
罪の償いのため財を没収させられ、髭と手足の爪を切られたスサノヲは、かようにして高天原から逐(お)われて下界へ降った。
そこでスサノヲは、食物を大氣津比賣(おほげつひめ)の神に求めた。大氣津比賣は鼻や口また尻から、種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を出して料理して差し上げた。
この時にスサノヲはそのしわざを覗き見て、「なんと穢(きたな)い物を食べさせるのだ」と怒り、その大氣津比賣の神を殺してしまった。
殺された神の身には、頭に蠶(かいこ)が生(な)り、二つの目に稻種(いねだね)が生り、二つの耳に粟がが生り、鼻に小豆が生り、股の間に麦が生り、尻に豆が生った。
神産巣日(かみむすひ)の神はこれを取って、種と成した。
『古事記』


徳島県吉野川市に「阿波富士」と謳われる「高越山」(こうつさん/1,133m)があります。
その高越山の一文脈が西方に延びたところにあるのが「種穂山」(たなほやま)です。

その山頂に「種穂忌部神社」(たなほいんべじんじゃ)があるというので、向かっています。

「車は左 歩く人は右」なんて標識がありましたので、車で登っていけるのかと思いきや、無理無理、酷道なんてものではありません。
かつて無理して進んで崖下に落ちかけた、大根地山の恐怖が脳裏をよぎります。

それで駐車場らしき広めのスペースに車を停めようとしたら、今度はアブの大群に攻撃されました。
車にブチブチ突進してくるアブさん達、怖すぎ。。
もう参拝は諦めようかと思いました。

それで場所を変え、道脇の少し広いところに車を停めて様子を見ます。
アブ軍団は追ってこない。では行きますか、と参道ならぬ山道をてくてく登っているわけです。

が、遠い。遠いよ種穂忌部神社はどこまでも。

なかなかな勾配の坂道を延々と登っていますが、ようやく神社領域とやらに踏み込みました。

まだ300mあるんかい。

左右アンバランスな石灯籠がありました。

もう着くと思うじゃん。

まだまだ登るよー。

斜めった人が見えたら

ようやく着いたー。
もう、汗で濡れ濡れです。

かつては崇敬者も多く、宝暦年間(1751~1763)には旧9月29日の例祭日に,大祓神事や神楽の外に相撲も始められて長い間続いたという種穂忌部神社。
しかし今では、10月23日の例祭日にさえ参拝者は少ないそうです。

境内は荒れている、とまでは言わないまでも、古く朽ちかけている感は否めません。

社前の案内板によると、寛保3年(1743)の「神社帳」には、種穂神社はもとは多那穂大権現と称したが、多那穂忌部神社、さらに種穂忌部神社と改められたと記されているそうです。

これは、この神社が忌部神社と関係があったからで、寛保元年(1741)には種穂忌部神社と改称され、忌部本宮と決められたと。

また「川田邑名跡志」にも,ここを本来の忌部神社としているそうです。

祭神は「天日鷲命」「天太玉命」「比売大神」「長白羽命」「津咋見命」「幡千々姫命」。
天日鷲命が天磐船に乗り、高天原から携えてきた麻・穀・粟・五穀の種をもって降臨したと伝わっています。
しかし僕が気になるのは、真ん中に並び祀られる「比売大神」の存在です。

種穂忌部神社が忌部神社の本宮である、または種穂山の本峰・高越山の高越大権現こそが忌部神社本社であるという話もあります。
しかし僕の興味は忌部神社本宮の所在よりも、この「比売大神」に惹かれています。
比売大神って、これ、ヒミコじゃないの?

おそらく忌部神社に比売大神が祀られているのは、ここだけなのではないでしょうか。
大分の宇佐神宮に祀られる謎の祭神、比売大神が豊玉姫であり、彼女こそが親魏和国の女王なのです。

種穂山とは天日鷲命が天磐船に乗り、高天原から携えてきた麻・穀・粟・五穀の種をもって降臨したからその名が付いた、と言いますが、なぜ忌部族祖神が穀物神のような扱いになっているのかが、とても疑問です。
またこのくだりは、ソシモリから樹木の種を持ち込んだ五十猛も彷彿とさせる話です。

師が話されるには、「忌部は宮中祭祀を行うようになって斎部とも言うようになったけど、本来の名前が示すように、葬儀を司る一族だったんだよ」とのことでした。
部とは部民のことで、王権への従属・奉仕する役職を表しています。つまり、忌ごとを司る部民、それが忌部です。

続けて師は「忌部は富家の親戚であることは間違いがないけれど、その時々で有利な勢力のふりをすることがあったんだ、困ったことにね。例えば物部が優勢な時は、我々は物部だーとね」とおっしゃいます。
阿波忌部は「品部」(しなべ/ともべ/とものみやつこ)として宮中祭祀に欠かせない貢納品のうち、麻・木綿(ゆう)を納めていました。
今でも践祚大嘗祭に麁服を貢進する役目が続いています。

