
兵庫県尼崎市にある「大物主神社」(おおものぬしじんじゃ)を参拝してきました。

当地はかつて大物村(だいもつむら)と呼ばれており、当社のことを地元民は「ダイモツジンジャ」と読んでいるらしいです。

僕が大物主神社を訪ねるきっかけとなったのは、『X』での「はれうさぎ」さんのご投稿によるものでした。

彼女によれば、『なんで祭神が「大物主」と「宗像三神」なのに、「橘紋」なんだろう?』って疑問に思っていたとのことです。

なるほど、確かに、確かに、気になりますね。

『古事記』には、垂仁(イクメ)帝が多遲麻毛理(たじまもり)を海の彼方にある常世国に遣わして、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)と呼ばれる不老不死の霊薬を持ち帰らせたと記されます。
その非時香菓が、タジマモリの名前にちなんで「橘」と名付けられたとのことです
しかし橘は、日本に古くから自生していた日本固有の柑橘類で、お菓子の源流・菓祖(かそ)ともいわれています。
ゆえにタジマモリを菓子の神とする信仰もあるのですが、もっと古い時代から特別な花・果実として橘は日本にあったのではないでしょうか。
橘の葉は常緑のため、その永遠性と実の芳しさから、不老不死の霊薬としての側面を見出されたとも考えられています。

橘の実をこよなく愛した飛鳥・奈良時代の43代元明天皇が、永く女官として仕えてきた県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)に「橘宿禰」(たちばなのすくね)の氏姓を下賜したのが、橘氏の始まりであるとされます。
橘の文様のとしては平安時代には使用され、次第に家紋として定着していきました。
大物主神社の由緒では、大田田根子の後裔・鴨部祝が、祖神を当地に祀ったのが始まりであるとしていますが、はれうさぎさんによれば、当社は江戸時代まで「若宮」と呼ばれていたという事です。
若宮とは通常は皇子神が祀られるもので、そうであれば、現祭神・大物主(東出雲王家8代目当主・八重波津身/事代主)の皇子で、三島の溝杙姫を母にもつ「天日方奇日方」(あめのひかたくしひかた)が本来の祭神である可能性が高いと思われます。
当地・摂津国あたりは、古代は三島族の支配地で、クシヒカタを祖とする出雲系大和族「登美家」(とびけ)の領地でした。

伊予国(愛媛)の橘氏は越智家の分家だと伝わり、同じく越智家の分家に大三島の三島家がいます。
僕は摂津の三島溝杙姫も越智ゆかりの姫君ではなかったろうかと考えており、変若水(おちみず)を司る越智・三島族が橘を、常世の果実「ときじくのかぐのこのみ」としたのではないかと想像しました。



大阪府高槻市に鎮座の「三島鴨神社」(みしまかもじんじゃ)を再訪しました。

伊予の「大山祇神社」、伊豆の「三嶋大社」とともに「三三島」と呼ばれた一社です。

富家伝承によれば、三島は、事代主の后「溝咋姫」(玉櫛姫・活玉依姫)の出身地であり、事代主が亡くなり彼女が里帰りした後は登美家の領地になったと云うことです。
のちに大彦が三島に移住してきたとき、当地に彼が崇敬する先祖神の事代主を祀りました。それが今の三島鴨神社であるということです。

境内入口の大鳥居の下に「注連縄について」という案内板がありました。そこに書かれていたのは・・・

「日本で初めて広域的な統一王国を作った出雲族はインドから来た クナト族である。
ワニを川の神、コブラを森の神として祀り恐れた。
この二つの神が合わされて竜神信仰が生まれた。
農耕民族である彼らは、ワラで竜神を作り、木に巻き付けて拝むようになった。
当神社の注連縄は氏子さん方(注連縄保存会)の手作りです。
大鳥居の注連縄は両端が巻き付けてあり、本義を伝承する大変貴重な注連縄です。
注連縄で巻き付けた木は、ご神木とされ、伐るのは禁じられた。
水田に水を流すのは山森であり、当神社を川中島に創建したのは
川と山森に対する竜神信仰と考えられる。
また自然との共生の意味で、奪い取った米や樹木に対する命の再生を願う行いが
新たな命を吹き込んだ注連縄(しめなわ)や御神札(おふだ)との暮らしである。
日本ではワニをサメ、コブラをセグロウミヘビに代えられた。
当神社を含め、出雲系神社に六角形の神紋が多い理由は
セグロウミヘビの鱗の形(竜鱗紋)に由来するためである。」

