村屋坐弥冨都比売神社:八雲ニ散ル花 34

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奈良の磯城郡、田園広がる田原本町蔵堂にこんもりとした杜に包まれた「村屋坐弥冨都比売神社」(むらやにますみふつひめじんじゃ)があります。

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幟に「能発祥の地」とあります。
村屋神社を中心とする「杜屋郷」(もりやごう)には、奈良時代すでに散楽戸(さるがくこ)があり、平安時代になると、「杜屋」の地に、伎楽(ぎがく)や舞楽・散楽の選り抜きの楽人たちが住む「楽戸郷」が存在したと「延喜式」(えんぎしき)に記されているそうです。
日本の「能楽」は、2001年5月18日、ユネスコの第1回「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」にて指定されました。

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石灯籠が続く、長い参道を歩きます。

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通称「村屋神社」は、「守屋の宮」「森屋の宮」「森屋明神」とも呼ばれ親しまれています。

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日本書紀には、天武天皇元年(673年)、壬申の乱の時、村屋神が神官に神懸り、「わが杜の中を敵が来る。社の中の道を防げ」と軍備に対する助言をしたと記されています。
その功績により、天皇より位階を引き上げられたと云います。

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境内には遷座されたいくつかの摂社があります。
「服部神社」は、元は、大安寺の波津里神にあったが、天正の兵火にかかり焼失し、現在地に遷座したと云います。

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祭神は「天之御中主命」「天之御鉾命」。
大安寺に服部氏が居住しており、その祖神を祀ったものと伝わります。

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「村屋神社」は元は、当社の東の宮山に鎮座していましたが、天正の兵火にかかり焼失し、現在地に遷座しました。

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祭神は「天児屋根命」「経津主神」「比咲大神」「武甕槌神」「大伴健持大連」「室屋大連」となっていますが、本来の祭神は、武甕槌神と経津主神の二座であったらしいです。
大連二神は壬申の乱に際し、吉野軍の将として活躍し、その功績が高かったために天武五年に合祀されています。

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「久須々美神社」は元は、字宮ノ山という古木の茂みの恵比須井付近に鎮座していたそうですが、洪水のため、天正十二年、森屋垣内に遷座し、その後、当社境内へ奉遷したと云います。

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祭神は「天之久之比命」と「事代主命」になります。

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村屋坐弥冨都比売神社の本殿へ回ってみます。

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そこには二棟並んだ朱塗、流造の美しい社殿がありました。

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御祭神は「彌富都比賣神」と「大物主命」。
大物主は三輪山に祀られた神で、その正体は出雲王国8代少名彦の「八重波津身」、いわゆる事代主となります。
彌富都比賣神は事代主の娘で、美保神社に祀られる「ミホススミ姫」のことであろうと思われます。

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当地「磯城」は丹波から押し寄せた海家に圧倒され、葛城から移住したクシヒカタが更に移住し、出雲家の新天地として開拓した土地です。
クシヒカタはここで「登美家」(とびけ)と呼ばれます。
彼、またはその子孫がこの地に父神「事代主」を祀った可能性は高いと思われます。

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ヤマトの初代の王朝は、初代「天村雲」大王の出身家系により「海部王朝」と呼ばれていました。
しかし「先代旧事紀」に書かれている、「登美家」の家系譜を見ると分かるように、大王家には3代続けて磯城・登美家から后を迎えました。
当時は妻問婚だったため、御子は妻の実家で育てられます。
するとやがて大王家の儀式や習慣は、自然と出雲の特色が強くなっていきます。
そのため3代以後は「磯城王朝」と呼ばれ、大王には「自分は出雲人である」という意識や習慣を持つ人もいたと云います。

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やがて磯城王朝は第二の出雲王朝とみなされました。
そして登美家は、大王家と同様の勢力を持つ存在となっていきます。

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事代主の娘でクシヒカタの妹である「蹈鞴五十鈴姫」は初代大王「天村雲」と結婚して、「神八井耳」を儲けます。
その子孫が太安万侶の「大臣」(おおおみ)家となりました。
古代大和には「柿本臣」や「大臣」など「臣」の家柄を示す家が多く伝えられますが、この「臣」と云う称号は、出雲王家の血筋の者だけに与えられました。
「宿禰」と云う称号は、後に大和にやってくる物部族の重鎮に与えられた称号でした。