しかし穀・粟・五穀までも司ると言うのは、少々逸脱している感がいなめません。
阿波国で穀物神といえば、そう、阿波国一宮の大粟神社御祭神である大宜津比売(おおげつひめ)を置いて他はないと思われるのです。

先の、種穂山の本峰・高越山の高越大権現こそが忌部神社本社であるという話は、その大宜津比売が鎮座する、神山神領大粟宮氏子の口傳を纏めた書物が引用元だといいます。
僕は高越山の高越大権現とは、越智なのではないかと思います。高・越智で高越。

そしてこの境内の奥に意味ありげに鎮座する、いかにも物部と越智を合わせたような名の社。
物部の高皇産霊と、阿智祝が祭祀する常世オモイカネと手力雄が祀られています。

ここは相撲場跡とあったけど、まるで墳墓のようです。

僕は大粟神社の大宜津比売は越智族の祭祀する神だと思っていますが、そこの本社を高いところから見守る位置に、豊玉姫が祀られています。
大粟神社に祀られる大宜津比売が、本来の「天石門別八倉比売」(あめのいわとわけやくらひめ)であり、天石門別八倉比売神社に祀られる神が「天石門別豊玉姫」であるとも云われます。
では豊玉姫に並ぶ偉大な姫神・八倉姫とは一体誰か。それは越智族の裏のヒミコ、常世織姫(玉依姫)ではなかろうかと思うのです。

オオゲツヒメという名称は、「大いなる食物の女神」の意味であり、『古事記』においては最初に、伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として、その名前が登場します。
続いて神産みでもほぼ同名の神が生まれており、その後に高天原を追放されたスサノオに料理を振る舞う神として再登場するのです。

また島根県石見地方に伝わる伝説に、雁に乗って降臨し作物の種を地上に伝えたとする、大気都比売神の娘・乙子狭姫(おとごさひめ)の話があります。
この乙子狭姫は、単に狭姫とも呼ばれ、いわゆる佐比売山の女神のことです。

何気に出雲の太陽神信仰にも関わっていそうな、大宜津比売とは一体何者なのだろうか、謎は深まります。
ところで、この境内脇に何気なく立っている立石は、茨城の御岩山の石柱と似ている気がします。

種穂忌部神社社殿に戻って来ました。

この種穂山からは、麗しき阿波のドナウ・吉野川を眼下に、国産みの最初の島・淡路島や沼島などを眺めることができるそうです。今日は曇っているけど。

そして狛犬のなれ果てさんの隣には、

亀の頭さんのようなものが、置かれています。謎。
大宜津比売を斬り殺したのは秦族のスサノヲであり、彼女の遺体から生えた実りを採取して種と成したのは出雲の母神・神産巣日(かみむすひ)でした。