感動です。
三島鴨神社の宮司さんは、他にも富家伝承に則した資料を提供してあり、それを以前、師匠にもお送りさせていただきました。

神社というのは基本的に、神宮を頂点とする神社本庁に属しており、由緒は記紀を大きく外れることがあってはならないという大人の事情があるものです。
各神社に伝わる独自の伝承があったとしても、なかなかそれを公言できない、そんな雰囲気が感じ取れます。

なので、こうして富家伝承を掲げてくださる神社様に出会うと、驚きと共に、感謝と敬愛の念が湧き起こります。
富家伝承を信じて、旅と考察の日々を過ごしてきたことは無意味ではなかったと、思うのです。
この日僕は、その思いから、三島鴨神社の宮司さんに直接お会いしたく、参拝させていただきました。

当社祭神は公式には、「大山祇神」(おおやまづみのかみ)と「事代主神」(ことしろぬしのかみ)となっています。

ですが、実際に参拝してみると、もう一柱「木花咲耶姫神」(このはなさくやひめのかみ)の名前が書かれてあるのに気がつきます。

これは神話では、大山祇神には二人の娘、コノハナサクヒメとイワナガヒメがいたとなっていますので、天孫妃の名前を連ねたものと思われます。

しかしリアルな史実では、コノハナサクヤヒメ陣営と登美家・大彦陣営は、どちらかというと敵対関係にあたります。
三島鴨神社にコノハナサクヤヒメが祀られているのは、少々違和感を感じていました。

ただ、聞いた話では、三島鴨神社にはやはり女神様もいらっしゃるとのこと。
ではコノハナサクヤヒメになっている本来の女神は誰なのか。
普通に考えれば「三島溝杙姫」(みしまみぞくいひめ)ということになるのだろうと思われます。あるいは、ひょっとして。。

富家伝承に添えば、出雲王家・富家の血が流れていることに誇りを感じていた大和の皇子「大彦」は、当地に富家の偉大な王「事代主」を祀ったと云います。
ただ、三島鴨神社はもともと、淀川の川中島(御島)に鎮座していたものを慶長3年(1598年)の淀川堤防修築の際に現在地に遷座したとあります。

三島鴨神社の資料によると、摂津の御島は、桧尾川(安満川)・芥川・安威川(玉川)による玉川湖沼と淀川とが流す土砂が堆積して出来た川中州で、それは唐崎(韓崎)・枚方(白肩)あたりから下流の三島江(玉江)・柱本(柱松)・茨田におよぶ大きなもので、大山祇神のお社を設けたことによって尊敬して「御島」と呼んだとのことです。
つまり、御島には現在の三島鴨神社のもう一柱の祭神、大山祇神が祀られていたのです。
大彦が事代主を祀った社と、摂津の御島の社は元は別の社で、後に合祀されたのではないでしょうか。
そして淀川下流には、姫嶋神社が鎮座する川中島「摂津比売島」があったのです。
三島溝杙姫が存命であったころの御島と比売島には、出雲のサイノカミであるクナト大神と幸姫(さいひめ)が祀られていたのではないでしょうか。

これについて興味深い話をしてくださったのが三島鴨神社の宮司様で、三島鴨神社のすぐ傍には、「西面」と書いて「さいめ」と呼ぶ地区があるのだとのことです。
さいめ、これは斎女か幸姫のことではないかとのこと。
僕は「幸姫説」、激推しです。

