息栖神社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 13

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東国三社の最後の一つ、「息栖神社」(いきすじんじゃ)へとやって来ました。
茨城県神栖市にある息栖神社は、東国三社の中でも、ちょっと異質な感じがしました。

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息栖神社の駐車場に車を停めたら、すぐに境内が見えますが、
ここは反対方向に進んで「一の鳥居」を目指します。

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利根川河口近くに位置する息栖神社、その一の鳥居の下には、

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二つの井戸があります。

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それは魚も泳ぐ、清らかな井戸なのですが、実はこの井戸が息栖神社の御神体なのです。

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この井戸は「忍塩井」(おしおい)と呼ばれ、「日本三霊泉」のひとつに数えられています。
この辺りは海水と淡水が混ざる汽水のエリアになりますが、 忍塩井では海水を押し返し清水のみが湧きだしています。

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社伝では神功皇后3年に造られたとしている忍塩井は、それぞれ「男瓶」「女瓶」という名の2つの土器から水が湧き出ています。
こちらは男瓶で銚子の形をしているそうです。

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女瓶はやや小ぶりで土器の形をしていると云われています。
井戸の水が澄んでいる時だけ見ることができるこの瓶は、見事拝むことが出来れば幸運が訪れると云います。
さらに、女瓶の水を男性が、男瓶の水を女性が飲むことで 二人の仲が良くなる縁結びのご利益があると伝わっています。

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息栖神社は実は過去に移転しているのですが、その際、この井戸も元あった日川から、自力でついてきたと云われています。

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数キロ下流の日川から息栖神社がこの地に移された時、取り残されてしまった男女二つの瓶は、神のあとを慕って三日三晩哭きつづけました。
そこで二つの瓶はとうとう自力で川を遡り、一の鳥居の下にヒタリ据え付きます。
しかしこの地に定着して後も、時々日川を恋しがり、二つの瓶は泣いたと云われています。
日川地区には瓶の泣き声そのままの「ボウボウ川」と、瓶との別れを惜しんで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されているそうです。

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さて、参道へと戻って来ました。

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入り口には立派な樹勢の稲荷社があります。

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鹿島・香取の両神宮に比べると、やや印象の薄い息栖神社ですが、訪れてみるとまた両宮とは違った、瑞々しい神気を感じます。

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神門をくぐります。

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境内には力石や、

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古い狛犬もありました。

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御神木も勢いがあります。

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主祭神は「久那戸神」(くなどのかみ)で、 相殿神として「天鳥船命」(あめのとりふねのみこと) と「住吉三神」(すみよしさんしん)が祀られています。

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主祭神はそう、出雲王朝最古の神「クナドの神」です。

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「日本書紀」は、葦原中国平定後、経津主神の全国平定にお供した神の名を「岐神」(くなどのかみ)と記しています。
しかし原初の日本において出雲に渡来した、インドのドラヴィダ族の王の名が「クナト」でした。
縄文時代、クナトとともに出雲に定着した民が出雲王国を築き上げ、初代王「菅之八耳」(すがのやつみみ)らがサイノカミの主神として「クナト大神」を祀ります。
そしてクナト王の后を「幸姫・斉姫」(さいひめ)や「キサカ姫」「八岐股姫」(やちまたひめ)などの名で祀りました。
また両神の子神としてインドのガネーシャを「サルタ彦」とし、またナーガを眷属神「龍神」として祀りました。

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やがて秦国から徐福が出雲に2000人、佐賀に3000人の童男童女や技術者らを連れて渡来します。
彼らの文明が弥生時代を生み出すのですが、その佐賀の子孫が「物部氏」となり、彼らが大和へ東征を行う影響で、出雲王国は終わりを告げることになります。
経津主は物部の神なので、「日本書紀」の葦原中国平定後の記述は、物部氏が出雲氏を制圧し恭順させたことを暗喩しているものと思われます。

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息栖神社の創建は、神功皇后の頃か応神天皇の頃となっていますが、元はもっと古い時代の「大彦(ヌナカワワケ)・安倍王国」の時代の創建だと考えます。
大彦は出雲王国に傾倒していましたので、彼の息子であるヌナカワワケ一族はここに「クナト大神」を祀ったのだと思われます。
後に神功・応神の代に、皇后とは切っても切り離せない重要な海神「住吉三神」が配祀されたのでしょう。

