
「力也」再び。

力也(りきや)さんは、神宮のお膝元、三重県伊勢市で美味しい松坂牛をリーズナブルなお値段で食べさせてくれるお店です。
しかしリーズナブルとはいえ、牛さんが牛さんなものですから、以前訪れた時はキヨ飛び(清水寺の舞台から飛び降り)るくらいの気持ちで食したわけです。

「するってぇと何かい、今度は昼間っからキヨ飛びるんかい?」と狛犬さんに怒られそうですが、ご安心ください。
さすがに松坂牛ではありませんが、黒毛和牛の美味しい肉を使った、超リーズナブルなランチメニューが力也さんではご用意されています。こりゃキヨ飛ばずにすんだよね。

待つこと十数分。

♪───O(≧∇≦)O────♪

こんがり炭火で焼かれた「あぶり焼き牛丼」と肉汁がたっふり染み込んだ「肉うどん」のゴールデンコンビ⚽️

どちらもお肉がフワトロですわ。



デザートは別腹、「赤福」さんでかき氷をいただきます。
もう、そんな季節なんやね。

手前のモチは、パイン福。甘くて美味しい、パイン福。
そんで抹茶のかき氷の中から現れる赤福の餡と餅が、やっぱい良いんだよね。



三重県多気郡明和町の「さいくう平安の杜」にやって来ました。
このだだっ広い平原を歩いて、摂取したキャロリーを昇華しなければなりません。

しっかし、いつの間にかこんなやつ、出来てたんかー。

再現された3つの建物は斎宮の役所「斎宮寮」(さいくうりょう)の庁舎。
東脇殿は、儀式の際に役人らが待機した建物と考えられています。

中央の象徴的な建物が正殿。

正殿は斎宮寮長官が儀式を行ったり、都や神宮からの使者を出迎えた建物とされています。

西脇殿は屋内での儀式や、使者をもてなす宴などに利用されたと考えられており、三つの建物の中で一番大きい造りとなっています。

西脇殿は中に入ることができ、簡単な資料の展示がなされていました。

この大規模な斎宮の中心となる人物が斎王(さいおう)と呼ばれる媛巫女です。
斎王とは、古代日本において天皇に代わって伊勢神宮に奉仕した、未婚の皇族女性のことをいいます。

斎王に選ばれた内親王らは潔斎を行いつつ、都から伊勢へと移り住むことになります。

斎王は穢れに触れてはならず、恋愛もご法度でした。
そうした斎王を守り、神宮の祭祀を滞りなく行うために、この大規模な役所が作られました。
この「さいくう平安の杜」と、可愛い現代のJD斎王ちゃんのことは、ブラタモリで最近知ったのですが、

11年前の2014年4月に、この奥の「斎王の森」と呼ばれる場所を僕は訪ねていました。

そこは「斎王宮趾地」とされ、地元でも古くから、ここが伊勢神宮に仕えた清純無垢の乙女「斎王」の住む館があった場所だと伝えられていました。

ここを訪ねた当時も「クンクンなるほど、確かに清純無垢な乙女の香りがする」と、乙女マイスターの僕はしみじみと深く感じいったものでしたが、西脇殿にいた説明係の人がおっしゃいました。

「ああ、斎王さんはね、確かに昔から斎王の森のところに住んでいたと地元でも言い伝えられて来たんだけどね、最近の研究ではこの向かいの竹神社に館があったって、分かったんだよ」

なん…だって?!

「竹神社」(たけじんじゃ)は、「さいくう平安の杜」から線路を隔てたお隣に鎮座しています。

当社の創祀年代は不詳。
社伝によれば、垂仁大君の御宇、竹連(たけのむらじ)の祖である宇加之日子の子「吉志比古」が大和媛の伊勢巡幸に供奉した際、この地に留まって祭祀したのに始まるとしています。

また、当地が多気郡と呼ばれるようになると、孝徳天皇の孫が郡領となり、祖神である長白羽神を奉斎したともあります。
多気郡(たきのこおり)は古くは「竹郡」(たけのこおり)と呼ばれていましたが、後に表記が改められ、その後読みが「たけ」から「たき」に変化したといいます。

さらに複雑なのですが、竹神社は元は別の地に鎮座しており、当地にあった八王子と称していた宇志葉神杜に合祀されたということです。

他にも、金剛坂の八幡社、八雲神社、麻尾の織絲神社、上村の八柱神社、若王子社、愛宕神社、津島神社、岩内の八柱神社、火地神社、高ノ宮八幡社、八幡社、八柱神社、池村の八柱神社、竹川の小倉神社、八幡社の十五社など、近隣25社の神が明治44年(1911年)明治期に合祀され、現在に至っています。(玄松子さんのサイトより)
合祀し過ぎー。

