
島根の大田市と飯南町にまたがる優美な山は「三瓶山」(さんぺいざん)と呼ばれる活火山です。
この三瓶山、『出雲国風土記』では「佐毘売山」(さひめやま)の名で記されています。
古代の出雲では幸神の三神を祭り続けていましたが、父神「クナト王」の篭る神奈備を「大山」、子神「サルタ彦大神」の篭る神奈備を「鼻高山」として崇めてきました。
そして母神「幸姫」の篭る神奈備として大切に祀り続けたのがこの「佐毘売山」だったのです。

古代出雲では、この佐毘売山から太陽が昇る姿に神秘を見て、やがて佐毘売山に祀られる神を「出雲の太陽の女神」と呼ぶようになりました。
後にこの太陽の女神は大和の三輪山に移され、「三輪山の太陽の女神」となります。
さらに後の時代、日葉酢姫の娘「大和姫」は、より太陽の女神にふさわしい場所を求めて東に旅に出ます。
そこで見つけた清らかな場所に女神を祀ったのが、今の伊勢神宮内宮です。
太陽の女神は後世、「天照大神」と呼ばれるようになりました。
つまり、日本人の総氏神であり、皇室の御親神の大元は、ここ佐毘売山にあったのです。
しかし当山は、今はなぜか三瓶山という意味不明で美しさのかけらもない名で呼ばれています。
元の麗しい、「佐毘売山」の名称に戻して欲しいものです。


ところで、その三瓶山にほど近いところに「物部神社」があります。
石見国一宮です。

背後にある「八百山」(やおやま)は神体山で、513年に社殿が創られています。

参道の脇には狛犬が鎮座し、さらに狛鶴がいらっしゃいます。
物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」(ウマシマジノミコト)が鶴に乗ってこの地に御光臨された伝えられ、神使となっているようです。

手水舎は、昭和57年の三瓶ダム開発の際に採掘された「含金石」とよばれる砂金を含んだ珍しい石の一枚岩で出来ています。

石に5つの曲玉が彫られていて、「浄の曲玉」「勝の曲玉」「財の曲玉」「健の曲玉」「徳の曲玉」と、それぞれ撫でて祈願するようになっています。

昭和13年(1938年)に建てられた拝殿。
重厚な風格に満ちています。

当社の神紋は赤い太陽を背負った鶴で、「日負鶴」(ひおいづる)となっています。
全国でも唯一の神紋で、稀なデザインです。

祭神のウマシマジ、『日本書紀』では「可美真手命」と表記されます。
記紀では「饒速日」と長髄彦の妹「三炊屋媛」の間の御子となっていますが、物部神社・社伝によれば、天香具山命と共に物部の兵を率いて、尾張・美濃・越国を平定した後、播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の賊を平定し、ここの八百山の麓に宮居を築き、この地で没したとなっています。

まず記紀の内容ですが、饒速日とは、支那秦国からの渡来人「徐福」のことで、長髄彦は尾張家の「大彦」です。
大彦の10代ほどの先祖が饒速日なので、記紀のウマシマジは架空の人物であることが分かります。

また神武東征の前半のストーリーは「五瀬」と「稲飯」、「三毛野」の3兄弟が登場しますが、五瀬が戦死したあと、残りの兄弟の名は出てこなくなり、代わりに「ウマシマジ」が登場します。
つまりこれは五瀬に代わって指揮をとったのが、どの弟のなのか、記紀の製作者には分からなかったので、名前を創作して使ったようなのです。

実は「武内宿祢大田根」の弟に「甘美内宿祢」(ウマシウチ)がいました。
宇摩志麻遅は彼の名を使ったようです。
ちなみに穂日家の「甘美韓日狭」(ウマシカラヒサ)も彼の名を引用したのだとか。
人気のある名前だったのでしょうか。

