出雲国造館:八雲ニ散ル花 02.5

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出雲大社の駐車場に車を駐めて境内に入ろうとすると、まずこの「神楽殿」(かぐらでん)が目に入ります。
拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿は明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来するそうです。
あまりに立派すぎるその建物は、何も知らない人が見たら、これが出雲大社かと勘違いしてしまうのではないでしょうか。

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そしてさらに目につくのが、その巨大なしめ縄です。
国内一の大きさを誇ると云いますが、同じく国内一を自慢する宮地嶽神社のしめ縄と、どちらがでかいのか気になります。
しめ縄に小銭を投げつけ、ハマって落ちてこなければ幸運が訪れるといわれていましたが、今は刺さらないように金網が張ってあります。

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「出雲大社教」(いずもおおやしろきょう)とは何か!?
それは出雲国造の千家氏が祭祀する宗教法人です。

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出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝でありましたが、1344年にお家騒動があり、「千家氏」(せんげし)と「北島氏」(きたじまし)に分かれました。

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第54代国造「出雲孝時」(いずも のりとき)は、子の六郎「貞孝」を寵愛し、国造を継がせようと考えていましたが、孝時の母「覚日尼」から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受けます。
結局「清孝」が第55代国造となるのですが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎「孝宗」を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま国造職を孝宗に譲ることとしました。
これに対して貞孝は、話が違うと猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿に立て篭もるなど、紛争状態となりました。

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事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、旧王家・杵築大社頭の「向家」に裁定を促し、貞孝は「北島氏」、孝宗は「千家氏」として二つの国造家を並立させ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせました。

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やがて明治時代には、出雲大社自体が国の内務省神社局の管轄(社格は官幣大社)となり、千家氏は「出雲大社教」(いずもおおやしろきょう)、北島氏は「出雲教」と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれることとなりました。

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さて、その千家家が建てた神楽殿は、表からはある意味、大社よりも存在感を放っているのに、裏に回ってびっくりです。
大社本殿とは別に大国主大神を祀ったと云いますが、肝心の本殿はあまりにこじんまりしていました。

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そしてそこには鎮守社が並んでいるはずですが、改築中でした。

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鎮守社を彩る面々は穂日を始めとする渡来系の神々です。
出雲古来の神々は申し訳程度に名を連ねていました。

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出雲大社本殿を挟んで、千家国造館と反対側に「北島国造館」があります。

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神さびた小川を渡ります。

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とても静謐とした石畳の道が続いています。

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威風堂々とした門構えですが、神楽殿のような、これ見よがしな虚飾は感じません。

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当初、「出雲教」という響きは、ちょっと新興宗教くささを感じていましたが、ここにきてそれは間違っていたと思い直しました。

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富家の話では、もともと北島国造家は大社本殿奥の本家屋敷に住んでいたそうです。
神仏習合によって大社境内に仏閣が立ち並び、今度は神仏分離でそれらが取り払われました。

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その跡地に北島家が住んでいた本家屋敷が移築されたということです。

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つまりは、北島家が、本来の出雲大社の本家であったということです。

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松江藩の儒者「黒沢石斎」が「出雲十郡誌」を執筆する際、千家家から書き直しを求められ、石斎は千家家だけの話を聞いて1661年に片寄った話の「懐橘談」(かいきつだん)を書き、世に広めました。
それには千家家が本家であるかのように記されていたということです。

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北島国造館の大社側にとても古めかしい「四脚門」(しきゃくもん)があります。

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そこにある鯉と龍の彫り物がとても見事です。

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1872年、1月8日に、唐突に北島国造館が火災に遭います。
そしてタイミングの良いことに、1月12日、千家家は出雲大社大宮司に任じられます。
さらに1月27日、神社制度改正令によって北島家は、出雲大社の世襲職を免職となりました。

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この四脚門は当時の火災で焼け残ったもので、出雲大社神域で最も古い建造物だということです。

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四脚門に続いて、鎮守の杜が奥にあります。

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まっすぐ進んだ先には「御三社」があります。

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御三社は国造家祖神である穂日や渡来の神を、やはり祀っていました。
しかし、

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心字池と「亀の尾の瀧」に囲まれた、清らかな場所に「天神社」が鎮座しています。

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この天神社の祭神は、なんと「少名毘古那神」(すくなひこなのかみ)とあります。

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少名毘古那神とは古代出雲王朝時代の副王「少名彦」の事です。
そしてここで祀られる少名彦は八千戈王とともに出雲王国を治めた、向家出身の8代副王「事代主」(コトシロヌシ)のことと思われます。

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出雲国造の始祖「穂日」と「武夷鳥」は、八千戈王と事代主副王を殺害した疑いがあります。

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しかし北島国造家では、おそらく敷地内の最も清らかな場所で、こうして事代主を祀り続けていました。

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さらに隣には菅原道眞を祀る天満宮もあります。
道眞も出雲王家の血筋だという話です。

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「出雲孝時」が「貞孝」に国造を継がせようと考えたのは間違っていなかったのだと、ここに来て感じ得ることができたのは、大きな収穫でした。

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