産んだので、皇子の名は、土地の名からイクメと名付けられました。
勝友彦氏著『魏志和国の都』には、「宮崎市の青島神社にコノハナサクヤ姫命の名前で阿多津姫が祀られている」(境内社の石神社)と記されます。
青島神社の近くには、コノハナサクヤ姫を祀る「木花神社」も鎮座していました。

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后を失った御真木入彦王は、北方の一ツ瀬川を逆上り、都萬の辺りに王宮を造って住みました。
都萬は、西日本の都となって町が広がり、やがてそこは西の都「西都原」(さいとばる)と呼ばれるようになりました。
そして御真木入彦王の后・阿多津姫は都萬の都で早くに没したことから、都萬神社に祀られている、とのことですが、いやしかしと僕は思うのです。

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御真木入彦王は、豊国の宇佐・豊玉姫と再婚し、都萬を都とした、ともあります。
言い換えるなら、御真木入彦王は豊玉姫を第二の后として受け入れるために、都萬を都としたのです。
都を生目から都萬に遷したのは、生目の地付近ですでにコノハナサクヤ姫が亡くなっていたからでは、と思うのです。
阿多津姫の亡くなった御霊を祀った本宮は、木花神社の方ではないでしょうか。

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では、都萬神社に祀られる本来の祭神は誰なのか。
古くから都萬国(投馬国)と称されてきた地の姫巫女。
土地の王は、役職名が地名から取られることが一般的でした。つまり都萬国の元の王は都萬津彦であり、姫巫女は「都萬津姫」(柧津比売)ではなかろうか、と思うのです。
都萬神社は神格化された柧津比売を祀る社だったのではないでしょうか。
では、都萬津彦とは誰なのか?というと、

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都萬神社の北に、都農神社があります。
ここに祀られる祭神は、大己貴命 (おおなむちのみこと)。
大己貴は一般に大国主のこととされますが、実際は出雲王国の主王を指す「大名持」のことで、出雲王国・8代主王とは別人である可能性もあります。
ともかくも「都農」とは「都の王」(都萬の王)のことではないかと思われます。
そしてさらに、都萬神社と都農神社の間には、並ぶように白髭神社が鎮座しています。
白鬚大神、といえばサルタ彦のこととなります。
つまり、なんというかまあ、日向の海岸に出雲のサイノカミが並んで鎮座しているように見えるのです。

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都農神社の祭神・大己貴とは、ここでは出雲王国の主王ではなく、九州系出雲神門家、あるいはその血を引く豊王国の主王を指すのではないでしょうか。
柧津比売は豊、あるいは越智の血筋の姫巫女であった可能性を、強く感じるのです。

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それでは、父神の大山祗神は誰なのか?
大山祇もスサノオと同じく、見る角度によってその正体が変わるのではないかと思われます。

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大山祗神は富家伝承的には「クナト王」ですが、コノハナサクヤ姫から見た場合は「アタカタス王」のことだとあります。
僕は愛媛の大山祇神社を訪ねた際は、イワナガ姫から見た大山祇神は「岩戸別・タジカラオ王」のことではないか、と考えました。
一ツ瀬川上流にはイワナガ姫伝承があり、速川神社の瀬織津姫は入水したイワナガ姫ではないか、と感じました。
一ツ瀬川流域がイワナガ姫巫女の支配域だったとしたら、柧津比売とイワナガ姫は同一神なのかもしれません。

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それにしても都萬神社の社殿は、拝殿はとてもシックな造りなのに、本殿は稲荷系とも龍宮系ともとれる雅な造りとなっています。
それはどこか、阿波国の一宮、大粟神社にもにた印象を感じさせました。

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聖地巡礼は記紀神話をもとに訪ね歩くのも良いと思います。
しかし、その裏にある真実の歴史を尋ねる旅は、さらに興味深いものです。

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消された歴史の深淵に潜む神々に、心より敬愛を込めて。

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