したがって、当社の社伝によるウマシマジも、架空の名前ということになります。

では、物部神社に祀られる主祭神は誰なのか。
富家の伝承では、物部の「朝倉彦」の軍勢が日本海を東に進んできたとあるので、ここでいうウマシマジは朝倉彦将軍のことだったのではないでしょうか。

第2次物部東征で朝倉彦が出雲制圧のための拠点とした場所が、当地、物部神社なのだそうです。

物部神社の本殿です。
宝暦3年(1753年)に再建され、安政3年(1856年)に改築されたもので、高さ16m、春日造りとしては全国一の大きさです。

数々の境内社の中で、ひときわ存在感のある「後神社」。

主祭神の妃神「師長姫命」(シナガヒメノミコト)を祀っています。

社務所に面白いものがいろいろありました。

目を引くのが、鶴の焼き物のおみくじ。

この手のものは、最近神社でよく見かけるようになりましたが、可愛いものが多く、つい買ってしまいます。

また、ちょっと凄そうなお札がありましたので、買ってしまいました。

物部神社は、宮中でも行われている「鎮魂祭」を行うことで、石上神宮および彌彦神社と共に有名な神社です。
鎮魂というと霊を鎮める祭りをイメージしますが、本来はその逆で、活力を与える・復活を促す・甦る・悪影響をもたらすものを払拭するという意味を持つ、「祓いの本義」であると云います。

鎮魂の儀では、「宇気槽」(うきふね/うけふね)と呼ばれる箱を伏せ、その上に女官が乗って桙で底を10回突く「宇気槽の儀」が行われるそうです。
これは神話の岩戸隠れにおいて「天鈿女」が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされています。
また、鎮魂の儀の後、天皇の衣を左右に10回振る「魂振の儀」が行われます。
これは饒速日が天津神より下された十種の神宝を用いた呪法に由来するとされ、死者をも蘇らせる、強力な呪法であると言う人もいるようです。


