
日御碕へ向かう29号線の途中、御陵神社へと続く23号線方面へ分かれたところに「岐神社」があったので、立ち寄ってみました。

おお、あったあった。

小社ながらも厳かな雰囲気。

“くなど”かと思いきや、”ちまた”でした。
まあしかし、御祭神を見ても、クナド神由来の神社であることは明白です。

岐神社は、日御碕神社の末社。
古来この地に鎮座していたのを、明治7年に本社へ合祀すべきとの令があったが、区民たっての誓願によって残されることになった、そうです。



この日の宿は、海鮮民宿「ことぶき荘」さんです。
ことぶき荘さんはどんなところにあるかというと、

日御碕の

こんなとこ。

岬の上から、すんごい細い道を海岸線まで一気に駆け降りた所にありました。道怖すぎる。

目の前の海岸は「おわし浜」。スサノオさんがおわしたので、おわし浜だそうで、

美しい海が広がっているのです。

さて、僕もおわしまして、ことぶき荘さんで楽しみにしていた夕食をいただきます。。

舟盛り、ktkr🤩刺身うま~😋

海の幸づくしでボリュームがヤバみで、どれも美味しい。

日御碕いこ~って考えてたら、ちょうどXでmeeさんがツイってて、即予約したよねー。あんがとー。センキュー。
朝食も豪華でした。



何度目かの「日御碕神社」(ひのみさきじんじゃ)へやってきました。
島根県出雲市大社町日御碕に鎮座し、昼を守る伊勢神宮に対し、「夜を守る聖地」として有名です。

参道の入口付近には、「和布刈神事」(めかりしんじ)のレリーフが置かれています。
「成務天皇6年1月5日の早朝、一羽のウミネコが海草を日御碕神社の欄干に3度掛けて飛び去った。不思議に思った神主がそれを水洗いして乾かしたところ、ワカメになった」
という故事にならって行なわれる神事で、毎年旧暦1月5日に宇龍港(うりゅうこう)の権現島に鎮座する熊野神社にて行われます。

和布刈神事といえば、僕の地元福岡の北九州「和布刈神社」にも伝わっていますが、こちらは神功皇后が二韓征伐からの凱旋を祝って、自ら神主となり、早鞆の瀬戸のワカメを神前にささげたという古事が由来となっています。
成務大君は、13代ワカタラシ帝のことで、彼の奥さんが神功皇后ですから、出雲と北九州に伝わるワカメ狩りの神事には繋がりがあるのか、はたまたこの頃は各地でメカるのが流行っていただけなのか、気になります。
和布刈神事は、宗像と神門系に関係があると、僕は睨んでいますが。

ところでどうよ、この感じ。龍宮じゃん。

出雲の神社とは思えぬ雅な社殿で、まさに宇佐八幡風です。

ふと思ったのですが、八幡造りは龍宮っぽい神社を目指して造られたのではなく、実は逆で、八幡造りの社が先にあって、後からそれを龍宮城と設定したのかもしれません。

日御碕神社には本殿が二つあるのですが、楼門から真っ直ぐ入った場所にある社は「日沉の宮」(ひしずみのみや)と言い、

「天照大御神」が祀られ、五男の神が配祀されています。

一方、右手の高台にある「神の宮」(上の宮)には「素盞嗚尊」が祀られ、三女神が配祀されます。
配祀神の五男三女神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神だと、古事記で設定されています。

富家伝承を訪ね歩く「八雲ニ散ル花」シリーズのラストとして、僕はこの日御碕神社を挙げましたが、当時はスサノオ=徐福という概念に囚われすぎており、また知識も足りなかったので、十分な考察に至りきれていませんでした。
あらためてここで、当神社を検証してみたいと思います。

社伝には、天葺根命(あめのふきねのみこと)、つまり出雲王家7代大名持の「天之冬衣」(あめのふゆきぬ)がスサノオの御魂を隠ケ丘で奉斎し、さらに神勅によってアマテラスを文島に奉斎したとあります。

その後、3代安寧大君13年(紀元前536年)に隠ヶ丘の社を今の神の宮に、天暦2年(948年/62代村上天皇)に文島の社を今の日沉宮に、勅命により遷座したと伝えられます。
古くは『出雲国風土記』に「美佐伎社」、『延喜式』に「御碕社」と記され、地元では「みさきさん」の愛称で呼ばれるようになりました。
今の社殿は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の命で、松江藩主・京極忠高の手によって造られており、日光東照宮を模した権現造りであるとのこと。

