御岩神社 後編:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 18

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「パダワンよ、会って伝えたいことがあるのぢゃ」「かしこまr」と取るものも取り敢えずエックスなウイングに飛び乗って師匠の元へやって来たぜで一泊したものの「せっかくなので何か面白そうな場所ないかなグーグル先生」「てれてっててーさとじんじゃぁー」「げっ、ツチグモの里じゃんゲキやば~」と夜明け前の朝4時に宿を抜け出し盗んだレンタカーで走り出すオレさまがたどり着いたのは常陸国の薩都神社で「朝の神社は色っぽいねぇいいねぇ最高だよ」とパシャリ写真を撮ればモクモクと現れた妖しげなおじさんならぬ親切な氏子氏が「この先の御岩山に行くのぢゃ」とお告げを残していったのではるばるやって来てみれば「斎神社やん♪出雲やん♪」とテンション上げ上げマクリマックスなオレさまの勢いで御岩神社に参拝すればなんと奥宮あるしと黙考の末時計をチラリ「せっかく来たなら登ればいいやん」という安直な判断でさあ登山開始だlet’s go!しかしさらなる試練が待ち受けていようとはこの時は思いもよらないキリコ氏であった。

- 前回までのあらすじ

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御岩山の奥宮への道筋は表参道と裏参道が周回できるようになっています。
まずは表参道から。

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緩やかな山道を歩いていきます。
これは楽勝コースの予感♪

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この御岩山からは縄文時代晩期の祭祀遺跡が発掘されており、古代信仰の地であったと考えられています。

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では当地で初期に祭祀をした民族とは誰なのか。

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常陸國風土記によると、元々この地には土雲と言う名の国栖(くず)がいたと記されています。

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国栖は「くにす」がつまった語であり、「国を住み家とする者」の意味で「国津神を祀る人々」を指す言葉だそうです。
土雲(土蜘蛛)は大和朝廷にまつろわない人々の呼称です。
彼らは出雲系の一族、あるいは大彦の末裔かもしれません。

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風土記によれば、ここに兎上命(うなかみのみこと)が兵を挙げて誅滅したとあります。
その時に上手く殺せたので「福哉」(さちなるかも)と言ったので、これにより佐都(さつ)と名付けられたとのこと。
「茨城」も国栖を殲滅する時に作った茨の砦が名の由来だと伝わります。

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物部王朝以降、大和は信濃国から東北にかけての一帯をエミシと呼んで、彼らを蔑みました。
そこに住んでいたのは初期に移住した出雲族やアイヌ系の民族、そして大彦の子孫や物部イクメに裏切られた豊彦の末裔たちでした。

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宇佐の豊彦には物部の血も流れていますが、彼はとても出雲的であったと考えられます。
故に豊勢は一時は磯城・大和王朝や出雲王国を攻める側にありましたが、イクメに追われてからは逆に出雲勢に保護された形跡もあります。

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薩都里の国栖・土雲を兎上命が誅滅したとありますが、この兎上命は生江臣の祖、孝元天皇の裔で葛城襲津彦命の四世孫とあり、武内襲津彦(葛城襲津彦)は日向髪長媛を娶っていますので、彼がその名から宇佐家の血を引いている可能性は濃厚です。
なので同族に近い薩都里の国栖を兎上命が誅滅したというのは考えにくく、大和から遠く離れていることを利用して偽りの報告をし、実際は両者うまく交流を図っていたのではないかと思われます。

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それにしても表参道の後半は険しい木の根道となっています。
これは御岩山の地盤が岩盤でできていることを示すものです。

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目的の場所に着いたようです。

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最後の石段、踏ん張ります。

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辺りを静謐が包む中、神々しく鎮座する社。

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手前には出雲信仰を偲ばせる巨大な磐座もあります。

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これは今上石と呼ばれており、

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この岩の奥からわき出た水が御多満里の池となっていたと伝えられます。
徳川光圀公は大日本史を編纂するにあたり、この池の水で筆染めの儀を行ったと云われています。

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これが奥宮・賀毗禮神宮(かびれじんぐう)。
祭神は「天照大神」「邇邇藝命」(ににぎのみこと) 「立速日男命」(たちはやひをのみこと)の三柱。

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祭神を見ればここは物部の聖域であった可能性が浮かび上がりますが、当地からはその気配は感じ取れません。

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やはり御岩山は出雲系の聖域であったが、後に塗り替えられたと考える方が自然です。

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ところでこの賀毗禮神宮が目的の最奥地でしたが、この先に賀毗禮之高峰(かびれのたかみね)と呼ばれる御岩山山頂へのルートがありました。

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このまま裏参道を通って帰るか、いやいやまだ時間に余裕はある、頂上まで行ってみるか。

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しばし考えて、頂上登拝を決行することにしたのです。

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しかしこれがまた難易度高いダンジョンでした。
いつもの旅ならローカットの登山シューズを装備して出かける僕ですが、この時は慌てて飛び出したので普通のスニーカー。
まさか登山になるなんて思ってなかったよ。

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果てしなく木の根が足に絡みつき、容赦なく残りわずかなHPを削り取っていきます。