境内の隅に「御腰掛岩」なるものがありました。

「勝石」とも呼ばれるようで、宇摩志麻遅命が天降った時に腰掛けたと伝えられます。

撫でるとすべての願いに通じる「勝運」を授かるとも言い伝えられています。

さらにその先に上へと続く、気になる階段がありました。

その先は神体山である「八百山」山中に到る道でした。

少し登ると、謎の建造物に行き着きます。

何かの像の台座のように見えます。

そこから先の道には、結界がありました。
この先は聖域ということです。

木の根道などの山道が続きます。

結構登るものと覚悟していましたが、十数分で目的地にたどり着きました。

それは石垣の上に、ひっそりとありました。

物部神社の元宮、「御神墓」です。

物部東征に尽力した宇摩志麻遅命の陵墓と伝わります。

往古に激しい戦いの歴史を刻む場所。
永い時を経て、八百山の杜の木に囲まれた聖地は、すがすがしい光が差し、爽やかな風が吹き抜けていました。


narisawa110
島根で地震があった様ですね。御神陵心配です。
島根・松江方面にお住まいの方々に連絡をとってみました。
全ての返答をいただいたわけではありませんが、今のところ大きな被害は出ていないようでした。
余震もありますので、ご注意いただきたいと願います。
narisawa110
よくよく考えてみたら、「佐毘売山神社と三瓶山神社、そして物部神社の関係」って、全く分かってない気も致しますね。(佐毘売山神社と三瓶山神社は別なのかどうかもまだ勉強中)
太田・邑陁(おおた)や、多根、多根氏の関係で調査をしていたら副産物として難解書物の石見八重葎(いわみやえむぐら)と、初めて聞く佐毘売山神社の事がヒットしました
石見銀山の佐毘売山神社は、全国一の規模の山神社という位置付けであったようです。佐毘売山神社が現在の形になる前は、かつては須勢理毘売命に寄せた信仰があった様です。穀物神であり、水神であり、三瓶山の多根にシャーマンの伝承が残っているそうです。(郷戸家の事なのか?)
昭和期には須勢理毘売命の神籬地も残っていたらしいですが、現在は水田と道になっている様です。(所在の分からない姫社の事か?)
古代佐比賣山の山麓では8ヶ所の湧水地に佐比賣山神社があったそうで、878年にお大師様信仰が流行り、8社同時に「八面神社」と改名。(江戸末まで)
明治にはいり佐比賣山神社に戻る社や以前の八面のまま、八幡社に合祀された2社があり、他は佐比賣山神社(三瓶町多根)、高田八幡宮(三瓶町池田)、八面神社(三瓶町志学、八面神社(三瓶町上村)などになっているようです。
千本杉の地にあった佐比賣山神社本宮は明治期に陸軍演習地になり消滅。悲惨な運命をたどった様ですね。
物部神社に関しましては、まだまた「基本的な処が全く分かってない」事が自覚出来ました(TT)
ここに来て八面ですか。
八面は八女だという人もいます。
新たな謎ですね。
narisawa110
夏花さんと、伊佐姫、ヒコイマス、上家の方を調べるために先代出雲口伝の伝承者の記述がある但馬故事記の本を引っ張り出して調べてたら、副産物で御師信仰=空海の事がでてきました。
十種神宝の写しを書いたのが、空海だったのですね。お父様が佐伯家、お母様が阿刀氏です。一般的に佐伯氏は二系統あって、片方が大伴系(神門臣)もう一つが、景行天皇系、つまり物部氏です。空海のお父様が播磨佐伯氏の様なので、物部氏。阿刀氏も物部氏。因みに熊野国造家は確か、大阿斗宿裲からでしたね。タカクラジの系統と言われています。佐伯氏も、神門と物部氏の不思議な縁となっている様です。話は飛びますが、三瓶山真北に伊佐姫を想像させる伊佐川の水源地があります。
八面信仰を推し進めていったのは、どうも物部神社の様な気がしてきました。十種神宝に関する信仰が起因していると妄想いたします。三瓶山の八宮「さんべさんのやつもと」が出来た頃は、物部神社を中心とした結束力があったのではと思います。
三瓶山は修験道よりは密教の方が流行ったんじゃないかと思います。
