三女神社:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 07

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高天原の天照大神が、弟のスサノオノ命の三人の娘、三女神に、天安河原の石を取って
「この石の落ち止まる所に鎮座せよ」
と言って投げ落とした石が、三女神社の境内にある突き刺さった棒状の石であるという。
これを「三柱石」という。
三女神社の名前もここから付けられた。
この三女神が産湯を使った天真名井が三女神の後を慕って高天原から降って来たという伝説の井戸がある。
この井戸の水は、どんな干ばつにもかれず、どんな大雨にも満ちも濁りもしない不思議な井戸である。

– 安心院縄文会 –

「豊国」という呼び方が、物部政権の御真木入彦(崇神)王の頃、すでにあったことが『豊後国風土記』に書かれている。
宇佐家が豊国の王家になったのは、かなり古い時期であった。
宇佐家は古くは、女系相続であったという。

– 勝 友彦 著『魏志和国の都』 –

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宇佐市安心院町にある「三女神社」から東に4km、米神山の西南に「佐田京石」と呼ばれる石があります。

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そこは車道沿いに無造作に案内板だけが置かれていますが、

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一歩足を踏み込んでびっくり。

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完全なストーンサークルがあるのです。

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高さは2~3mほどの柱状の巨石が中心の1本を囲んで、円形に並んでいます。

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ざっと見た所、サークルは二つ。

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奥にもランダムに置かれた石柱が見えます。

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ここから標高475mの米神山に登ることができますが、その道はかなり険しいようで、今日のところは遠慮しておきます。

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米神山の中腹には自然の石柱群があり、それと関連してこの佐田京石は太古祭祀の遺跡ではないかと考えられています。

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伝説では、神々が都を築こうと100個の巨石をこの地に降らせようとした時、石が99個まで落ちたところで米神山の神が一計を案じ、ついに都を築くことは出来なかったといいます。

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それで今でも、米神山には99個の大きな京石が突き刺さっているのだそうです。

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佐田京石が祭祀の遺跡であるというのは間違いないと思われますが、他に神社の起源である、 鳥居の原始の姿であるなどと多くの憶測を呼んでいます。
これを見て僕が思い浮かべたのは、秋田の「大湯環状列石」です。

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サイズこそもっと小さいものでしたが、その形状など、よく似ています。
富家伝承によると、大湯のストーンサークルは南下する出雲族によってつくられたと伝えられていました。
これらの組石の下には墓穴があったと考えられていて、死者の魂が男神の生殖力により赤ん坊に生まれ変わるよう祈るための物であったそうです。

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物部族もストーンサークルを築いていただろうと考えられますが、この佐田京石の石柱は、いかにも出雲的です。
そして名前の「佐田」とは「サルタ」を示しているのではないでしょうか。

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「三女神社」(さんみょうじんじゃ)にやって来ました。
宇佐神宮にも関わる重要な神社なのですが、つい通り過ぎそうになるほど道端にそっけなく鎮座し、今にも杜に埋もれてしまいそうです。

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三女神社が重要だというのは、宗像大社の高宮祭場とは別に、宗像三女神が降り立ったと伝わる三社の一つであると云われているからです。

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宇佐神宮に祀られる「比売大神」は宗像三女神のことであると社側は伝えています。

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であれば、当社は宇佐神宮での高宮祭場にあたる場所、大切に保護されて当然なはず。
しかしなぜか神宮は当社についてその存在をほのめかすことはありません。

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三女神社の謎はさらに深く、闇に包まれています。
一ノ鳥居は当社にある鳥居の中で比較的新しく見えるのですが、その扁額を見るとなぜか「二女神社」とあります。
境内入り口から感じさせる、何かしらの強い意思・意図。

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さらにこの境内の荒れよう。
僕は数回、この三女神社を訪れていますが、見るたびに荒廃しているのが分かります。

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参道のすぐ隣には、綺麗な舗装された車道があり、先にはオートキャンプ場も整備されています。
なのに隣の参道は見放されたように、その存在を否定されるように、荒れ果てているのです。

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ちなみにこのオートキャンプ場あたりでは「宮ノ原遺跡」が発掘されています。

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甕棺墓が発掘されているあたり、物部系の遺跡のようです。

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今回、宇佐・豊玉姫の事を再考するため、一つの書籍を入手しました。

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宇佐公康(うさきみやす)著、「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」です。
氏は「高魂尊」(たかみむすひのみこと)の125代目、「菟狭津彦命」の72世の孫、「宇佐公通」(きんみち)の36代目にあたり、昭和31年(1956年)に先代から一子相伝の「口伝書」と「備忘録」を引き継ぎました。

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当著は大元出版の富家伝承本でも一部引用されており、大変期待したものでした。
しかし一読してみると、期待とは裏腹に、記紀の呪縛を逸脱するには及ばない内容で残念です。