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ところで、もう一方の配神「天鳥船命」です。
この神は徐福の出雲への渡来の際、同行した「穂日」(ホヒ)の息子「夷鳥」(ヒナドリ)のことです。
ホヒとヒナドリは野心を持ち、当時の出雲主王「大国主」と副王「事代主」を拉致し、孤島に幽閉し、枯死に至らしめました。
そして以後、その子孫は出雲における要職を得て、記紀の編纂において自家の後ろめたい歴史を隠匿するために、裏工作を働いています。
古事記で、高天原から派遣された父「ホヒ」は大国主に恭順して3年帰らなかったのに、息子「ヒナドリ・トリフネ」はタケミカヅチとともに大国主に国譲りを迫るというチグハグな表記となっているのが、彼らの策謀のあらわれの一端です。
つまり、息栖神社に鳥船が配祀されたのは記紀の編纂の影響で、権力者に強制的に書き換えられたということなのかもしれません。

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さて地図上で鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の東国三社を結ぶと、綺麗な二等辺三角形となります。
地図の緑の部分がそうです。
このトライアングル内の地域では不思議な出来事が起こるともいわれています。

しかし息栖神社は神功皇后・応神天皇の代に日川(にっかわ)の地にに創建され、後の大同2年(807年)に藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝わります。
この話は息栖神社御神体の男瓶・女瓶の伝承にも見られます。
そこで御神体の井戸が遡って来たであろう常陸利根川を伝っていって、日川のあたりまで行ってみました。

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そこには「蚕霊神社」(さんれいじんじゃ)と呼ばれる神社がありました。
旧字体で「蠶靈」と彫られています。
この蚕霊神社を息栖神社に置き換えて、鹿島神宮・香取神宮を線を結ぶと、地図のピンクの部分、そう正三角形が浮かび上がります。

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確証は得られていませんが、ネットの噂をみると、やはりどうやらここが元宮らしいです。

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蚕霊神社は、その名の通り、養蚕の神を祀る神社です。
養蚕業はかつては一大事業だったため、養蚕の神を祀る神社も少なくはなかったようです。

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蚕霊神社の由来というのがありました。
ある日、漁夫の「権大夫」が「豊良湊」沖に漂う丸木舟を引き上げて見ると、世にも稀な美少女が倒れていたそうです。
少女はインドの「金色姫」というお姫様でした。

彼女の継母はとても妬み深く、国一番の美女ともてはやされる姫が憎くてたまりません。
そこで継母は姫を「獅子の山」へ放ち、「鷹の巣山」へ放ち、「絶海の孤島」へ島流しにしますが、姫は「獅子」に「鷹」に「漁夫」に助けられて戻ってきます。
業を煮やした継母は、城の片隅に穴を掘って姫を埋めてしまいます。
すると埋めた場所から、今度は眩い金の光がさして来て、継母は驚いてしまいます。

憎しみに取り憑かれた継母は、桑の木で作った「丸木舟」に姫を押しこめて、大海に投げ込みました。
流れ流れた丸木舟は、常陸国豊浦に流れつき権大夫に救われたというのです。

心痛めた権大夫は、我が娘のように育てますが、姫は病死してしまい、小さな虫となり変わってしまいます。
権大夫はこれも姫の化身と桑の葉を与えて飼育していると、四眠して五回目に美しい糸を吐きながら、繭を作ってその中に納まりました。
その繭から繰りとった絹糸で織り上げられたものが、見事な常陸絹織となって、その名声は高く、各地に広がっていったそうです。

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蚕霊神社の拝殿は赤く塗られており、とても印象的です。
ここにある蚕霊神社の由来は、「養蚕秘録」という江戸時代の養蚕秘伝書に書かれている伝承とほぼ同じだそうで、養蚕が盛んだった地区によく伝わっている話のようです。

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ただ、姫が流れ着いた「豊良湊」というのは神栖市波崎の舎利浜(しゃりはま)だという話があります。
舎利浜は、ここから利根川沿いに下った河口付近になります。
そこに着いた丸木舟は「うつろ舟」だったと云う話もあって、神栖の蚕霊神社も一気にミステリー色を帯びてきます。
「うつろ舟」というのは、どうやらUFOなのではないかという話があるからです。

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ただ「うつろ舟」の話は隣国の話によくある話で、養蚕業も「秦氏」、つまり秦国の渡来人がもたらした文化の一つです。
なので、当地にやって来た海部か物部の某かが伝えた話なのかもしれません。

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東国三社の謎のトライアングル、その真の歴史は闇に埋もれつつも、今はどこも素晴らしい清々しい聖地となって残り続けていました。

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