別件ですが、スセリ姫を祀る姫社に関しては、私は静間川の水源地に当たる高田八幡の東側の「田んぼと道のどんずまりの奥」が宮跡と考えていますが、他説によると中津森の佐比売山神社より約400メートルほど下った下多根と呼ばれる場所に、下津森の天宮(あまみや)と呼ばれる小さな祠があり、併せて比売塚があったとも言われています。
話を八面に戻しますと、安永4年(1775年)に池田村社司の福谷越前が物部神社に差し出した記録に、「八面大明神 三瓶山又形見山トモ云 麓八ヶ所祭所如左」として、「池田村三瓶谷一座、久部村氏社一座、志学村氏社一座、多根村氏社一座、山口村藤木社一座、角井村湯比社一座、同村土木社一座、上山村氏社一座、右何レモ佐比売山神社也」とあるそうです。この頃までには色々分かれてしまったようですね
八面は修験ではなく密教ですか。
そういえば密教については、あまり考えたことがありませんでしたね。
さすがnari様… 全く触れていなかった部分まで見抜かれてしまいました。 高野山真言宗・真言密教は金子家でも重要な意味合いを持っています。一昨日、関係の寺に行ったばかりです😅
前に別記事にコメントさせていただいたり、私のブログにも書いた寺は神仏習合の祭りも行う真言密教の寺、神社から神職を招いて現代も星信仰合同祭祀しています。決して袂を別かったとは言えない縁ですね。
しかし神門と物部は幾度の機会縁を結んだのでしょう… こちらだけでも数度確認できますが。
narisawa110
ご教授いつも感謝であります。
調べたところ空海は、島根県に来ており、伝承が残っているんですね。
何となくなんですが、金子様の家系は、記憶力に優れる人がたまに生まれたりする家系の気がする。
そういう人は見てもらうと虚空蔵菩薩の加護があるやらなんやらと言われることが多いみたい。
いえいえ、ありがとうございます。
記憶力ですか💦 近代でも何人もおりまして、
私も40代くらいまでは… 今は見る影もないです😂
物部の秘技呪術も陰陽道と繋がり、密教との関係も考えていました。
類似したところが多数あります。
富士林先生の著でも高知県香美の名がしっかり出ていますが
今も香美市に伝承されている陰陽道酷似の物部式祭祀「いざなぎ流」も同系じゃないかと思っています。
なんだか呼ばれてる気がするのですが😂 古代佐毘売山信仰自体は本来媛巫女シャーマンが行い、伝統が今に続く(うち以外にもあるはずです)と見ていただいて良いと思います。現在神社の体をなしていない祭祀場ももっと複数あるでしょう。
>現在は水田と道になっている様です。(所在の分からない姫社の事か?)
これなどもそうだと思います。
三瓶山神社も石見銀山側の佐毘売山神社も後年名付けているものですので、実際の祭祀はそれぞれどの形態でいつ頃からなのか。
石見銀山の歴史そのものがだいぶ後のことで、銀山以前にその地に古代佐毘売山信仰があったかは謎です…
物部神社が石見銀山守護を標榜するのも戦国近くのことですしね。
>千本杉の地にあった佐比賣山神社本宮は明治期に陸軍演習地になり消滅
( ;∀;)そうなんです~ うー😭
物部神社自体が建ったとされる継体期には東征後300年も経っていて、郷戸の血の者も物部の者(直系とは言えない)もMixされていて大元は山の媛巫女から海沿いまで降りてきている我が女系が金子氏の嫁になり後に…
神社自体も「物部の本拠」と、東征時はともかく後年言うにはどうなの?とも🤭
あ、言っちゃった。
ややこしいのですが、佐比賣山神社(多根)・佐毘売山神社(銀山)は由来別々で接点は無く、多根の方は金子家とも繋がっていました☺️←今調べた♪ 銀山の方は姫山神社→益田との繋がりで大内氏によって…
narisawa110
2015年に三瓶山を縦走していたので当時の写真を掘り起こしてみました。(出雲ファンに贈るシリーズ書いちゃおうかな~と思いますが・・)
話は変わりますが、御神陵の向かって右側が少し変わっているんですね。昔は台座のみでその右に石に文字が刻まれたものが建っていました。今は台座の上に神社祠のみの構成になっています。何の神様なんでしょうね。
話を戻しまして
①多根の現在の佐比賣山神社は、別系統
②太根の現在の三瓶山神社は由緒看板を撮影していたので、旧名称が佐比賣山神社という事が判明。(おそらくこちらが金子様由来)
こういう事の様ですね。