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境内摂社に一つだけ、特別な雰囲気の場所があります。
境内の池の真ん中に島があり、そこに「物部神社」が鎮座します。
御祭神は、ニギハヤヒの妻と子である「炊屋姫命」と「宇麻志摩遲命」で、「物部守屋連」を配祀し、その由緒は不詳で、神主の祖神を祀ったものと伝えられます。
これは「但馬故事記」などの伝承にある、「ニギハヤヒが長髄彦の妹、御炊屋姫命を娶り、宇麻志摩遅命を儲けた」という内容によるものと思われます。
しかしこの物部神社の別称が「市杵嶋姫神社」と呼ばれるように、ここでいう炊屋姫とは本来、ニギハヤヒ・徐福の筑紫での妻で、宗像三女神の一人である「市杵島姫」を祀ったものだったと考えられます。
また宇麻志摩遲命はニギハヤヒの子ではなく、筑紫平野での、数代後の子孫です。

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当社が「守屋の宮」「森屋の宮」と呼ばれるように、「物部守屋」との関連も深く、元は登美家の聖地であった当社が、後に大和入りした物部氏によって祭祀されてきたことを物語っているように感じました。
紀伊国から大和入りしようとした物部の「五瀬」(イツセ)、「宇麻志摩遲」(ウマシマジ)らは紀伊国を支配する「高倉下」(タカクラジ)の子孫「珍彦」(ウズヒコ)らの猛烈な攻撃を受けます。
そこで彼らは磯城の登美家に助けを求め、大和入りを何とか果たすことになります。
この時彼らを助けた登美家の王こそ「賀茂建角身」、後に「ヤタガラス」と呼ばれる人だったのです。

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初代天村雲大王に始まった「大和王朝」は、やがて出雲系の血を濃く引く磯城系の大和王朝へと変化していきます。
しかし当時の大和王朝は日本全土を統治したわけではなく、畿内の一部を統治するに限られていました。
紀元前1世紀の前漢武帝の時代に、漢の領土になった楽浪郡に、和国の使節が訪れたことが、『後漢書』「東夷伝」に記されています。
当時の和国は100余国に分かれていましたが、楽浪郡に使節を派遣した国は合わせると30か国であり、それは九州と九州近辺の国であったと書かれています。

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更に紀元後57年に、和国の「ナ(奴)国」が中国の後漢に朝貢した記事が、後漢書に書かれています。
ナ国は九州にあり、朝貢を光武帝が認めて、しるしの金印と正装時に身を飾る「錦の襷(たすき)」を与えました。
その金印が有名な博多の志賀島から発見された金印です。

後漢書の始めに、「和国の大王はヤマト国にいる」と書かれていて、金印には大王の字は刻まれていません。
つまり、この金印は、大和国の大王に渡されたものではなく、九州一地方の「ナ国の王」に任命したものでした。

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やがて朝貢の御返しを欲した大和王朝の6代「国押人」(クニオシヒト/孝安)大王は、みずから後漢国を訪れ、107年に安帝に面会を求めたと云います。
「国押人」の「クニオ・シヒ・ト」を聞いた中国人は、短く行書で「師飛」(シヒ)と記録しました。
この行書の漢字を書き写した役人は、見誤って「帥升」(スイショウ)と書きました。

国押人大王は後漢の王家が奴隷(生口 / せいこう)を欲しがっていると聞いたので、生口を献じることにします。
兵隊を連れていき、瀬戸内海の生口島で奴隷狩りを行い、その島の若者160人を虜にして、後漢に引き連れていったそうです。
その島はこの事件の所為で、いまなお生口島(いくちじま)と呼ばれています。

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しかし記紀が書かれた奈良時代には、大王みずから後漢に行ったことは日本の恥だと考えられたようです。
それで事実を誤魔化すための記事が、日本書紀に書かれました。
大王を別名を「日本足彦国押人」(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)とし、架空の兄を「天足彦国押人」(アメタラシヒコクニオシヒト)とし、兄が使いとして、後漢に行ったことにしました。
古事記には国押人は一人で、兄君がいるとは書かれておらず、出雲王家の伝承では、その二つの名は同じ人物を指していると伝えられていると云います。

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奴隷朝貢の御返しは、和人の好む鏡であった可能性が大きく、後漢の鏡が伝世された後に、古墳に埋納されたようです。
大和の古墳からは、後漢の「内行花文鏡」が数面、出土しています。

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村屋神社のすぐ近く、田園の中の杜に鳥居が見えます。

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「岐多志太神社」(きたしたじんじゃ)とあります。

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祭神は大和王朝初代大王の父「天香語山」です。

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本殿は2棟あり、もう一棟は中臣氏の祖神「天兒屋根」(アメノコヤネ)を祀っていると云います。

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太古の大和は「海・尾張家」と「磯城・登美家」「高鴨家」、そして九州から東征してくる「物部家」を中心に、「宇佐・豊王国」、「タジマ家」などが絡み合い、動乱の世を迎えるのです。

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