現在の竹神社祭神は、「長白羽神」「天照大御神」「建速須佐之男命」「八柱神」「応神天皇」「地主神」「火産霊神」「宇迦御魂神」「大己貴命」「天棚機姫命」「八千々姫命」「瀬織津姫神」となっていますが、

主たる神は「長白羽神」(ながしらはのかみ)ということになるのでしょうか。
この神は『古語拾遺』によれば、天岩戸神話において、思兼神に命じられ、麻を育て青和幣(あおにぎて)を織ったとされています。

神麻続機殿神社で伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ)の祖神とされ、別名を天白羽神(あめのしらはのかみ)といい、天太玉命の同族神であるともいいます。

長白羽神って、天津羽羽神のことではないだろうか。

さて、西脇殿にいた説明係の方がおっしゃるには、

境内にはコンコンと湧き出る泉もあり、生活や日々の禊に適していたとのこと。

周辺からは平安時代の大規模な塀列や掘立柱建物の跡が発掘されたため、最近ではここが斎王宮があった場所ではないか、といわれるようになったとのことでした。
そのように聞けばなるほど、クンクン確かにここは、清純無垢な乙女の香りがいたします。たぶん。



「さいくう平安の杜」の西に500mほど離れた場所、古里公園内に竹神社の旧跡地があるというので、行ってみました。

少し離れた場所に車を駐めてしまいましたが、公園にも駐車場がありました。
だいぶ歩くことになりましたが、まあキャロリー消費にはちょうど良い。

森の中に「竹神社跡」という案内板があります。

元は「桧木宮」と言ったそうで、竹なのか桧なのか、どっちやねん。

しかし見事な竹林で、一緒に生えている木は桧ではなさそうですね。

奥には立派な石碑が建っていました。逆光が神々しい。
でも僕は、竹郡(たけのこおり)が多気郡(たきのこおり)になったのではなく、”多岐”郡から”竹”の表記が生まれたんじゃないかって考えてしまいます。

この美しい竹林も後の名称に合わせて植えられたんじゃないだろうか。

竹林をてくてく歩いていくと、この先に祓川(はらいがわ)があると書かれた案内板がありました。

清純無垢な乙女が神に仕える意を決して、群行の最後に禊をした川、それが祓川。
行かない理由がありません。

どうせ近くだろうとタカを括っていたら、意外と遠かったんよ。

なるほど、これが祓川ですか。

しっとりとした良き川です。

斎王の始まりは、『日本書紀』崇神天皇紀によれば、宮中に祀られていた天照大神を大和国の笠縫邑に遷し祀った豊鍬入媛が初代とされます。
そして二代目が伊勢に天照大神を祀った大和媛。
『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測されています。

しかしながら、斎王という職が正式に制度として確立したのは天武天皇の時代であるとされ、『扶桑略記』によれば、天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女「大来皇女」を捧げたのが初代とする、とされています。
以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となりました。

斎王の選出においては亀卜が用いられ、新斎王が決定すると、邸に勅使が訪れて斎宮卜定を告げ、伊勢神宮にも奉幣使が遣わされて、斎宮はただちに潔斎に入ります。
その時より彼女は身も心も神に捧げることになり、お役を終えるまで恋愛も御法度となるわけです。

師匠が言うには「王家の娘は婚期が遅れがちだったんだよ。男が威張れないからね」とのことでしたが、その婚期さえ逃した王家の娘が果たしてお役目終了後に結婚できたかどうか。
おそらく多くの元斎王は、未婚を貫いたことでしょう。

現世には数多の自称・神の巫女がいますが、真に神に仕えるということの壮絶さ。
僕は”いにしえの媛巫女たちにこそ、常世で幸せを”と、神の坐す地で想いを寄せるです。


🐥力也〜〜‼️力也〜〜〜‼️(名前を力いっぱい叫ぶ)
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安岡 力也 (やすおか りきや、1947年〈昭和22年〉7月19日 – 2012年〈平成24年〉4月8日) は、日本の俳優・ロック歌手・キックボクサー・タレント。シャープ・ホークスのボーカル。イタリア名:リカルド・ニコ・バレンティーノ(安岡力也は日本国籍名)。身長187cm、体重108kg、血液型はO型。イタリア・ジェノヴァもしくは宮城県仙台市出身。埼玉県行田市育ち。長良グループ所属。
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🐥ホタテの被り物は最近被らないのでしょうか。ファンでした…🐣
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もうお歳なんでしょう🐚
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