これに対し、我らが斎木雲州師は、6世紀のヒロニワ大君(29代欽明大君)の時代に「日置臣志毘」(へきのおみしび)が杵築郷に築いた「御前ノ社」(みさきのやしろ)が、日御崎神社の元であると、著書『出雲と蘇我王国』に記してあります。
日置氏はもともと渡来系でしたが、向家(富家)から嫁を貰い臣家を名乗ることを許されたそうです。

さらに師は、聖徳太子のモデルである上宮太子(かみつみやたいし)と33代推古女帝の娘・貝蛸皇女との間に生まれた「日奉王」(ひまつりおう)が、沈む太陽を拝するのに絶好の場所である日御碕に社殿を築き上げたと、著書『上宮太子と法隆寺』に記しました。

日奉王が出雲へ都落ちをした時、彼を熱烈に歓迎したのが旧西出雲王の子孫・神門家(郷戸家)でした。
日奉王の指示のもと、大工の棟梁を指揮し、日御碕に社殿を築いたのは神門家であったと伝えられます。
その頃、都では、息長系の勢力が強くなっており、その迫害を避けるため、日奉王は日置氏の名前を継ぐことにしました。
彼は以後、「日置王」と呼ばれることになります。
つまり、この頃には日置氏は富系から神門系に変わっていたことになります。
日置王が築いた日御碕神社は出雲でもっとも立派な神社となり、杵築大社よりも歴史が古く、また日置王は国造家よりも出雲の民に人気があったということです。



さて、日御碕神社宮司家の「小野家」は、国造家である千家家とも度々姻戚関係をもち、現在の宮司は天葺根命から98代目なのだそうです。
かのB女史さんは、小野家の方との対談で、「日御碕神社の小野家の末裔が和邇氏であり、その実態は神門家(郷戸家)あることが分かった」と教えてくれました。
また、「天乃冬衣自体は、冨家ですが、その後に神門系になる」のだと。

前回の記事でnarisawaさんが、「椿大神社も神門家だったのではないか」とコメントくださいましたが、その可能性も高いと思われました。
出雲の西方、大田から戸田にかけては小野家が住んでおり、伝承によると、この小野臣や和邇臣から猿女君氏の語り部が出たが、その中では天鈿女命の子孫と称する稗田氏が本流とされているとのことでした。
天鈿女は、椿大神社で亡くなったとされる豊来入姫のことであり、実は彼女は生き延びて神門家の血と結びついて子孫を残していたなら、その一族が稗田家となり、この伝承も辻褄が合うように思われます。
そして稗田系の語り部をついだ男が、太安万侶をして「稗田のアレ」と呼ばせたあの男でした。

一般的に小野氏は、「小野妹子」(おののいもこ)や「小野篁」(おののたかむら)を輩出した、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した名門氏族といわれ、5代孝昭大君(カネシエ帝)の皇子「天足彦国押人」(あめたらしひこくにおしひと)を祖とする和邇氏の枝氏であるとされます。

国押人とは6代孝安大君のことで、大元出版の最新見解である『出雲王国とヤマト政権』(富士林雅樹 著)によれば、富家の姫を后に迎え、大彦を儲けたとしています。
すると、小野家と大彦家(本来の大君家)とは親戚関係になり、小野氏が大和に於いて重要な氏族へとなり得たのも納得されます。
また本来の11代大君・彦道主は、和邇の地で襲名したことから、和邇家と呼ばれるようになります。
そのことから僕は、てっきり彦道主が和邇家の祖であると思い込んでいましたが、大和に和邇の地が既にあったように、和邇族自体はもっと古くから存在したのです。

混乱してきましたので、これまでの情報を整理してみます。
①まず最初に、天之冬衣(天葺根命)、もしくはその子あたりが、天宮山(熊野山)に埋葬された初代王「菅之八耳」の拝み墓を「隠ヶ丘」に作る。同じく文島(経島)に「出雲の太陽の女神」を祭祀する(?)。
隠ヶ丘は古墳だといいますが、天之冬衣の時代はまだ古墳は造られていませんので、後から土が盛られたのだと思われます。
②天之冬衣の子孫から小野家が派生。さらに小野家から和邇家が派生。和邇家は日本海沿岸の海洋民族としての特性を持っていたのではないか?ゆえにワニ氏と呼ばれた、と。
③安寧大君13年(紀元前536年)に隠ヶ丘の遥拝所を、今の神の宮の地に造設。この遷座を手掛けたのが天之冬衣の5世孫である御沼彦(みぬまひこ)であると伝えられます。御沼とは、宗像神とも関わりの深く、月にある変若水で神を禊ぐ巫女を出したという、あの水沼氏に繋がるのでしょうか。
④5代孝昭大君の頃までに、小野家は和邇家と共に大和進出。和邇家は孝昭大君に后を出し、国押人を儲ける(大和大君系和邇氏の祖となる)。
⑤6世紀の29代欽明大君の時代に日置臣志毘が杵築郷に「御前ノ社」(みさきのやしろ)を築く。場所は今の日御碕神社よりも東の方、和布刈神事が残る大社町宇龍の辺りではないか。
⑥出雲へ都落ちをした日奉王が、沈む太陽を祀るため、宇龍の御前社を隠ヶ丘遥拝所の地に遷座した上で社殿を建築。神門家色が強くなっていた日置氏から妃をもらい、日置王となる。
日置王が築いた日御碕神社は出雲でもっとも立派な神社となる。
⑦62代村上天皇の天暦2年(948年)に文島の社を今の日沉宮に遷座。
⑧3代徳川家光の命で今の社殿が造られる。