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それでもいくつか貴重な文面も見受けられ、情報の少ない豊家の真実に迫るヒントが隠されていました。
宇佐公康氏は大正四年(1915年)に生まれ、独り息子で兄弟姉妹もなく、宇佐氏族宗家として最後に残った男系となりました。

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高魂尊の125代目というのは『ウエツフミ』の古伝に基づき推考されたものです。
高魂尊=高皇産霊とは徐福の母親「栲幡千千姫」(たくはたちぢひめ)のこと。
つまり氏は、物部族の血を引いているということになります。

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菟狭津彦命の72世の孫、宇佐公通の36代目にあたるとするのは『宇佐家本系図』に基づきます。
相伝の古伝にどの程度の信憑性があるか確認すると同時に、由緒の深い古伝を子々孫々に伝えるために、また時代の民主化にともない少しでも精神的・歴史的なものを公表して残して置きたい、という思いがあって70歳の齢を越える今日に至るまで、本書を執筆しつづけた、ということです。

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参道を歩いていると、このような小さな穴がたくさん空いています。

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防空壕にしては小さいように感じますが、一体何でしょう、めちゃ怖いです。

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参道はまだ続きます。
三女神社の参道は横に長く、表参道と裏参道の間を直角に折れるように曲がって社殿が鎮座します。

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宇佐氏族は『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)「天神本紀」に、「天三降命豊国宇佐国造祖」とあり、天三降命が豊国・宇佐国造の祖であるとしています。
先代旧事本紀は全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている歴史書ですが、著者は不明。
特徴として「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜が詳しく、特に物部氏に関わる事柄を多く載せていることから、著者は物部氏の人物である可能性が示唆されています。
江戸時代の国学者「多田義俊」、「伊勢貞丈」、「本居宣長」らによって偽書とされましたが、近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証され、本文は一定の研究資料として参照されることも多いようです。

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同書「国造本紀」には「宇佐国造 橿原朝高魂尊孫宇佐都彦命定二賜」とあり宇佐国造・宇佐王の宇佐都彦は高魂尊の孫であると記されており、これらを素直に受け取ると、
高魂尊 ー 天三降命 ー 宇佐都彦
となり、天三降命は饒速日と同一人物である「徐福」ということになり、宇佐都彦は徐福と市杵島姫の子の一人であるということになります。

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古びたニノ鳥居と三ノ鳥居が見えてきました。

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こちらの扁額には、しっかりと「三女」と彫られています。

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三女が指し示すものとは、すなわち宗像の三女神に他なりません。
では二女が指し示すものとは何か?

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それは宇佐・豊国で偉大な女王として知られた卑弥呼と娘の台与、つまり「豊玉姫」と「豊来入姫」のことではないでしょか。
豊玉姫と豊来入姫のことを口伝などで受け継ぐ当地の古老が、あの一ノ鳥居の扁額にそのことを暗示させたとしたら、納得がいくものです。

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それにしても、本当に荒れ放題です。

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三女神社の聖域へとやってきました。

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荒れた境内ではありますが、ここだけは光が差し込み、未だ神気を失ってはいないと言わんばかりに輝いています。

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『日本書紀』巻第三「神武紀」に、
「行きて筑紫国の菟狭に至ります。時に菟狭国造の祖有り。号(なづ)けて菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)と曰ふ。乃(すなわち)菟狭の川上にして、一柱騰宮を造りて饗奉る。是の時に、勅をもて、菟狭津媛を以て、侍臣天種子命(おもとまへつきみあまのたねのみこと)に賜妻(あわ)せたまふ」
とあります。

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宇佐家の口伝によると、神武東征軍の菟狭国への進駐は、最初から平和のうちにおこなわれたのではなかった、と伝えられています。
それは「早吸日女神社」の不穏な伝承にも見受けられました。
神武ひきいる舟軍は、豊後水道から佐伯湾に入りましたが、菟狭族海部のはげしい抵抗にあって上陸できなかったと云います。
そこで登場するのが漁師の「珍彦」(ウヅヒコ)です。
彼が菟狭族の王「宇佐津彦」を説得し、間を取り持ったと伝えられていました。

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紀国「高倉下」(タカクラジ)の子孫「珍彦」がここで登場するのは誠におかしなことです。

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ともかくも和睦が結ばれた両国は、菟狭津彦が「一柱騰宮」(あしひとつあがりのみや)を造営して神武天皇を迎え、豪華な供応をして歓待しました。
この記紀の内容と宇佐家の伝承は一致しているそうです。
宇佐家の口伝では、菟狭津彦が帰順の意を表するために、妻の菟狭津媛を天皇に差し出して寝所にはべらせたと伝えられ、これは当時の風習として友好関係を保つ最高の歓待であり、忠節を誓う儀礼でもあったと云っています。
そして、菟狭津媛は天皇の胤を宿して、宇佐都臣命を生んだと云うことです。

