紀州漆器の里「黒江」(くろえ)。
その奥に「中言神社」(なかごとじんじゃ)が鎮座しています。
祭神は、「名草彦命」と「名草姫命」、それに「八王子命」。
元々は、この小高い丘の上に、嵯峨天皇の弘仁3年(813年)に紀伊国司が鎮守の神として八王子命を祀ったのが始まりで、後に五箇荘吉原村に鎮座の名草彦命と名草姫命の2柱の祭神を合祀し、中言神社と称したといいます。
境内にある怪しげな杜。
そこには筆塚がありました。
黒江・船尾地区は室町時代から木地師の集団が住みついており、近世に至っては漆工が盛んになり、紀州漆器の産地となりました。
漆器の製作には多くの筆、ハケ等を使用するため、筆への感謝を込め、また、業界振興、諸芸上達を願って、毎年4月1日には春祭として筆塚に使い古した筆を納める「筆まつり」が行われています。
更に境内に、怪しげな小屋を発見。
中は井戸になっており、この水は紀州名水「黒牛の水」と呼ばれているそうです。
名草彦と名草姫は後から合祀されたものでしたが、かつて名草山の周辺には、多数の中言神社が存在していたそうです。
今は社殿を構えるのはここの他2社くらいのもので、残り数ヶ所に石碑などが見られるばかりとなっています。
この社名の「中言」とは何か。
中言と称するは、「中は中臣と同しく言は即事なり名草の国造として神と君との御中を執持て事を執行う職なれば中言と称する」とされており、神と人との「中」に立ち、「言」を伝える者と解することができます。
つまり祭神のウェイトは、政を行なった名草彦よりも、神託を受け取る名草姫のほうにあり、大和や豊と同じく、姫巫女のカリスマ性の大きさを社名から感じうるものです。
「いにしへに 妹とわが見し ぬばたまの 黒牛潟を 見ればさぶし」
(過ぎし日に、妻と二人で見た黒牛潟、その黒牛潟を、今一人で見ることの寂しいことよ)
万葉集にあるこの歌は、柿本人麿が詠ったものです。
万葉の頃は、この辺りは遠浅の干潟の海で、波打ち際には黒牛に似た大きな岩があったことから「黒牛潟」と呼ばれていました。
満潮には隠れ、干潮には現れる黒牛の干潟の景色は歌人に愛され、「枕詞」になったのだそうです。
もうひとつの中言神社へ向かう途中、立派な鳥居があったので立ち寄ってみると、驚いたことに、竈山神社の鳥居でした。
敵の領土にあって、こんなに離れた場所にまで物部イツセの御陵の鳥居があるというのは、驚きです。
驚きも冷めやらぬまま、辿り着いた場所は、これまたびっくりするような場所でした。
細い道脇の、さらに側道のようなところを登っていくと
鳥居がありました。ここで間違いないようです。
どんなところだろうと訝しんでいましたが、
思いのほか立派な神社です。
中言神社と
住吉神社が並んで鎮座しています。
その横には、遷座された恵比須神社もありました。
かつては数多く存在していたという中言神社。
今は街中に埋もれるようにひっそりと身を置き、竈山の先に、青い名草の神奈備を仰ぎ見るのでした。
五条様 おはようございます。
昔々私が若かりし頃、和歌山市内で忘年会か何かのおり、飲んだお酒がとても美味しく感じられたので店の人に聞くと「黒牛」という海南の酒だと教えて貰いました。海南で黒牛?ということで調べたところ、海南の海は昔、黒牛潟・名高浦と言われていたことを知りました。
黒牛の海 紅にほふ ももしきの 大宮人し あさりすらしも 巻7-1218
紫の 名高の浦の 砂地 袖のみ触れて 寝ずかなりなむ 巻7-1392
紫の 名高の浦の なのりその 磯になびかむ 時待つ我れを 巻7-1396
黒牛潟 潮干の浦を 紅の 玉藻裾引き 行くは誰が妻 巻9-1672
古に 妹と我が見し ぬばたまの 黒牛潟を 見ればさぶしも 巻9-1798
紀伊の海の 名高の浦に 寄する波 音高きかも 逢はぬ児故に 巻11-2730
紫の 名高の浦の なびき藻の 心は妹に 寄りにしものを 巻11-2780
和歌浦にも匹敵するような万葉の故地を酒の名前で知ったという恥ずかしいような思い出です。
当時は「黒牛」という酒はそれほど有名ではなかったように思うのですが、今では私の住んでいるところでも簡単に手に入るようになりました。
asamoyosi
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和歌山は今も素敵な所ですが、海岸線がもっと内陸寄りだった、島々が浮かぶ様を見たかったなと思います😌
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