このような感じなのですが、「隠ヶ丘」と日置臣志毘が築いた「御前ノ社」は、元は別物であると考えられます。
では、日置臣志毘は御前ノ社に誰を祀ったのか。
志毘は29代欽明大君の部下でしたので、彼の命により御前ノ社を建てたであろうと推察されます。
そこで「御前神社」で検索をすると、岡山の「オンザキジンジャ」がヒットしました。
由緒
当神社は御前大明神と称し、欽明天皇29代の御代に勧請したという。
「御前」とは素盞嗚尊の変化であり、葦原醜男尊をさす。この神は9万8千の軍の神である。いかなる悪魔鬼神も降伏させ、最も先に立って追い失うゆえに、字訓でも御前と書くのである。

欽明は仏教派の大君でしたので「悪魔鬼神も降伏させ」と、ちょっと仏教的な神になっています。
同じ大君の御代で建てられた「御前」の社は、同じ神を祀っていたと考えられ、御前神とは素盞嗚尊の変化であり、葦原醜男尊をさすとあります。

そこでふと思い立った僕は、「隠ヶ丘」と、ある聖地を線で結んでみました。
するとビンゴ!ラインは大社町の宇龍を通ります。そのある聖地というのは、

「御陵神社」です。
天之冬衣が隠ヶ丘に祀ったスサノオ=菅之八耳と、御陵神社に祀られた葦原醜男=大国主を合わせ祀ったのが御前ノ社、ひいては「美佐伎社」ということになるのではないでしょうか。



日御碕神社の成り立ちを、僕なりに紐解いてきましたが、まだ謎があります。
それは社殿の配置。
神の宮が徐福ではなく菅之八耳、さらには大国主を併せ持った神であるとしても、太陽神がそこより低い位置に祀られているのが解せません。
太陽神は元は文島(経島)にいて、今は天葺根命が祀られているといいます。
そもそも、この日御碕の神域において、最も高い場所に祀られているのが月読神という、これはどういうことか。

そこで「神の宮」と「日沉の宮」の社殿の向きをライン引きしてみました。

これに、冬至の頃の日の出と日の入のラインを重ねると、誤差の範囲で一致します。
なんと、日沉の宮は日の出の方向を向き、沈む日を見守っていたのは神の宮の方でした。
そもそも、「日本の夜を守る神社」というフレーズの由来は、日御碕の最も高い場所に祀られる「月讀神社」にあるのではないでしょうか。
冬至は、陰の氣が陽の氣に転じる基点であり、一年で最も夜が深い日でもあります。
それを月神が見守る形。

さらに、月讀神社はすみません、うろ覚えで正確ではありませんが、多分このブルーの方向を向いていたと思われ、経島神社はGoogleマップで確認すると、緑のラインを向いています。
その先にあるのはやはり、御陵神社。

御陵神社は大国主の埋め墓であろうと考えていますが、それだけでなく、いわゆる神門家代々の天宮山なのではないでしょうか。

神門王家の御魂が鎮まる常世を拝する聖地、それが未だ禁足とされる文島なのかもしれません。

ここで、B女史さんのいう
「和邇氏の実態は、神門系です。日御碕神社の小野家の末裔であることが、この小野家の方との対談でわかりました。天之冬衣の末裔ですね。
天冬衣自体は、冨家ですが、その後に神門系になります」
について、もう一度考えてみます。

日御碕の位置は、古代出雲の東王家・富家と西王家・神門家の境の微妙な位置にあります。
さらに、僕は、島根半島は出雲王国初期には、別の勢力の領地であったと考えています。
島根半島が出雲王国領となったのは、おそらく国引き神話の6代大名持「八束水臣津野」(やつかみずおみづぬ)の時だと思われます。