さらに気になったのが、大阪を分断するかのように流れる一級河川「淀川」を遡れば、東に「宇治川」、北に「鴨川」と別れ、その先にはなんとも意味深い聖域があるということ。
奇しくも丑の刻参りが伝わる貴船と宇治、それは「禊ぎの川」としての側面も有します。
人の穢れを流す川は淀川を経て大阪湾へ注ぎ、

阿波路を経て常世の国「四国」へと至ります。
四国の入口は「吉野川」であり、それを遡れば「上一宮大粟神社」や、「浮島八幡神社」が鎮座する日本一大きな川中島「粟島」(善入寺島)があるのです。

つまり何が言いたいのかというと、三島族と四国は深い関係にあり、三島溝杙姫や果ては幸姫までも、越智ゆかりの姫君だったんじゃないのかという僕の自説を後押しする一端となりうるのではないかということであり、
・瀬織津姫(せおりつひめ)は諸々の禍事・罪・穢れを川から海へと流す
・速開都姫(はやあきつひめ)は河口の海の底にいて、瀬織津姫の流した穢れなどを飲み込む
・気吹戸主(いぶきどぬし)は速開都姫が穢れなどを飲み込んだのを確認して、根の国・底の国に息吹を放つ
・速佐須良姫(はやさすらひめ)は根の国・底の国に持ち込まれた穢れなどをさすらって失う
という「祓戸四神」の禊祓いのシステムは、この淀川から生まれたのではないかと、ぼんやりと思いつきましたということなのでした。

淀川を遡って宇治川、さらに宇治川の上流(瀬田川)に行くと、中臣金が「祓を創し祓戸大神四柱を奉祀した」という佐久奈度神社がありますね。
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佐久奈度神社、面白そうです♪
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三島につながる過去も明らかにする時期なのかと、初めて書きます。 明治から母の実家は宝塚市で、明治改革以来島根から移転してきた町でしたが、昭和30年代に高槻市にもう一軒家を持ちました。父と暮らし姉が生まれる頃、姉も私も出生届は高槻市役所から出されております。 三島鴨神社にも古墳群にも徒歩圏、もともと知っていた町でもないのになぜこの地を… 女子口伝で聞き出せていない一連の中にこれらが隠されていそうで、溝杙姫や幸姫との関係、この地で出生した私の名に何故「富」の字を入れたか。まだまだです🤔
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三島鴨神社の宮司さんはとても気さくな方で、お会いされると色々情報共有できるかもしれませんね😊
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大日本地名辞書 上巻のp504には、佐久奈度神社の近く、鹿飛(シシトビ)という地名があり、その地の古称はイシラであると書いてありました。”ラ”の漢字がIMEパッドで入力しても出て来なかったので諦めました…。今現在も、鹿跳橋や鹿跳渓谷という地名は残っています。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/260
金子様がブログで、”イソラ”について触れられているので、語呂が似ていて、以前から気になっています。
大元本『サルタ彦大神と竜』にも、「瀬田川のミソギの地(大津市大石中町)に、佐久那度神社が建てられた。」とあるので、鹿飛の古称のイシラがそのミソギの地ではないかと🤔
金子様にも読んでいただきたく、こちらの返信ツリーのほうに失礼いたしました。
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こんにちは。
こちらに参拝したときに、
木花咲耶姫に私も違和感を感じたことを覚えています。
シンプルに、山陰大山に坐すクナト大神が三島鴨神社の大山祇神のことで、サイヒメが西面の名残ならば、夫婦神で元は祀られていたのでしょうね。
大彦が建てた痕跡や、クシヒカタや玉櫛姫の痕跡がどこかにないかなあ。。と、個人的には探したいけどなかなかわかりませんね。
あと、関係ない話なんですが、この神社を訪れるとき、雨女の私でもものすごく快晴なんですよね。入道雲とか出てて。注連縄の由来にクナトというお言葉が見れる貴重なお社。また行きたいです。
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narisawa110
あるぇ?この橘紋って、穴師の兵頭神社のにソックリですね。
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あそこはなぜか、タジマモリを持ち上げていますからね。
でもこの橘紋って、意外と神社で見かけるんですよ。
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