忍熊王は明石海峡を眼下に望む、小高い岬の上に立っていた。
「うむ、壮観だ。」
陸地には兵士が隊列を為し、海上には勇壮な軍船が所狭しと浮かんでいた。
「父上の主だった群臣はあちらに付いたようだが、兵士の数では我らが圧倒的だ。
大和の力を見せつけてくれよう。」
と、忍熊王は西、豊浦宮のある方を見た。
今は特に、変わった風もない。
少し前まで兄の麛坂王も一緒にいたが、その時、西の空が一瞬光ったような気がした。
それはあまりに曖昧で、麛坂王に聞いてもそんなものは見えなかったと言われた。
そこでふと思い浮かんだことを、忍熊王は麛坂王に話しかけた。
「兄者、父上の死因についての噂を聞いておるか。」
「あれか、神に呪い殺されたというやつか。」
「ああ、そうじゃ。
あの女が神託を受けている時に、その神が父上を呪ったそうだ。
その神は父上の代わりに、女が身ごもった子がこの国を支配すると言ったらしい。
しかもあいつは、その祟り神を味方につけて三韓を従えたという話もある。」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。
ならば儂も神の神託とやらを聞いてみようではないか。
奴らが明石へやってくるまで、まだしばらく時もかかろう。
儂は狩り占いをしてくるぞ。
見てろ、大獲物を仕留めてこの戦を勝利に導いてくれるわ。
お前は宴の準備でもして待っておれ。」
麛坂王はそう言い放って、供を数人連れて山中へ狩りに出かけてしまった。
あの光は何だったのだろう、忍熊王が思い返していた時、
「忍熊王様、豊浦宮が敵軍に堕とされました。」
部下の一人が、そう告げてきた。
(やはりだめだったか)
豊浦宮に残してきた兵だけでは、今の勢いづいた神功皇后の軍は防げるはずもなかった。
(仕方ない、我らはここ、明石で攻め立てよう)
忍熊王はさらに思い返していた。
父、仲哀天皇が筑紫の熊襲・土蜘蛛を征伐すべく立ち上がられ、穴門の豊浦宮へ遷宮すると聞いた。
すぐに自分と兄も、父の力になろうと兵を挙げ豊浦宮へ馳せ参じた。
しかしその父が最後に宮へ呼んだのは、自分と年の差もないような、最近娶ったという姫だった。
大王の先の后「大中姫」を母とする自分と兄は、父のその若き姫への寵愛ぶりに白けた気がした。
仲哀天皇が更に筑紫へと渡り、岡の水門で陣を構えると言うと、麛坂王と忍熊王の兄弟は豊浦宮を守るように言い渡された。
兄はこれを引き受け、わずかの兵を残して、さっさと大和へ引き返してしまった。
「くだらん、やってられるか。」
兄の麛坂王は帰途、そう愚痴っていた。
自分も兄に倣って大和へ引き返したが、頭の中では別のことを思っていた。
あの姫、日の巫女の再来、絶世の美女だと噂されていたが、実際に目にした時、忍熊王は息を飲んだ。
こんなに美しい生き物がこの世にいるのかとさえ思った。
純粋さと妖艶さが、とぐろを巻いてそこにある。
神に愛される女とは、ああいったモノなのかと、考えていた。
その女とこれから一戦交えなくてはならない。
複雑な気持ちであったが、こちらも引くわけにはいかなかった。
と、遠くの方が何やら慌ただしい。
何事かと見てみれば、麛坂王の従者が馬を投げ出すように乗り捨て、こちらに走ってくる。
顔色が尋常じゃないほどに青い。
「どうした」
「お、忍熊王様、麛坂王が亡くなられました。」
「なにっ、どういうことだ」
「そ、それが…」
従者は異常に震えている。
「麛坂王は狩に参られましたが、今日に限って一匹の獲物もおらず、このままでは験が悪いと森深くまで進まれまして」
「と、突如現れたのです」
「何が現れたというのじゃ」
「い、猪です。人の倍はあろうかという巨大な猪です。
麛坂王は、、
麛坂王は、その猪に襲われて、、喰われてしまわれました。」
「なん、と」
その大猪は、麛坂王と従者の数人を襲い、返り血で巨体を真っ赤に濡らしていたという。
忍熊王は、黄泉の使者から背中をなでられたような、悪寒を全身に感じていた。
【甲宗八幡神社】
北九州の門司に「甲宗八幡神社」(こうそうはちまんじんじゃ)があります。
参道入り口に「本居宣長歌碑」があります。
「海の外 おきつちしまも天皇(すめらぎ)の 稜威(みいつ)かしこみ いつきまつらふ」
とあります。
この神社の名の由来は、ご神体にありました。
神功皇后着用の甲を御神体としているそうで、50年に1度の大祭でのみご神体の拝観が行われるそうです。
ちなみに次回は2058年の予定。
境内の隅に、「平知盛」の墓があります。
平知盛は壇ノ浦の合戦で平家一門、安徳天皇・二位尼の入水を見届け、
「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害をせん」と言って入水を遂げたといわれています。
【和布刈神社】