オミヅヌは、「国引き神話」に語られるように、王国の領土を増やすために、各地の豪族の娘たちとの婚姻関係を精力的に増やし、またこの頃、出雲王国の軍備が整えられたといいます。
さらにオミヅヌは、彼の生家であった今の鳥取県の姫路神社から、神門家に養子に迎えられた人であったと伝えられます。
この養子縁組も、領土拡大の要因の一つだったのかもしれません。

こうして島根半島が出雲王国領となった次の代が7代・天之冬衣でした。
彼は、新たに手に入れた領土の両王国圏境「日御碕」に祖王・菅之八耳を祀り、神門家の姫を妃に迎えた、その子孫が「小野家」なのではないでしょうか。
これで富家の天之冬衣が、神門家になる謎が解けます。
そして日御碕が出雲王国領になる以前に当地を支配していた一族は、月神と常世の信仰を持っていた一族であったのではないか。

日御碕神社楼門をくぐり入った両脇には、門客人社(かどまろうどしゃ)が二社建っており、ここに祀られる神は櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)と豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)ですが、

この二神は、「天石門別神」(あまのいわとわけのかみ)の別名であるとされます。



日御碕神社は太陽神が低い位置に祀られているのが解せないとは言いましたが、実は屋根の高さは神の宮と変わりません。
天の高さで太陽神をリスペクトしている、ということでしょう。

神の宮の千木は、スサノオ=物部の流れに沿ってか、残念ながら横削ぎになっていますが、

日沉の宮は出雲式の縦削ぎになっているのが好感持てます。
安易な男女神分けで区別されていないのが、素晴らしい。

境外に出ると、

摂社の「宗像神社」がありますが、

通常なら三女神、もしくは単独で末の市杵島姫が祀られているものですが、ここには田心姫一柱のみが祀られています。
それは、天之冬衣の妃の一人が、彼女だからでしょう。

神門家オミヅヌの息子の1人がアタカタスと呼ばれ、北九州に行き、神門家の分家として宗像家を興しました。
田心姫はオミヅヌの孫娘にあたりますが、彼女はいわば神門家の姫と言えます。
小野家は天之冬衣と田心姫の子孫ではないか、と思われます。

そして海洋民族としての資質は、東王家・富家よりも、西王家・神門家のほうがはるかに高いイメージです。
彼らに高い航海技術を伝えたのは、隠岐島などの黒曜石を採掘していた、元より日御碕に定住していた一族だったのではないでしょうか。
宗像族には母系としてその血が受け継がれ、また小野家とその一族が結ばれて和邇家が派生したのでは。