なんとも不思議な種穂山と大宜津比売のことを思案しながら下山していたら
「うわっ」
思わず大声をあげてしまったそれは、ただの木の枝だったのでした。

narisawa110
天皇の即位にかかわる麁服(荒妙)貢進に関してです。
麁服は和紙の原料と同じ格から作り出される布で、古代忌部氏がその職掌として作成していたとされます。しかし、現在麁服貢進といわれているものは18世紀になって、「川田の種穂社を通して三木家作ったものを白川家に送っている」ことがきっかけになったものだそうです。送っていた種穂社は、白川神道に属していました。
近世の神道には吉田と白川という大きな流れがありますが、白川家こそが大嘗祭など朝廷の儀式を司る家でした。そこに三木家の側がその先祖が古代忌部の系譜を引いているとして、布を送っていたことにはじまります。
今の大嘗祭の麁服貢進は、江戸時代になって川田の種穂社を舞台に作りだされたものということだそうで、古代のものとは、まったく関係がないものだと研究者は指摘しています。
また、「三木家はもともとは、川田の種穂忌部神社の信者でした」
S様のお話と総合すると姫神様は・・・。
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種穂社は、白川神道に属していた!
ワクワクします。
最近佐織さんから紹介していただいた方のお祖母様は、鞍岡にお住まいで麻を織って荒妙貢進された事があるとかなんとか。
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narisawa110
正直、現在の高千穂は、坂本龍馬の日本初の新婚旅行が発端となった観光地でしたっけ。いま阿波説の人たちがやってる事ってやっぱり村おこしなんだと思います。
橋本家や高橋家の方がよほどその任務に近いと思います。
国造神社の高橋神の額の写真、とても想像力をかきたてられました。
九州の安部系の展開はとても早い段階から起きていたと思うようになりました。
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九州の安部系の展開、その下地がすでにあったということでしょうね。
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narisawa110
一周すると面白い視点が持てるようになりますね。
九州がらみで言うと、S様のおっしゃる忌部川田は、「川田邑名跡志」とある事から、ここに居たんではないでしょうか?
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ここにいた、と思えますが、どこにでもいた、とも思えてしますのが忌部ですな😅
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種穂忌部神社は忌部神社神官家の一つ早雲家の神社です。山崎忌部神社は村雲家でありまして戦国時代に焼失した忌部神社の聖蹟をめぐり争いがありました。忌部公事といいます。忌部神社は本来は三里四方と呼ばれる広大な神域を持っていました。戦国時代に焼失し後に蜂須賀家によって隠蔽され所在地すらわからなくなってしまいました。明治に入り、忌部神社が所在地不明のまま国幣中社になりました。そこで各地の忌部神社が我こそが忌部神社の後継社であると名乗りを上げ、国幣中社忌部神社の所在地は二転三転します。そこで苦肉の策として太政官は新たに現在の眉山に忌部神社を建てることになります。
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こんにちは。コメントありがとうございます😊
種穂忌部神社と山崎忌部神社の争いは、なかなか熾烈なものだったようですね。
両社とも、龍蛇神を思わせる凄まじい磐座を持っていて、驚きました。どちらが本家であってもおかしくないと思います。
忌部と言いましても、富氏の言う出雲王家の親戚としての忌部と、その磐座祭祀が結び付かず、阿波国にはもっと大きな勢力が、古代からあったのではないかと思っています。
その後継としての忌部、出雲王家の親戚となった忌部、はたまた各地に散った地方忌部は、全く別の古代氏族と考えた方が良いのではないかとさえ、思われます。
蜂須賀氏は明らかに、何かを隠蔽しようとしていた動きがありますね。川島町の八幡神社も祭神を書き換えるよう迫ったようです。
しかし、「蜂須賀氏は”守る”ために隠そうとした」可能性もあるのではないかと思い始めました。
ともかくも、阿波は興味が尽きません。
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narisawa110
言語学的に見た九州、四国歴史
ちょっと面白かったです。通説とは違う阿智も出てきます。
ttps://www.youtube.com/watch?v=0dCEnI-YOMI
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動画見ました。
越智・阿智は新羅や渡来系との関連が他者の考察でよく示唆されており、そこが僕の越智説の欠点の一つなんですよね。
物部族との習合もあるので、その影響かとは思いますが、今一つ説得力に欠けてしまいます。
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narisawa110
安城の鷲取神社もそうですが徳島にある忌部神社など、特に天日鷲命をお祀りする神社の紋は、「梶紋」という紋です。
めっちゃ諏訪梶に似てる〜
タカミムスビが幸神であるのであれば、天冨命が阿波から忌部氏を関東に取れて行ったのであれば、大元本に出てくる垂仁期の出雲兵は、やっぱり忌部氏も入っていたのではないでしょうか?
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確かに梶紋似てますね。
先生曰く、物部東征の時に、忌部の一部も追従しており、自分たちはあたかも物部であるふりをしていたという話です。
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narisawa110
道鏡は、物部氏とも忌部氏とも言われますが、俗名は弓削氏でしたね。
守屋のフルネームに入る文字と同じですね。
やっぱり、分家ではなく、そこそこの本家レベルで婚姻関係を結んでいて、それが神道の成立に影響している様に思えます。
婚姻していたから、出自を誤魔化せたのでしょうね
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比売大神、春日大社では比売神(猿沢の池の采女)、熊野本宮では天照大神、ヒミコちゃんだと思います。
富士山の帰りによった、笠三宝荒神(蕎麦が旨い)では境内の敷地に隣接して(神社とは無関係な宗教施設?)ヤマトヒメ、ヒミコとして祀られています。
ここも、邪馬台国だったのでしょう。
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hirobanさん、こんにちは♪
富士山ではなく三輪山でしょうか?
ここはちょっと変わったところで、スサノオのお墓というのもあります。
笠そばさん、美味しいですよね。たぶん4回くらい行きました(笑)
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🐥忌部とは、”穢れを忌む”という意味で”忌”という。すなわち、斎戒を意味する。古代朝廷の祭祀や祭具作製、宮廷造営を担った氏族。忌部は狭義には”部民”を率いた中央氏族の忌部氏を指す。祝詞を駆使する忌部が単なる葬儀屋とは考えにくいですな🐣
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忌部は出雲で出雲王家に献上する勾玉を製作していました。それと別に、葬儀を司っていたそうです。卑しい身分というわけではなく、特別な一族だったのでしょう。
大和での活躍はその後の話。彼らが宮中深くまで勢力を伸ばし得たのは、何か別の勢力の影響があったからではないかと思います。
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🐥そうですか。神道では、死を穢れとして捉えているそうです。穢れは”気枯れ”から由来する。穢れを忌みそれを清める氏族である忌部が積極的に”穢れ”つまり死に関わる葬儀に関与したとは考えにくい🐤
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おっしゃる通り、出雲王家でも、遺体は穢れとされていました。忌部氏については次の記事でも少し考察を述べたいと思っています。
忌部を語るには、大和王朝に彼らが移住する以前の、出雲王朝期まで遡る必要があります。
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