出雲四大神の一柱を祀る「能義神社」を訪れました。
出雲四大神を祀る、と言いつつ、寂れた感のある神社です。
参道横にあった稲荷社も、放置気味です。
出雲四大神とは、どのような神様なのか、それは『出雲風土記』(733年)に次のように記されています。
熊野大神(くまのおおかみ)=スサノオ
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)=大国主
佐太大神(さだのおおかみ)=神様の別名は風土記には記載がないが、サルタヒコとされる
野城大神(のきのおおかみ)=神様の別名は風土記には記載がないが、アメノホヒとされる
そして、この四大神を祀った社として「熊野大社」「杵築大社」「佐太御子社」「野城社」があると云います。
しかしこの四大神の設定には、疑問があります。
熊野大神=スサノオということですが、熊野山に祀られる神は事代主であり、その後のどさくさでスサノオに書き換えられています。
佐太御子社は、現在の佐太神社のことと思われ、幸神のサルタ彦にあたります。
他、大国主命となるなら、そこに野城大神としてアメノホヒが当てはめられるのはおかしい気がします。
さて、その四大神の野城大神を祀っているとされるのが「能義神社」です。
階段を上った横に、出雲龍神が祀ってあります。
祀られて時が経っているのか、藁が崩れています。
当社の鎮座地は島根県安来市能義町、往古には東出雲王家の領地の中心にあたり、王の海に面した場所でした。
ということは、ここは穂日家の聖地ではなく、富家のそれであったはずです。
拝殿の前には、賀茂別雷神社で見かけるような砂盛りが二つ、ありました。
そもそも、『出雲国風土記』は、穂日家の27代「廣島」が編纂をしました。
そこには穂日家に合わせた由緒が記されていても不思議はありません。
一説には、当社の初めは「峠の神」であるサイノカミ3神が祭られていたと云います。
それが、やがて女神の「野城の大神」だけが祀られるようになり、「野城」は「乃木」の地名に、また「城」の漢字がシロと誤称されて、「乃白」の地名になったと云われています。
立派な本殿ですが、やはり少し廃れた感をにじませています。
境内には藁の荒神の祭祀がやたら目につきます。
そして境内社の一つに、「野美社」があり、野見宿禰が祀られていました。
野見大田彦は穂日家の血族であると記されていますが、実際は富家の17代少名彦で、穂日家とは全く繋がりはありません。
そしてふと、思いました。
能義とは野見のことではないだろうか、と。
出雲四大神の野城大神が野見宿禰だとすると、スッキリするような気がします。
本殿の裏手には円墳を中心とする能義神社奥の院古墳群があるそうです。
出雲には穂日家、いわゆる国造家の古墳は1基も存在しません。
穂日家は水葬で弔うことが常であったからです。
過去の歴史で戦があり、敗者の領地を勝者が征服し、その由緒などを書き換えてしまうことなどは、よくあることです。
古代日本では、敗者の王家が皆殺しにならなかっただけ、マシなのかもしれません。
であるならせめて、乗っ取った聖地の管理の責任くらいは全うしてほしいと、寂れた神社を見て思いました。