日御碕神社から隠ヶ丘に至る一帯の外周を歩いてみれば、それが大きな岩盤であることが分かります。
つまり、ここ自体が神聖なる磐座なのです。

その岩には、石英の白蛇が浮かび上がっており、

場所によっては、岩そのもの全てが白いのです。

国引き神話でオミヅヌが引いてきた志羅紀の三埼(しらきのみさき)とは、これを表しているのではないでしょうか。

日御碕の最大聖地、ウミネコの繁殖地として知られる禁足の島は、どことなく龍宮に棲まう生き物のように見え、さらにこの沖には海底遺跡もあるのだといわれていました。


こちらもタイムリーゆえ、引き込まれるように拝読させていただきました。この時期に拝読することになるのも嬉しいものです。来週5日間ほど島根に参ります。元々大田川合の物部神社は毎年11月24日に重要な神事がございまして、一昨年・昨年と別仕事にて訪問できず久しぶりに訪ねつつ日御碕や御陵神社へと思っていたところでした。明治期に金子家の本家は神奈川へ、私共の四代・三代上が関西へ移りましたが、関西への理由は石上神宮との繋がりです。明治政府の意向に晒される中でも如何に中身は残して行けるか、近代では苦労話も語れるような時代となって来ておりますが、平成中期以降の興味本位なスピリチュアルブームを警戒し、暫く世に出すのを躊躇う状況であったのも確かです。やっとこの5年程前から約半世紀前の10代の頃に見聞きした事を纏め始めてもよいのかも?と流れを感じていた矢先に五条様のブログとの出会いを嬉しく思っております。島根に行けば親族を通じ神門についての何かの資料を読むことが出来るかも知れず、今回の訪問も心して掛かります。
いいねいいね: 1人
出雲王家のことを語ると、どうしても物部家は悪者的な立ち位置になってしまいます。
しかし、仏教伝来の時も、最後まで戦ったのが物部氏であり、明治以降の圧力に今なお密かに抗っているのは、石上神宮始めとした神域を守る方々なのかもしれません。
偶然にも、昨日は石上神宮を参拝させていただき、その足で八つ岩まで行ってきました。そこで驚くものを見てきました。
いいねいいね: 1人
石上神宮と八つ岩にいらしたのですね!それも昨日…なんということでしょう。まさに御意でありますが、仏教との関係については天武天皇-神仏習合の意を近代の世において必要な融和との意識で奈良薬師寺の方々とも交流させていただいております。来週は出雲界隈を廻る際、一畑薬師の宿坊(実にお洒落なコテージです)にも泊まり朝のお勤めの読経にも参加いたします。今出来ることは何かを踏まえつつ、先人の想いを噛み締めます。
いいねいいね: 1人
キリコさん、どうもご無沙汰しておりますm(_ _)m
つい2日前の早朝、
御陵神社さんにお参りしてきたので、
今朝この記事を拝見して
タイミングの神采配に、鳥肌が今も継続中です(゚д゚)!
出雲の歴史を知る前からずっと
なぜ御陵神社さんに、
こんなにも心惹かれてきたのか…
魂の記憶だけかと思っていたら
遠いご先祖参りでも
あるのかもしれません(。・_・。)
しかも、和邇からの小野かと思えば
出雲の小野家が
元かもしれないのですね(゜o゜;
祖母家が平安時代くらいに
京都からこちらに来た理由を
私がなんとなく「里帰り」だと
感じていた答えにもなっていて、
とても納得の考察でありました☆
やっと少しずつではありますが、
キリコさんの島根旅レポートを
拝読することが叶いそうなので
これからが楽しみです♪
ちなみにおわし浜は、二十代の頃
日御碕駐在所の娘さんが友達で
駐在所にお泊りさせてもらって
泳ぎに行った思い出の浜だったので、
とても懐かしいです〜(о´∀`о)
ももじ
いいねいいね: 1人
こんにちは、ももじさん。
お仕事も忙しそうですね。
御陵神社参拝の様子は、ブログで拝見しました。
やはりあそこは、ことさら重要な場所なのですね。
富先生と結んでいただいたご縁は、さらに次のご縁へと続き、それは今も広がり続けています。
さすが、ご縁の国。
今もすごい方と、情報交換をさせていただいています😊
いいねいいね: 1人
narisawa110
宇佐神宮に、裏切り者のイクメ系の神社の神事をわざわざ取り入れた理由に関してはずっと腑に落ちませんでしたが、物部姓に変えられた出雲の家系であればまだ納得できますね。
これからちょっと調べてみますが、石上神宮にはサクヤヒメがいるんじゃないかと。
さてはて、関東富士山のサクヤヒメ信仰の中心は、神門臣家なのかどうか。
いいねいいね: 1人
神門がアツい😊
いいねいいね
天理にある和爾下神社は、和邇家分岐の柿本人麻呂が、祖先を祀ったとされる神社だから、スサノオ(菅之八耳)や大己貴命を祀っているのでしょうか。近々天理に宿を取るので、訪れようかと思った矢先に、人麻呂と和邇氏のことがでてきたので、偶然にビックリです。神門家なのですね。。
あとは近江の小野、和邇の地名が気になるところです。
いいねいいね: 1人
柿本氏は和邇氏の派生のようですが、人麿は元は綾部姓なので、必ずしも和邇系かは分かりません。
人麿のお母さんが、戸田の小野氏から稗田系の語り部を継いだとの話ですね。
いいねいいね
narisawa110
昨日の春日臣の系図のお話なのですが、この家から、孝昭天皇から開花、そしてヒコイマスの奥方が出ています。
その後に春日ワニ臣家になっているので、どちらが先にワニ化したかは分かりません。記紀は少し設定を遡って系図を分かりやすく書いていると思います。
石上神宮に落とし込むと、出雲神門系がが物部性になり、物部が石上姓になっている事になるので逆転しているわけです。
もう、フィルターが強すぎて猿田彦とウズメの組み合わせになると神門臣にしか見えませんww
神門臣家は設定上、天孫降臨していることになりますから、後年の方々はこの設定を大事にしてきたのではないでしょうか?
私は口伝通り、トヨは若くして亡くなっていると思います。ウサに石上のフルフル神事が伝わったのは、後年に宇佐家と石上の誰かが婚姻した事が、遡ってウズメの象徴になったと考えています。
何にせよおそるべし神門臣家ww
人麿は柿本家の養子になった事で石上の協力を得て、神門臣と物部の両方の情報を仕入れる事ができた可能性があると思われます。
いいねいいね: 1人
ここに来て、まさかの神門フィーバーですね😄
人麿は神門、物部に限らず、知りすぎたから消されたのかもしれません🥲
いいねいいね