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ここで富王家の伝承と照らし合わせてみます。
神武天皇とは物部イニエ王のことであるとして、「彦」は王、「媛」は后を示すものであれば、菟狭津彦とは宇佐国の王であり、菟狭津媛とはその后「豊玉姫」であるといえます。
富家伝承ではイニエと豊玉姫は結婚し、物部・豊連合王国を築いたと伝えています。

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神武・イニエが菟狭津媛・豊玉を召し上げたという一柱騰宮は比定地がいくつかありますが、そのひとつ妻垣神社が三女神社の南2km弱の位置に鎮座しています。
記紀では神武天皇が一柱騰官に滞在した期間は見えていませんが、宇佐家の伝承では宇佐の地に4年の間留まったとあり、それは大和へ東征を目論むのにちょうど合う期間ではないかと思われました。

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イニエは早世した阿多津姫との間にイクメ皇子を儲けていましたが、豊玉姫との間には豊彦と豊姫の2児を儲けたと富家では伝えています。
しかし後にイクメと豊彦・豊姫は大和への東征で等しく活躍をしており、三人はほぼ同年代の若者たちであったと推察されます。
であれば、一柱騰宮に留まった4年の間に生まれた皇子とは考えられず、豊彦も豊姫も、豊玉姫と菟狭津彦の間に儲けられた子であったろうと考えられます。

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記紀においても神武東征に菟狭津媛も付き従ったと記されておりますが、帰順の意を表するため妻を神武の寝所に侍らせたとしても、菟狭津彦は果たして妻の東征をも許したでしょうか。

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ここでいう菟狭津彦は神武に殺されたか、または神武に帰順するために菟狭津媛が殺したか、はたまたすでに亡くなっていたため珍彦も含めて後に創作され付け加えられたか、ということにはならないのでしょうか。

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さて、僕が宇佐公康著の「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」に求めたのは、宇佐家がどこからやってきた一族なのか、ということでした。

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ところが宇佐公康氏は、宇佐国造家の伝承・古伝と引き合わせて勘案すると、菟狭族は日本最古の先住民族として、九〇〇〇年前の早期縄文時代には、山城国の稲荷山を根拠地として、狩猟・漁労・採取の原始生活を営んでいたと述べています。
それでいて太祖を支那秦国の高魂尊であると、なんとも辻褄の合わないことになっています。
これはどうしたものか。

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これについて非常にわかりやすいコメントを先日「れんげ」様にいただきました。
1万年ほど前にインドネシア方面から日本に渡ってきて南九州地方に定住した縄文早期の人たちが南九州~宮崎・大分方面へ定住。
そこへアタカタスに率いられた出雲族が北九州に進出。
二者は出雲的に、平和的に融合し、南方の秀でた海洋技術も取り込んで宗像族は本家の出雲族より海洋技術に長けた集団となった。
さらに後、佐賀に秦族のクニができる。
これらがさらに融合していくが、独自の形になっていき、その一つが菟狭族に。

この考察には僕も全くの同意で、これなら「出雲族より先に日本にいた」「出雲族がやってきたことを知っている」「先祖は高皇産霊尊」とどれも納得できます。
更にれんげさんは「因幡の素兎」の伝承は、かつては親戚として親しかった「うさぎ=宇佐族」と「ワニ=出雲族」の、裏切ったことへの怒りを表しており、その後大国主に助けられるように、和解した、ということではないかと素晴らしい考察をされていました。
素晴らしい!

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拝殿内は鍵が開けられており、中で参拝することができます。
以前参拝した時は三姉妹分のお供えがしてあり、錆びれつつも氏子の方々の信仰が続けられていることに安堵したものです。

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拝殿内には多くの絵馬が飾られています。

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その中でも特に目を引く絵馬は宗像三女神を描いたもの。

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当地の安心院は宇佐家発祥の地と伝えられ、そこにこの三女神社が鎮座しています。

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宇佐家が豊国の王家になったのは、かなり古い時代のことであり、古くから女系相続だったと富家では伝えられています。
宇佐家が徐福の血を濃く受け継いでいるとしたら、ここには饒速日が祀られているはずです。
さもなくば高皇産霊・高木神が。

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しかしここには宗像三女神が祀られています。

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つまり宇佐・豊家は出雲系宗像族の血を濃く受け継ぐ一族であると考えられます。
徐福と宗像・市杵島姫との間には息子「彦穂屋出見」(ヒコホホデミ)が生まれ、物部の祖となりました。
また娘の「穂屋姫」は海家の五十猛・香語山王に嫁ぎ、 大和初代大王の「天村雲」を儲けました。
しかしそこに記されない別の子がおり、宗像家に近いところで育てられ、宇佐家へとなっていったとも考えられます。