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と、立ち入り禁止の立て札が。

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実はこの先には天の岩戸と呼ばれる岩の窪地があるらしく、そこに赤く光る石があるとかで、一時多くの人が押しかけたのだそうです。
それで滑落事故があったとかで、今は立ち入り禁止になっています。

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まあ気持ちは分からなくもないですが、安易に岩場に行くものではありません。
その岩戸は、おそらく出雲のサイノカミの御神体だったのでしょう。
直接拝謁できないのは残念ですが、ここにそれがあると言う事実だけで、十分メシウマです。

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ところで立速日男命が不浄の薩都を離れて鎮座したという賀毗禮之高峰(かびれのたかみね)は御岩山であると考えられています。
それはこの命の逸話が『常陸国風土記註釈』『水戸領地理誌』などの久慈郡の章に表記されており、久慈郡にある入四間山中の当地が比定濃厚であるとするものによります。

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しかし賀毗禮之高峰の候補地というものは他にも存在しており、同じ日立市にある「神峰山」は「かびれ」から「かみね」に転訛したものと考えられていたり、風土記に「賀毗禮の山が薩都の里の東にある」と書かれていることから常陸太田市の真弓山が比定されるという考えもあるようです。

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ついにラストダンジョンに到達したようです。
見上げんばかりの巨大な坂。
勇者よ、最後の力を振り絞れ!

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スニーカーの勇者はひいひい言いながらも、なんとか登頂成功!
ステータスが0.5アップしました♪

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そしてそこには

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有象無象を従えた

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磐座の王が鎮座していたのでした。

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賀毗禮之高峰の頂、

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その絶景よ。

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この岩場から少し降りたところに

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不思議な石柱が立っています。

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この石柱、おさわり禁止です。
というか氏子さんもおっしゃっておられましたが、磐座や御神木に「パワーいただき♪」って感じでお触りしたり抱きついたりする人が大勢いますが、それを神様はどう思うでしょうか。
僕だったら「キモい近寄んな!」って思っちゃうと思います。(うら若き美女は別ですが)
神跡が今も遺されていることに感謝し、お側にいさせていただけるだけで、十分ありがたいのです。

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ところでこの石柱は、下にあるという岩戸と対を成しているように感じます。
サイノカミの女神と男神です。
が、これは出雲的ではありません。剣のようなこの石は、人の手で加工されたものでしょうし、蓬莱信仰的な印象です。
強いて言えば、宇佐の三女神社に見た神跡や霧島高千穂峰の天の逆鉾と似ているようにも思います。

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おそらく後に到達した秦氏系の一族が、出雲の聖地にぶっ立てたものではないでしょうか。

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しかし山頂にある一際印象的なあの磐座はいかにも出雲的であり、古代出雲に倣うなら、この巨大な磐座は王の埋め墓なのではないでしょうか。
そしてここから少し下って建てられた石柱は、その出雲系王の神霊に捧げられているようにも感じ取れるのです。

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この東国の果てで、ひょっとすると出雲族と秦族は和合していたのかもしれません。

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登って来たら降りなくてはなりません。
そして若くない体には、降りの方が危険いっぱいなのです。

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裏参道に差し掛かると、ちょっと奥まったところにひっそりと祀られる末社群がありました。

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少し珍しい神々の名が刻まれています。

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姥神もここに祀られていたのでしょうか。

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まあなんせ、御岩神社境内には188柱の神がまつられているそうですから

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こうした石塔の数も半端ありません。

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さらに下っていくと

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小さな神々しい社がありました。

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石垣の上に置かれたこの小社は山神を祀っているようです。

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そしてその周囲にも無数の石塔・石柱が建てられています。

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どうやらここは佐竹氏の墓所のようです。

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石塔とともに自然石の石柱がたくさん祀られていて、一見すると墓のようには見えません。

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佐竹一族は死して自然に帰りたいと願ったのでしょうか、そのような宗教観が見て取れるような気がしました。

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そしてそのすぐそばに、木の根道の上に鎮座した「薩都神社中宮」がありました。

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賀毗禮神宮が表参道の奥宮であるのに対し、当社が裏参道の奥宮にあたります。

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祭神は立速日男命。
薩都神社の奥宮という小さな石の祠も山中にあるそうですが、アクセスは困難なようです。

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松澤の松の木の八俣の上に鎮っていたという天津神・立速日男命(たちはやひおのみこと)、またの名を速経和氣命(はやふわけのみこと)という。
その名は『常陸国風土記』や『百家系図稿』にしか見えず、この神に向かって大小便をしようものなら、たちまち災いを起こして病にならせたと厳格で気性の荒い神であると伝えられます。

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神に向かって大小垂れればそりゃ怒るだろって話ですが、「速」の字をもつ天津神といえば秦氏、ひいては物部族の神であろうと推察されます。
つまりこの逸話は、薩都郷の民を物部系の何某かが制して風俗に至るまで厳しく律したことを伝えているのではないでしょうか。
そしてその神・立速日男命を延暦7年ごろに出雲族のサイノカミの聖域に祀ることになったが、出雲族に敬意を表して山頂の磐座より下に祀ったのではないか。

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神魂神社(かもすじんじゃ)の秋上家のように、後年は出雲族に敬意を抱く物部もいました。
サイノカミこそ真の縁結び、この東国の果ては和合の地だったのかもしれません。

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