あと、大内氏!もしかして越智系ではありませんですかね。河野家からの分家じゃないかと思われます。そう仮定すると、富家系と三島系で銀山を争ったわけですか。
現在の宮司様も山田さまでしたっけ。古代豪族系図集覧をみると「山田(物部)」がございました。本来は布留(山田)となるようで、つまりは物部市河系。物部額田の次の日向さんから分かれ、市河さんから21代で山田清俊さんが出ておりました。山田さんも春日(郷戸)に近いという事なのでしょうか・・
>神社自体も「物部の本拠」と、東征時はともかく後年言うにはどうなの?
まって、まだ待ってwwwロマンがwwww
仮説を立てて妄想するのも楽しいものなんです。
出雲ファンに贈るシリーズ、ぜひやって下さい☺️
さて、御神陵ですが、近年随分改修されてうちにも寄付要請の紙が😆
古い石柱外して鳥居と石柵立てたのは2019年だったと思います。島根県西部地震の翌年ですね。
下の石柱手前の謎の構造物共々、ウマシマジ関連のものを現墓に統一する意味で今の柵で囲われた範囲を新結界としているように思います。ウマシマジが何たるだし、墓?とは(禁句)🤭
あの丘自体、御神体の山と佐比賣山を拝むための場所と認識しております。下の一瓶社などではなく😝
またロマンぶっ壊してる🙇♂️
銀山は後年とは言え、三島越知が絡んできたら面白いですね(;゚゚)
>宮司
佐毘売山神社のでしょうか? 物部神社? 物部神社は中田家になります。
大田には御親戚多いです。
さひめ関係の神社各社の宮司さんはお付き合いなく存じ上げませんです…🙏
narisawa110
物部神社3回訪れて、未だ快晴の無い私が通ります。
長田君家(こちらが金子氏に変化?)と、川合君家に関して、もしご存じの事があればお手すきの際にご教授いただきたいです。本を見ておりましたが、24代保道さんの処に推定で長田と挿入されています。川合君家の系図はやっぱり無いのでしょうか?
昔は君家を名乗られていたんですね。
金子氏を名乗る前まで記載の図を出して確認いたしましたが、長田の記載は24代保道の代だけで、本流が長田君家とは言いきれないと思っています。同時代の近親者に長田姓の記載がありません。
親族縁で継ぐのが多いのは女子の側で、過去に嫁を出した家から数代後に継承者をという例もあり複雑です。 金子自体が建久三年以前は男系の姓でないことも含め、本家と直結の長田君やそのものの系図があれば言うことありませんが… 河合君ともども私が見られる環境のものには全くありませんでした。
>快晴がない
晴れ女媛を召喚するために予め日程を… 😝 もっとも島根は一日の中で「晴れたり曇ったり雨か雪が降るでしょう」の予報が当たる地域ですので時間帯の運も💦
先月は杵築大社では雨パラパラでしたが物部神社と熊野大社はスッキリ晴れました。
narisawa110
Σ( Д )ﻌﻌﻌﻌ⊙ ⊙
ほ、本日も、前ド級戦艦オリョールからの砲弾有り難うございます。見事に直撃でございます。(汗)戦艦石見は鹵獲の船だったのですね。
建久三年(1192年)のご党首は道実さん。それ以前が男性でない・・。単純に系図を見ていただけでは分からない情報でございます。有り難うございます。
私が考えていた事を正直に申しますと、金子様のお宅が八網田の系統なのか、トオチネの系統なのか、ずーっと棚上げにしてきたという事があります。これは夏花さんの事が出てからになります。物部君祖、朝倉君祖との事で、「君」なので毛部(もののべ、→毛野)という事でしょうか。つまり、「君」という共通点ですね。
太田亮先生の『姓氏家系大辞典』では、高良大社社家の物部氏について、物部連氏あるいは物部君夏花の末裔であるかとし、武内宿禰(亦名玉垂命、亦物部保連)としての系図を書いています。つまり草部氏に近い存在として推論を展開しています。
しかし、太田先生の本も含めた本である「古代豪族系譜収攬」にも、物部君、朝倉君は情報がありません。
一般論としての夏花さんはWIKIだと「藤原恒見君、長田川合君、三川蘰等祖」とありますが、石見国一之宮物部神社にはトオチネさんも胆咋宿禰も居ないような気がします。