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境内には安心院七不思議の一つと銘打たれた、当社最大の聖蹟「三柱石」(みはしらいし)があります。

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それは、天照大神が三女神をこの国に降ろす時、高天原の石を取って「この石の落ち止まる所に鎮座せよ」と投げた石と伝えられます。
また案内板には、「古来、試みに掘りて石根を見んと欲すれば、宇宙闇然(アンゼン)風雨至り、大地震動して、その声雷の如し。後の人、恐れて触る者なし、と言い伝えられている」と記されていました。

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辺りには多くの石が無造作に置かれていますが、

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ひとつだけ、壊れた玉垣の中に、斜めに突き刺さっている棒状の石が三柱石のようです。
これは形こそ整っていますが、あの佐田京石と同じものではないでしょうか。

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三女神社由来には、「書紀にいう、“日神の生みませる三女神を以って葦原の中国の宇佐島に降り居さしむ云々…とあり、すなわち宇佐島とはこの地、宇佐郡安心院邑の当三柱山とされ、安心院盆地を一望する聖地で、宇佐都比古・宇佐都比売は三女神を祖神とするが故に、全国唯一の三女神の御名前をもつ社であるにして、水沼の君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至る、と伝えられている」とあります。

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宇佐家の伝承では、菟狭津媛は神武天皇の東遷に随伴して、安芸国の伊都岐島に、菟狭族の母系祖神イチキシマヒメノミコトを奉斎して、神事に奉仕したと伝えられています。
更に菟狭津媛が東遷の途上に亡くなって伊都岐島の山上の岩室に葬ったと富家伝承と同じことを伝えており、後者は豊玉姫の遺体を、その後宇佐国の御許山に正式に葬ったとあります。

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御許山山頂付近は現在、禁足地となっていますが、そこには窪みのある3つの磐座があり、宗像三女神の御神体であると宇佐神宮は述べます。
そこが豊玉姫の埋め墓であるとするなら、この三女神社の三柱石は男根を模した拝み墓であり、いかにもサイノカミ的で出雲的な、二墓制があったということになります。

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御許山の大元神社は、この三女神社から北東に7kmの場所に位置し、そのちょうど中間あたりに佐田京石もあります。
佐田京石も御許山の磐座遥拝の祀りの場「霊時」だったのかもしれません。

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なお、一つだけ雰囲気の違う四角の石は「皮籠石」(かわごいし)と呼ばれ、奈良時代に仁聞菩薩が三女神社を参詣した時に皮籠を下ろし仏像を刻んだとも、東征の折に神武がこの石に皮籠を置いたとも伝えるものです。

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さて、三女神社由来にもあった、宗像家の他に宗像三女神を祀る謎の一族「水沼氏」(みぬまし)。
三女神社の手水の前に水沼井と書いて「おみず」と読ませる案内板がありました。
しかしあたりを見回しても、境内を歩き回っても、そんな井戸のようなものは見当たりません。
その場所の案内は皆無と言っていい状態です。

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探し回っていると、水沼井はいったん三女神社を出て、目の前の川を渡り、その先のガソリンスタンドを裏手に回ったところにひっそりとありました。
三女神が降臨した際、産湯に使った「天真名井」(アメノマナイ)が高天原(高千穂)から後を追ってきたと伝えられていました。

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今回、三女神社を改めて訪れたことで、宇佐族・豊玉姫と出雲族の深い関わりが垣間見えた気がします。
しかし「親魏和國ノ女王」シリーズで訪ねた時も今回も、宇佐王国が邪馬台国であったということなのに、女王卑弥呼・豊玉姫の痕跡を見つけ出すことはできませんでした。

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また、宇佐王国は月神信仰であり、月読神を祀ったと云いますが、どこを見渡しても月神信仰の片鱗さえ見えません。
これに関しては思わず富家伝承を疑ってしまいそうになりますが、宇佐公康氏も「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」の中で、
「月をウサギ神として崇拝し、そのツキヨミ(月読)の天職をもって、菟狭族と称するようになった。したがって、菟狭族の神はウサ神、すなわち、月神である。」
と明確に記しており、間違いないことがわかります。

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これはある時期に、徹底して月神信仰と邪馬台国の痕跡を消し去る、巨大な力が働いたことを暗に示唆します。

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三女神社が宇佐神宮から拒否されるように寂れているのも、この水沼井が分かり難くくも存在を主張しているのも、また二女と意味ありげに誰かが扁額を掲げているのも、そこに体制側と反対勢のせめぎ合いのような、妙な違和感を感じてしまいます。

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そしてここ宇佐国にその片鱗が失われたとしても、必ずどこかに伝承は息づいているものです。
その鍵を担う一端が水沼氏であり、更に上野国に至る豊玉姫の皇子「豊来入彦」の痕跡にそれが残されているように思われるのです。

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