九州の最北端、関門海峡と関門橋を望む場所に「和布刈神社」(めかりじんじゃ)があります。
ここは「新平家物語」によると、壇之浦の合戦前夜に平家一門が勝利を祈願したと伝えられています。
まさに九州の最北端に突き出た場所にあり、大きな磐座が鎮座しています。
ここに社がなくても、思わずひれ伏してしまう何かを感じてしまいます。
拝殿の向かいに、海へと続く鳥居があります。
この神社には古くから「和布刈神事」というものが伝えられています。
神事は、毎年旧暦大晦日の深夜から元旦にかけての干潮時に行われるそうです。
三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。
わかめは、万物に先んじて芽をだし自然に繁茂するため、幸福を招くといわれているそうです。
和布刈神社の御祭神は宗像三女神を表すとされる「比賣大神」や「安曇磯良」を始めとする安曇一族が信奉する祖神の神々が祀られています。
そして海を渡った向かいには住吉大神の荒魂を祀った「住吉荒魂本宮」があります。
いよいよ関門海峡と豊浦宮に帰ってきた神功皇后。
ここに此度の九州遠征、三韓征伐のシンボルとなってきた海人三族の祖神を祀ることによって、
神への感謝と、これからの航海の安全を願ったことでしょう。
本殿の横には稲荷もありました。
10本の鳥居をくぐって石段を登ります。
二匹の狐が出迎えるこの社は「早鞆稲荷」です。
関門海峡といえば「ふぐ」。
こんなおみくじもあります。
【住吉荒魂本宮】
山口県下関市にも「住吉神社」があります。
大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社であり、
「住吉坐荒御魂神社」「住吉荒魂本宮」とも呼ばれています。
境内に入ると心字池があり、厳島社があります。
手水も清らかです。
参道を覆う木が鬱蒼としています。
少し進むと青銅製の狛犬が迎えてくれます。
とても表情豊かな狛犬に心もほっこりです。
最近銅製の狛犬を盗む心ない人がいるようなのでちょっと心配。
さて、階段を上がっていきましょう。
「日本書紀」によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉大神が神託してその渡海を守護しました。
その帰途、住吉大神が再び神功皇后へ神託を下します。
「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と。
そして住吉大神の荒魂を祀ったのが下関の住吉神社だと伝わります。
神功皇后は穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てさせました。
拝殿は毛利元就の寄進により天文8年(1539年)造営された切妻造檜皮葺で、昭和29年に重要文化財に指定されています。
本殿を垣間見てみると、扉に美しい絵の跡が残っていました。
本殿は国宝に指定されていて、第一から第五の五殿が連なった造りになっています
御祭神はそれぞれ下記の通り。
第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
第二殿:応神天皇
第三殿:武内宿禰命
第四殿:神功皇后
第五殿:建御名方命(諏訪大社の御祭神)
住吉三神は大阪の住吉大社に和魂(にぎたま)を祀るのに対しここは荒魂(あらたま)を祀っています。
拝殿の右横から奥に続く道がありました。
そこにある摂社です。
左の社殿は高元社、
右に若宮社、田尻社、蛭子社、七社。
さらに奥に進むと「武内宿禰お手植えの楠」がありました。
この手植の楠の古株から新根が生え、根廻りは約60mにも及ぶ大木となっています。
なんとも神々しく、圧巻です。
ついに豊浦宮に達した神功皇后。
そのころ大和から明石へ陣を構えた麛坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)でしたが、
戦果を占う「狩り占い」で、あろうことか麛坂王は大きく赤い猪に襲われ殺されてしまいます。
猪に喰い殺されたという伝承もありました。
激しい力を持つ住吉大神の荒魂の威力か、と思えるほどの、凄まじい出来事です。
さて、住吉神社を出て少し歩いたところに「船楠」と「住吉の真名井」という場所がありました。
「その昔、住吉神社に供える御水は、沖つ借島(蓋井島)にある井戸の水を毎日楠船で運んでいたが、天平宝字年間(七五七~七六四)時の大宮司山田息麿は、海の荒れる日、神供出来ないことを憂い、神気を伺い、御井を山田邑(現在地)に移したと伝える。
このことから神水を運ぶ必要がなく、繋ぎ置かれた楠船に根が生え繁茂したといわれる寄瑞の霊木である。
尚、移水の真名井は、これより三十m南寄りに現存する。 住吉神社々務所」