私が持っている古代豪族系譜収攬の「物部(長田・金子)物部神社宮司家の系図」は「姓氏家系大辞典」「大日本人名辞書」「現代華族譜要」「昭和新修華族家系大成」からまとめられておりますが、注釈が興味深いです
抜粋「この系図は他に比較対校すべきものがないので、初めの部分などやや疑問なしとしないもののそのまま掲げた。また石見国造であったとされ、始め長田君と川合君に分かれて、それによって川合国造の異名もあったという。しかし国造本紀に見える石見国造は紀伊国同祖とあってこの系統とは異なる。長田氏は後に金子氏に改めたと伝えられるが、その由来、および時期は明らかでない。金子氏を称するようになってのち、その祖を金子十郎家忠にかける説が生じて、あるいは平姓とも言うようになったらしい。系図中、人命の肩に「長田」「金子」としたのは推定による。」と書かれています。そう注釈がありながら川合君家が全く出てこない不思議な系図なのです。更に長田君家と川合君家が別になっています。
一方、ホツマツタエだかには『オホのタケモロ 紀のウナデ モノベナツハナ この三人 遣りて形を 見せしむる』38文とありますので、まるで国造本紀の、紀伊国同祖のような事も書かれています。最後の手段で磯部氏も調べたんですが、夏花さんから続く系図は調べてもでてきませんでした。
紀伊国造家であれば、武内宿禰以外に、出雲には額田宿祢(旧ウマシウチ宿祢)が居た可能性があります。本当は神門家と習合した物部氏という事であれば、その後の日御碕神社の小野家の郷戸化につながるので、流れは悪くないのですが金子先生のおっしゃる「東征失敗組」にはならないと思うんです。これはトオチネにしても同じですね。
もうお手上げでございますwwwww
おはようございます。無自覚に砲弾撃ってしまったようで💦
当事者は軽く「金子姓って何らかのヤバい事情があって后からもらったんだよね」←媛談
こんなレベルで済んでいるのですから(((o_ _)o
>古代豪族系譜収攬の「物部(長田・金子)物部神社宮司家の系図」
これは所有しておらず、まさに興味深い記述に驚きます。
>長田氏は後に金子氏に改めたと伝えられるが、その由来、および時期は明らかでない。金子氏を称するようになってのち、その祖を金子十郎家忠にかける説が生じて、あるいは平姓とも言うようになったらしい。系図中、人命の肩に「長田」「金子」としたのは推定による。」
そりゃそうです。という部分と、平姓に関しては桓武平氏の金子から平氏を名乗ったほうが良い時代があったのかも知れないと…
他地域でも平氏さらに落人で生き延びた家系がある由。
まだ謎であるのが夏花に何故こだわるかです。
神門との縁で双方の血を引くと記されている(断片だけ教えてもらえている女系口伝)があり
富家伝承同様にここは譲れない核の部分。
「東征失敗組」は近親者の一部で、故に宮崎に現代まで1800年居着き石見には戻らない一派と捉えると両立しうるかと考えています。
>本家と直結の長田君や
>・・・石見国には、物部神社宮司家のさらに本家と呼べるお宅があるのでしょうか?
ここは一次情報は全く無い部分です。物部姓から金子姓に至るまでの間に、「宮司は家督または襲名者が、血はさらに別に」 となるとお手上げになります。
言っちゃいましたね😁
本日、物部神社の御神陵が、酷く荒らされました。言語道断です。
もし一連の書き込みに何か言いたいことがあるのなら、堂々と私のブログにコメントかDMを送って下さい。
防犯カメラはあるようなので…
インスタから
https://www.instagram.com/p/DQnymJKgYWu/?utm_source=ig_web_copy_link&igsh=MzRlODBiNWFlZA==
許し難い事です。
防犯カメラがあるのですか。
どのような経緯でこうなったのか。
神社さん側の完璧な返しで収束できそうなのが本当に幸いです。
あえて5分17秒の長い動画に解説付きで
「ぜひご参拝下さい」
この一言で全て見事な陽動作戦。
まるで裏をかいて正面戦闘を避けた遥か昔のようです☺️
あのインスタには、感動しました。
今回の件は、石の倒れ方からして、実際はどうなのかということを考えていました。
・完全なる故意で行った
・いけないとは分かっていて、玉垣内に入って、過失で倒した
・動物(猪や熊)が倒した
あるいは、これは僕は否定しますが、神意や波動的なもので倒れた、まで考えようと思えば、考えられます。
僕は現場の状況は、掲載された1枚の写真からしか推察できませんでしたが、見た感じは下の石はさほど荒らされず、立石のみ倒されたように見受けられました。
故意であれば、もっと派手にやったのではないかとも思えますし、猪や熊であっても、もう少し現場は荒らされていたのではないかと思います。
カメラがあって、神社側は状況を把握しているのであれば特定されていることだと思いますが、僕は2番目の過失が近いように思えます。
もちろん、玉垣内に入ること自体が非難されるべき愚行ではありますが、過失であれば、石を倒してしまったことと玉垣内に入ったことも含め、本人が一番、侵した行為に恐れおののいているに違いありません。
そうした各ケースを踏まえ、あの動画は人を呼び、人の目を置くことで、気持ちよくルールを守っていただく、そのことをよく考えられたものであると、感心しました。
神社に近い人ほど心穏やかではないはずですが、立ち入り禁止にすることなく、聖地を守り続けていこうとされる神社関係者さんや氏子さんたちに、感謝の気持ちを伝えたい限りです。
それでこれは全く余計なことなのですが、石を倒したのが人であれば、散々非難されるのでしょうが、動物の場合はどうなのだろうか、と、またくだらないことまで僕は考えてしまいました。
バチが当たる、呪いを受けるなどというのなら、石を倒してしまったのが猪や熊だった場合も、そうなのだろうか、と。
為してしまったことに対して邪心があるかどうか、がこの場合は肝要なのかもしれませんが、純粋であれば禁を侵しても良いのかどうか。難しいところです。
詳細な考察、誠にありがとうございます。
倒されていたのは石碑だけではなく、右隣の木造の祠も台座から外され
転がっていたそうですので、人間の故意説が残念ながら強まっています。
イノシシや熊の体当たりではこの位置や外れ方にはならないと言われます。
石碑ともどもわざわざ手を掛けて移動し、
念入りによく見えるような位置に…
木造祠はバラバラに破壊が簡単にできるのにせず転がすだけ。
そのように徹底的な攻撃をしなかったことも、むしろ気がかりで
「今回はこれで済ませてやる」と敢えて形を残して止めるような
メッセージでないことを祈るばかりで、そのような根深い怨嗟が一番困ります。
神社への嫌がらせは単純な愉快犯が起こすスプレー落書きやゴミ投棄等から
放火まで各地色々ありますが、メッセージ性を感じる今回は気持ち悪いわけです。
そのような事柄も承知の上で宮司さんはじめ氏子さんまで皆さんが全く怯まず
動画を製作されたこと、真の強さを見た思いです。
邪神なき動物がやったとしたら、神界は気にされないことと思います☺️
それは強風が吹いたり地震が起こった場合類似と捉えられそうです。
この御神陵の石柱も2018年の島根県西部地震で倒壊しておりますし。
なるほど、そのような状況でしたか。
故意であり、且つ再犯の可能性が高いのであれば、然るべき処置が必要ですね。
物部憎しの人であっても、聖地を荒らすという行為は日本人であれば気が引けるというもの。そうではない人の仕業、ということなのかもしれません。
追伸 失礼いたしました。木造の方でなく石造の社でした。
一人で動かせるレベルではないものです…
https://www.instagram.com/p/DQnymJKgYWu/?img_index=3
三枚目画像に置き直し後がありました。
複数人での仕業ですか。
イノシシであれば、かなりの重さのものを動かすこともできますが、状況から見て人の仕業なのでしょうね。
一周回って私もそう考える様になりました。
元々、姓は、女ヘンですしね。
何だか橋本に当てられて、葺石のあの一つ一つが要石に見えなくも無いです。
物部神社って、中央の拝殿だけ見ると、配置が佐田神社に似ている気がしますね。
もしかしたら、昔は本殿が3つあったのかもしれませんね。
裏手の御陵と言い、僕もそう感じていました。
佐太神社が富家の幸姫の御陵だとしたら、こちらは元は郷戸家のそれだったとか。佐比賣山にも近いですし。